長編小説 | ナノ



 Tacitum vivit sub pectore vulnus



[

あくる日。正午の時刻を時計が示しても未だにオレは部屋の中にいた。
アリスに会っていたとまで悟られなかったのが幸いだったものの、じじいに昨日早速勝手に出歩くなと諭された。
今日はそのお咎めとして朝食を終えると同時に大量の教会史や年代記を読まされることになってしまったのだ。

どこから入手してきたのかここ数ヶ月分未読だった新聞も次第に追加されていき、安易に部屋の外へ出られそうにない壁が出来上がった。
更には手厳しい看守がじっとこちらを見張っている。
「残りの二日はこれを読んで過ごせ。遊びに行くなよ」という無言の圧力に今の所は大人しく従っている状態だ。

けれども、今日の自分は様子が変だ。
文字を目で辿りながらも、時間が経過する毎にアリスの笑顔や歌声が頭の片隅に過ぎる。
普段なら一度書物に目を通し始めれば、一冊が読み終わるまでは日暮れで部屋が暗くなっても気づかない位没頭できる。
それなのに今は午後の時刻が近付くにつれて、自分でも面白い程顕著に集中が途切れ出していた。

しかもそれは今に始まったことではない。昨日別れてから約一時間後の夕食時。食事場所で配膳する彼女と早速再会した。
オレを気遣ってくれたのか、愛嬌ある笑顔を向けはしても話し掛けたりはせず、自身の仕事に勤しんでいた。
明るく振る舞い愛想も良い。子供ながらに一生懸命に働く彼女に声を掛ける客が何人かいて、その誰もに屈託無い表情をアリスは向けていた。
オレは正面に座る厳しい眼差しを掻い潜るようにして、立働く彼女の笑顔を目で密かに追いかけていたのだった。

今朝の食事の時間も同様だった。それどころか輪をかけて浮き足立っているのが自分でも分かる。
意図して盗み聞くつもりではなかったが、気付くとアリスに関する話を無意識に小耳に挟んで集めてしまっている始末だ。
一年程前から宿に暮らし働いているだとか、長く体調の優れない息子がこの宿にはいて、その食事等の世話を彼女が毎日率先してやっているらしいだとか。ひいては、偶然居合わせ知ったことではあるが、同じ階の西端が彼女の部屋だという情報まで得た。

今までは、記録に役立たない他人の……しかも個人的な事情なんてこれまで少しも気に掛けたりなんてしなかった。
だから未だ経験したことのない感覚に振り回されながらも、それに対する興味も増していた。
好奇心が旺盛であるが故に、早く彼女に会ってそれが何なのかを確かめたいと気が急ぐのだろう。

――そろそろアリスは休憩に入ったかな。
気もそぞろで手に付かない作業をだらだらと続けていても無意味だ。
そんなことを考えながら、首は動かさずに窓際へと目を向ける。
すると、紙の壁を隔てて此方を見張っていたはずの姿がいなくなっている。もしかしたら、煙草を切らしたのかもしれない。
これは好機だ。
――じじい。夕方に帰って来たらちゃんとやるからな。
そう胸の中で告げ、部屋に一人きりになったほんの僅かな時を見計らって窓から外へ出て行った。

幸い二階の高さだったので難なく着地する。自分が飛び出した窓を見上げた。
逃げ出したとまだ気付かれてはいない。しかし立ち去る方向を見られてしまったら探し出されてしまうだろう。
急いで駆け出し、建物の側面から町の通りに出た瞬間、危うく人にぶつかりそうになり慌てて止まった。
謝ろうとして目を向けると、そこにいたのはアリスだった。
「えっ!?今、どこから……」
丁度彼女も宿出たところなのだろう。驚愕の声を上げながら玄関口とオレがやって来た方向を交互に見る。
けれども開きかけの口元に指を添えて続く言葉を止める。
「それよりアリス、走れる?」
戸惑いながらもアリスが小刻みに頷いた。
そして手を取ったと同時に、宿が見えなくなる所まで繋ぐ手を握り締め町中を走り抜けて行った。

\

予想以上にアリスは軽快に駆けていたし、難なく着いてきているように見えたので、森に入るまで止まることなく走り続けた。
けれども、木立に差し掛かって立ち止まると彼女は近くの木に背を預け肩で激しく息をしていた。
「アリス、ごめん!しっかり着いて来てくれてたからつい……」
「いいの。……こんなに走ったの初めてで、楽しかったよ」
額に汗を浮かべながら「私、結構走れるんだね」とアリスは赤らんだ顔を朗らかに崩す。

次第に呼吸が落ち着き、再び彼女は口を開いた。
「それで。何をそんなに慌ててたの?」
「じじいが朝からずっと見張ってるからさ。いない隙に窓から出てきたんだ」
「もしかして。私が会いに来てなんて言ったから無理を……」
アリスは途端に血相を変える。色白い肌色が更に薄らいでしまった。
「それは違う!約束してなくても、絶対ここに来てたよ」
「どうして……」
眉尻を下げて心許なく揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「だってオレがアリスに会いたかったんだもん」

折角血色が落ち着いてきた彼女の肌が、また紅く色付いた。
返答を考えているのか視線を落として手遊びしながら、相槌のような口の中から出切っていない呟きをもごもごと言っている。
狼狽する彼女に触れたら、一体自分の何が困惑させる要因になったのか分かるのではないか。そう思えて紅い頬に向かって手を伸ばす。
近付いてきたオレの手に気付いたアリスは、小さく肩を震わせたが拒絶も後退りもせずにじっとしていた。

難なく触れた肌は柔らかくて、自分の手のひらよりも随分と温かい。
触れたそばから熱が高まり発せられてるような気もする。
「どんどん熱くなってる」
「き、気のせい!もうそろそろ行こう!ね?」
そう言ってアリスは添えられた手を頬から引き離す。けれども掴んだオレの手は離すことなく教会へ向かって足早に進み出したのだった。

――手も同じくらい熱いな。
肌を伝って移る体温を感じる内に、先ほどの真っ赤になり狼狽える姿が想起された。
彼女には聞こえないようにひっそりと笑いを零したのだった。

]

昨日と同じ場所に並んで座りながら、歌を教えてもらう代わりに旅の話を聞かせる。そんな穏やかで取り留めのないやりとりをしながら僅かな時を過ごした。
互いにとって何の利も無く、まして意味の無い子供遊びだというのは理解していながらも、全く退屈に感じない。
彼女と二人きりで過ごせる時間に安らぎを見出し、閉鎖された空間の中だけでゆっくりと過ぎていくような体感の時に満足を覚えていた。
時が止まれば良い。そんなどこかで見聞きしたような陳腐で空想的な言い回しも、今ならその言葉を唱えたくなる気持ちが分かりそうだった。

僅かに陽の光が弱まった頃合い。
アリスが懐中時計を取り出した。淡い光に照る銀蓋の中、広がる翼のような紋章が目に入った。まるで大きな翼で覆う為にこちらへ向かってきているような神々しい姿だ。
「その時計の紋章、綺麗だね」
「えっ?……そう、かなあ」
閉じた蓋を見つめる彼女は、穏やかな声音に反してどこか物憂げだった。
「気に入ってないの?」
アリスはゆるゆると首を振った。
「とても大切なものなんだけど、少し怖い……かも。得体の知れない生き物が描かれてるみたいで」
困った顔で笑う仕草が、本当はそう思いたくないと言っているように感じられて、隣に座る彼女に身体を近付けた。

「よく見て。ほら、これが翼でここが体。それから……」と、時計を持つアリスの手を自分の手のひらで支え、反対の手の指で紋章をなぞる。
彼女は静かに聞いていたが、やっと同じように見えたらしく短く息を吸い込んで感嘆を洩らした。
「……本当だ。天使が翼を広げてる」
「でしょ?」
「不思議だね。全然怖くなくなっちゃった」
間近で同じものを見つめ合う距離感を上手く測れておらず、互いの髪が触れ合って初めて、目を見張るほど傍に近付いていたと気付く。
一方のアリスは少しも気が付いていないようで、感慨深そうに丸々と瞳を輝かせて銀の蓋を見つめていた。
その眼差しはどんな想像を目の前に広げているのだろうか。
今の彼女は、蓋の上に描かれた小さな視野などではなく、もっと広大で鮮やかな色彩で描かれた景色を瞳の中に映しているのかも知れない。
それ程にアリスの瞳は、透き通りそうなくらい純粋で美しい色を宿していた。
今の彼女の目に捉えられたら、自分の遠い過去や思いの全てが見抜かれてしまいそうだ。それを恐れながらも望む、言いようのない気持ちが募っていく。
時計の秒針が鳴らす音がやけに大きい。あるいは鼓動の高鳴りを針の音だと錯覚しているのだろうか。

「ちょっと残念だけど、もうそろそろだね」
時計の蓋を開けて時刻を確認したアリスの声で、ひとり沈んでいた思考の淵から戻って来た。
互いの近さに気付いた彼女が逃げてしまうよりも先に、自分から体を離して頷く。
森の中、今日はアリスに教えてもらった歌を二人で歌いながら帰ったのだった。

]T

三日目。今日がアリスに会える最後の日となる。
遥かな別れの現実が朝から胸を締め付けていた。随分彼女の存在を自分の内で大きくしてしまったのだと痛感した。
もう少し楽に別れを受け入れられるだろうと高を括っていたが、この分では数日引きずりそうだ。
けれども、彼女との二日間は時間の短さに反して濃密で、良い思い出として記憶の片隅に留まるに違いない。
今日も監視の目から上手く抜け出してアリスに会いに行く。
お互いが清々しく別れの挨拶を交わせるように、どんな会話を広げていこうかと考えを巡らせながら教会へ行き着いた。

既に彼女は教会の中にいた。
なんと声を掛けようかと気を揉んだが、思いもよらず肩透かしを食らう。
もはや別れを忘れているのではないかという程、晴れ晴れとした笑顔で出迎えられたからだ。
その様子は全く変わる気配がなく、話す内に楽しげに声まで弾ませる機嫌の良さが終始続いていた。

ふと、無理をしているのではないかと推察が過ぎったけれども、まだ出会って間もない彼女の心の内を理解するには浅くて、確たる判断がつかなかった。単なる杞憂に過ぎないかも知れない。
それに彼女が何も言わないのなら気落ちするような話題をあえて振る必要もないだろう。
聞き分けの良さそうな彼女のことだから、きっと分かっていて最後の一日を楽しもうと努めているのではないか。
きっと彼女もオレと同じように考えていたということだ。と、深く考えるのを放棄した。

そうして特別な何かが起こる訳でもなく二人の時間を過ごし、日暮れが近くなって町へ戻った。
唯一異なるのは、別れの間際に「また明日」と言われなかったことくらいだ。やはり彼女は分かっていて明るく接してくれていたのだと確信した。
「寂しい」だとか「次はいつ会える?」といった返答に困る事を言われないのは楽だ。それは間違いない率直な気持ちなのに、思いの裏で余りに容易い別れを惜しむ自分がいた。
今日も先に宿へ入っていく彼女を見送ったが、その背は振り向こうかと迷う素振りさえないまま帰っていった。
躊躇いも悲愁もない彼女がひどく遠く感じた。

]U

夕食を終えて席を立とうとした時、近くで食事をしていた客の男と、宿の主人の妻が交わす会話を耳にした。賑やかな周囲に反して、少々声は抑え気味だ。

「奥さん。あの子の母親と言っていた人がどこにも見当たらないけど、今日は具合でも悪いの?」
「…………。実は、少し前に亡くなって」
「そんな。なんて可哀想に」
「気持ちが落ち着くまで、仕事のことは気にしなくていいって言っても、あの調子で出て来ちゃうんだよ」
「あんなに小さいのに、健気な子だね。俺が前に来たのが半年前だから……、亡くなってまだ数ヶ月程ってことか」
「それが。まだ、一週間しか」

歯切れ悪く伝えられた言葉に、オレは男と同じ瞬間に息を飲んだ。
たったそれだけの日数しか経っていないのに、屈託無く笑顔を浮かべられるまでにどうやって立ち直れたというのだろうか。

「きっとすごく辛いはずなんだよ。それなのに涙のひとつも見せずにいるんだ。あたし達でほんの少しでも支えになれればって思うんだけどね……」
「きっと。奥さんのその気持ちは、いつか届くと信じてるよ。……向こうで呼ばれてるね。引き止めて悪かったね」

二人の会話が終わっても、しばらく椅子に座ったままそこから離れられなかった。
腕を掴まれ引き立たされてようやく、皺の深い目が訝しげにオレの内心を探っていると気付き「じじい、食べ過ぎてお腹壊したかも」と余裕の無い声音を使ってその場を切り抜けた。
帰り際にアリスの調子を窺い見たが、その表情はやはり楽しい以外の感情が見当たらない。少しの陰りも見付けられなかった。

]V

あの会話を聞いてから、やけに胸が騒ついて仕方がない。ベッドに入って暗い天井を眺めていても、冴え冴えと瞼は軽い。
アリスは本当に大丈夫なんだろうか。様子を見に行った方がいいんじゃないのか。そんな自問が渦を巻いて頭から出て行かない。
けれども、たとえ辛い心情を抱えていたとしても一緒に暮らしている人にさえ気丈に振舞っている彼女が、オレに頼るはずがない。きっと何をしても無意味だ。
行ったり来たりして落ち着かない内心の押し問答と、シーツを捲っては戻しを五回も繰り返してようやく割り切り目を閉じるまでに至った。

――情に絆されてはならない。今までもこんな風に手を差し伸べようとして、その度に懸命に自分を諭して押しとどまって来たのに。こんなところでその我慢を無駄にしてはダメだ。
――ここは戦場とは縁のない平和な町で、仮に見過ごしたところで死に至る問題でもないのだから。
――きっとアリスなら立ち直る力があるだろうし、寄り添って理解しようとする人が身近にいる。いずれその傷は彼等が癒してくれる。

だからアリスの心を支える役目はオレにはない。
結論を弾き出して以降はもうあれこれと思案するのをやめて、とにかく目は開けずに深く息をし続け気を落ち着かせた。
どれくらいの時間が経ったかは分からないけれども、しばらく経ってようやく眠りへの道が見えてきたのだった。

……遠くで名前を呼ばれた気がした。
目を開けると辺りは真っ暗で、どうやらまだ夜中なのに寝惚けて起きてしまったらしい。
寝返りを打ってもう一度寝直そうと目を閉じた。
しかし全く眠気が戻ってこない。不穏な気配ばかりを感じて微かな寝息すら耳障りに感じる。
段々と暗闇に目が慣れてきて、気付けば横になりながら見つめていた先は扉だった。もうどれだけ横になっていたって寝られやしない。
今日ばかりは自分の祖父が寝付きが良く寝起きが悪い性分で良かったと思う。それでも立場上危険や異変には非常に敏感だ。念のため静かに部屋を出て、同階の西端にある部屋に向かった。

着いた部屋の前で少し悩みつつも、意を決して扉を軽く叩く。当たり前だが返事はない。
普通なら深く寝入っているんだと諦めるだろう。
しかし、何故かこの部屋には誰もいないような気がしてならない。吸い込まれるように取手に手をかけた瞬間に察した。
扉は一見枠に収まっているが、よく見ると完全に閉まってはいない状態だったのだ。当然ながら施錠もされていない。
「ごめん」と口の中で呟き扉を開くと暗い中に簡素な室内が広がっているのが見えた。目を凝らして部屋の奥を確認するが二つ置かれたベッドのどちらにも人の姿はない。両方とも綺麗に整えられていて、今日はまるで使ってすらいないようだ。

考えるよりも先に、自分の部屋へ戻って毛布を手に取り、すぐさま宿を出た。
アリスが何処にいるかなんて確証は無いけれども、一筋の道を頭に描きながら迷うことなく深更の町を走る。

≪PREV | TOP | NEXT≫




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -