長編小説 | ナノ



 Gens comme la brise de printemps


Y

宿の務めを休ませてもらってからの一週間は、部屋から殆ど出ずに本を読み漁って過ごした。
一日中読み物をする事には抵抗が全くない。尚且つアジュールがいつの間にか大量に仕入れてくれた書物が興味をそそられるものばかりだったので、普段では味わえない新鮮さを楽しむ日々が続いた。

けれど休息して二週目に差し掛かっても、声は戻らなかった。それ以外の体調も変わりは無く、医師も首を捻るのみであった。
穏やかな毎日の代償として徐々に鈍り出す身体に危機感を覚え、何か手伝いたいと家族に相談したが、残念ながら暫く様子を見た方が良いと要求は返されてしまう。
めげずに、回復して普段の生活に戻った時に足を引っ張りかねないからと説得を重ねて、結果近場ならば外に出ても良いと許しを貰った。

未だ原因一つ解らない現状に不安は拭いきれていない。焦ることも、心が痛むこともある。
けれど、そんな時は時計に触れながら生前の母の姿や憂いを感じさせない笑顔を思い出す。そうすれば穏やかな心緒を取り戻せた。
暫く表へ出ていなかったので、早速近場を当てもなく歩き回る中、町の人々は私を見掛けると揃って憂慮し声を掛けてくれた。
どうにか彼らに心配はないと伝えたかった。ふと母の真似をする様に笑い掛けると眉尻を下げて気遣わしげだった周りの人々が、朗らかに笑いを返した。きっと私の思いが伝わったのだと、そう思う。
心安さを覚えてからは、失声する以前よりも人に笑い掛ける事が増えた。それが正しいことなのだと信じて、私は笑顔を皆に向け続けるのだった。

一月近く経過し、春の息吹に虫や花達が目を覚ましたように挙って姿を現した時分。
私は宿からそう遠くない一件の花屋へ、手伝いとして依頼していた生花を受け取りに訪れていた。

鮮やかに咲く花々が出迎える店先。
その店ではいつも、笑顔で客を見送った後に花を運び出したり、世話をしたりと、大きめな体にやや不釣り合いな小ぢんまりした範囲で、中年の男性が忙しなく動き回っている。今日もその様子は変わらずそこにあった。
彼は私の姿を眼に映した途端、少々厳めしい面持ちを花が咲いたように輝かせた。次に店の奥から転がるようにして出て来る。

「よく来たね!身体の調子は良くなったかい?」
彼こそ花屋の店主のパトリックだ。
彼とは宿の仕事を手伝うようになって直ぐ、客室に飾る花の買い足しで訪れる内に会話を交わすようになり仲良くなった。
毎日近くを通れば元気に声を掛け、時折秘密で可愛らしい花をくれる、陽気で繊細な人だ。

喉の不調は未だ治ってはいないが身体は健康そのものなので、身体が鈍らないよう手伝いをし始めたと筆談で伝える。
「そっか。少しずつ仕事をさせて貰えるようになったんだね」
彼は、私の心情に同調するように、「良かったね」と注文していた花束を手渡す。
パトリックの営む花屋と我が家の宿屋は長い付き合いにあるので、わざわざ詳細を説明するまでも無く意思疎通出来る。
今回の手伝いは荷物としても少量でただ受け取るだけで済む。仕事とは名ばかりで、子供でも容易にこなせる程度のお使いをしているに過ぎない。けれど、微々たる手助けでも、家族の為に働いていると意識できるのは、彼が掛けてくれた言葉の通り嬉しいものだった。

「はい、ささやかだけど僕からのお祝い」
春らしい淡い黄色の紙で小さく包装された、可愛らしい花束が眼前に差し出された。
受け取り中を覗き込む。瑞々しい桃色の薄く繊細な花弁を幾層にも重ねた大きめな花が二輪と、白い小鳥に見える小振りな花がその茎を覆うように散りばめられ纏まっていた。

「少し元気になったのと、仕事復帰のね。快復祝いはもっと豪華な物を用意するつもりだから、楽しみにしててよ」
こんなに可憐な花束が自身に送られた物で良いのだろうかと、彼を窺う。パトリックは物柔らく丸みを帯びたような表情の崩し方で微笑み掛けてくれる。
ゆくりなく貰う贈り物の嬉しさに、私は喜びを包み隠さず笑顔で感謝を返した。

Z

翌る日、昨日までの平穏が夢であったと錯覚するような事態が起き、安寧が続く筈の日々に暗雲が立ち込めた。
パトリックが失踪したかも知れないとの報せが舞い込んできたのだ。
彼の家族に拠れば、店も家も金銭も全て残し、自室の明かりも付けたまま、夜の内に居なくなってしまってたらしい。
夜には酒場で談笑する姿も目撃されていて、誰もが事件に巻き込まれたに違いないと口々に噂した。

しかし部屋に荒らされた形跡も置き手紙等も無く、まだ日数が経過していない為、直ぐには失踪とも事件とも断言は出来ない。
数日に渡り近隣の住民達で隈なく町中や付近を探し回ったが、手掛かり一つ見つけられなかった。

パトリックと最後に会った日、彼に普段と異なる言動は見受けられなかった。
そもそも彼は、家族に何も告げずに家や仕事を放置するような人物ではない。
賛成したくはなかったが、彼が忽然と姿を消した原因は彼自身の行動に因るものではないと私も推測した。

パトリックに贈られた花は、窓辺で燦々とした光を体に受け、鮮やかに咲っている。
あの日の彼の微笑みを重ねて、日々願うしか出来ない自身の無力さがもどかしかった。

そして不穏への下降は止まらず、この一件を引き金に人が深夜の内に行方を晦ます事件がたった二週間の間で立て続けに五件も起こった。
不可解だが姿を消したのは全員男性だった。
彼等の失踪もパトリックの件と酷似していて、近隣や町を捜索しても、何一つとして手掛かりになる物は見つからない。
もはや人の手による事件ではなく、呪いの類や怪現象だとか、夜な夜な化け物が人を攫っているのではないか、と人々の間に不安が広まっていった。

私の心中も同様に、澱みが色濃く底に溜まっていく。
行方不明者は私にとって、パトリックのように良く知る人から顔見知りまで、親睦の度合いは幅広いが全員見知っている人物だった。
それに留まらず、彼等が失踪する一、二日前に私は各々と会い、調子を尋ねられたり、喉に効く食べ物や薬を分けて貰ったり、何かしらの接触があった。

とは言っても、此処は大都市とは違い顔も名も知らない人が殆ど居ない小規模な町だ。単なる偶然かも知れない。
けれど、まるで自身に関わる人々が消えていく感覚は拭えす、次は更に身近な誰かが突然いなくなってしまうのでは、と次第に夜が怖くなっていった。
眠る前には家族の寝室に赴いて、窓や扉の戸締まりはしっかりできているかを巡回確認するのが新しい習慣になる程だ。

アジュールには「自分達も気をつけているから心配しないで良いのに」と笑われたが、自分自身で家族の安全を確認しないと胸が騒めき、どうにも落ち着いて眠りに就けない夜が続く。

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数日後、とうとう私の心配性がアジュールに伝染してしまったらしい。一人で外出する事は控えて欲しいと唐突に彼に告げられた。
限定的な条件があるように見えても、昼間に女性が事件に巻き込まれない保証はどこにも無い。
加えて、いざという時に私は助けを呼べない状態だからという理由だ。

彼の提案に両親も同意していた。
私が家族の安全を過度に案じているのと同じ心境なのだと思うと、心配いらないなどと無下に拒否することは出来ない。
それに、外に出たければ、時間次第ではあるがアジュールが付き添ってくれるという。不可解な現象の原因が明らかになり町が安全であると確証が得られるまでは、言われた通りにすると約束し、私は再び外出を控えるようになった。

けれど、何もしないという訳にはいかない。外に出てみても身体には一切の不調は表れなかったのだから、未だに声は戻らなくとも間違いなく身体は健康そのものである。
外へは出ない代わりにそろそろ働かせて欲しいと頼んでみた。両親は当然ながら表情を曇らせ、首を縦に振るのを渋っていた。

すかさずアジュールに助けを求めて懇願の視線を送ると、彼は観念と呆れの入り混じったような笑みを零しつつも「医者からは行く度に体調は全く問題無いと言われるから、大丈夫だと思う」と助言してくれたのだった。
そのお陰で「怠けるなら兎も角、こんなに働きたがるなんて、不思議な子だね」と、皆笑って了承してくれた。

――何も努力もせず生きていくことは、私には許されない。

そんな性分はあるものの、この町の人々に受け入れられて少しだけ変わったことがある。
純粋に、私は此処での暮らしも仕事も楽しく、大好きだ。本当に、此処は居心地の良い大切な場所だ。だからこそ、少しでも誰かの役に立っていたい。

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こうして私の生活は変化を重ねて、朝方や夜は食事の準備や片付け、日中は客室の清掃等有効に時間を使えるようになった。
会話が必要な務めは出来ないので、持て余す時間はどうしても生じたが、案外それで助かっている所もある。
暫く動かないでいると、これまではそつなく熟していた作業に思いの外、体力や神経を使う。長い休憩時間があっても一日の終わりには疲れ切ってしまうのであった。

そんな少しばかり忙しない日々が過ぎ、体力も戻り始め、以前の感覚を取り戻した。それと同時に、ふと気付けばあれほど騒がれていた失踪事件は起こらなくなっていた。
……しかし行方の分からない人々が戻って来た訳ではない。
当時者の家族や所縁の深い人々にとっては一件落着とはいかないものの、町全体に蔓延る緊迫した空気が薄れつつあるのは明白だった。

私自身はというと、未だにパトリックの失踪に納得出来ずにいる。
事件が発生したばかりの時分は捜索を手伝わせて貰えず歯痒く思っていた事もあって、この緊張の緩和は彼の行方の手掛かりを探る好機だと思った。

もう長く日が経ってしまっているので、仮に見落としていた形跡が何処かにあったとしても、既に消えてしまっているかも知れない。
それでも、諦めるにしても、自分が納得出来る十分な証拠を発見するまでは希望を捨てたくない。

早速、陽の落ちる前には戻るので、義母に一人で外出したいと伝えた。
外に出るにはアジュールに付き添いが条件という約束だが、私の我が儘で長い時間彼を連れ回して迷惑は掛けたくない。
丁重に事情を伝えた所、何時迄も神経質になって家に閉じ込めてしまうのも可哀想だからと、アジュールには内緒という条件付きで送り出してもらえたのだった。

パトリックの家やその付近は誰もが立ち入り、聞き込み等も十分に行なっている筈。
家を出て、通り掛かりに店先で彼の家族と会い言葉と笑顔を交わすものの、彼については触れず長居もせずに立ち去った。
あの日以来、花屋は彼の家族が健気に切り盛りを引き継ぎ、最近になって漸く活気といえる前向きで明るい雰囲気が広がり始めている。私の干渉によって喪失感を抉り出す事はしたくはなかった。

人や物の音が賑わう町を通り抜け、鳥や虫の話し声と、木々の葉の擦れる風の声が静かに響く森の道を歩く。
しかし、辺りを具に渉猟したが体力を消費するばかりで、何一つ得られない。気落ちし始めると、忽ち足元の疲れが踵を地面に縫い付けた。

まだ夕暮れまでには時間がある。
一度休憩して気分も疲労も回復させようと思い、行き慣れた獣道へ逸れ、森の中のとある場所へ向かった。
倦怠を紛らわせる為、土と緑の香りを楽しみながら進んでいくと、間も無くして広く開けた目的地へ辿り着く。

そこだけは背の高い草も、日差しを遮る木も避けるように生えていない。
その中心に一軒だけひっそりと佇むのは、小さな廃教会だ。煌々と光を浴び、もう誰も手入れをしていない筈の煉瓦の壁を鮮やかに際立たせていた。
一月以上踏み込まなかったこの地は、私に「お帰り」と囁いてくれているように感じる。

木の扉を強めに押すと、年季の入った音を出しながら重々しく開く。
いつも通り、私以外は誰も立ち入っていない様子だ。普段と変わらず其処彼処の物が古びてはいるものの、荒れ果ててはいない。廃墟となる以前の形のまま残されている。

何時からか、何のきっかけだったかも覚えていないが、午後の休憩の時間になると此処へ必ず足を運び、一人で歌うことが日課であった。
祈りの歌や自身の感情のままに音階を楽しむ唄、旅の人が教えてくれた異国の歌、母が歌ってくれた子守歌。
それらを口ずさむと、不思議と物悲しく、そして懐かしい。そして何よりも心が安らぐ。

人前で歌ったことは一度もないが、此処で気儘に歌を紡ぎながら、祈りを捧げたり、遠く思いを馳せるのは、自身の感情を一番露わに出来るひと時であり、心が弛む。
今は、歌を心中で奏で祈るだけしか出来ない。
歌う事に特別な理由など無かった筈なのに、やはり以前のように戻れてはいないと痛感し、遣る瀬無さが湧き上がった。

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改めて辺りを見渡せば、この静謐の空間の人里から隔絶された寂寥は払いきれない。
しかし、ただ唯一寂しさを感じさせないものがこの教会にはある。
廃墟となっても色褪せず陽の光を七色に変え、灰色の石床を色付け照らす、大きな窓絵を見上げた。
硝子で象られた聖母が、如何なる時も陰ることのない柔らかな微笑を此方に向けている。
その姿は母の面影を宿しているかのようで、自然と追想が巡り出した。

……母は決して涙を流さない人だった。どれほど酷い仕打ちを受けても、陰で讒謗を囁かれても、毎日が孤独でも。
私を微笑み迎える姿が何よりも優しくて美しく映った。
あの頃の私は、今以上に嫌気が差す程薄弱で、稚児的で、生まれながらの気性が母の様に強靭ではないと諦めていた。
けれど、浅薄な思い違いであったと知った。

有る日の夜、絢爛な張りぼてで作られた檻のような部屋に閉じ込められている母の許へ、驚かせようと尋ねに行った。
窓の傍で、天へ祈りを送るその背に静かに近寄り呼び掛けようとした刹那、か細く押し殺した嗚咽が聞こえた。
その時に理解した。

母は“人前では”決して涙を流さない人だったのだと。
それが最初で最後に見た、母の気丈な振る舞いが隠す弱さだった。
以来、私は母を模倣する様に、怒鳴られても罵られても決して泣かず、相手が立ち去るまでは耐え抜くようになった。
母に対面しても、不甲斐なく泣きつく事をやめた。
母の微笑みは、祈りなのだ。故にあえかで確固としているように感じられたのだろう。
それを硝子の聖母の微笑はいつも思い出させてくれる。

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陽の光の受け煌々とし、月の光のように穏やかに祈念を降らせる聖母。
その眼前まで進み、慈悲深い佇まいを真似て跪いた。
眼を閉じていると、町で出会った多くの人の姿が目蓋の裏に浮かび上がる。

――どうか、私の家族に何事も無く平穏に。いなくなってしまった人達と安らいだ生活がこの町に戻ってきますように。

直後。
細かい砂を踏み締める音が小さく鳴り、静謐の時間を終わらせる。
振り返ると、数歩の間隔を経て見知らぬ人がそこに立っていた。

青年と呼ぶには若く、少年と言う程幼くはない。
近づかれるまで気配も音も感じなかった事に驚きを隠せず、硬直したまま見据えた。
対する彼も、眦の下がった隻眼を丸く見開き、凝然として私を正視したまま動かない。

珍しい形状をした黒と白の配色の外套、柔らかそうな赤い髪。町では見たことがない出で立ちなので、外からの来訪者に違いない。
初めて出会った彼との間に生じる無言の時間は、奇しくも気疎さを感じない。
束の間の時が息長く流れていく。

……不意に、春の風音に名前を呼ばれた。
そんな気がして、胸中の奥深くが理由の知れないまま空漠と騒ぎ立ち始める。

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