長編小説 | ナノ



 Tacitum vivit sub pectore vulnus


X

町で宿を取っているのでそこまで戻りたいと話したところ、彼女は快く案内を引き受け町への一番の近道だという帰路を先導してくれた。
並んで行くには狭く草花が生き生きと群生していておよそ道とは言い難いが、足元をよく見れば朽ちた道の名残があった。何年、または何十年も遡ればあの小さな教会と町を結ぶ小道がここに生きていたのだろう。

木漏れ日を斑に映す小さな背中を見ながら、かつて更に深く茂る森の奥で、こんな模様を体に抱えた美しい毛並みの動物を見た記憶を思い起こす。
――そういえば旅の話をまだしてなかったな。
何も無い道中を飾るのに丁度良い。話しかけようとして、ふと気付いた。
少女の名前をまだ知らない。その思考が頭を掠めた瞬間、僅かに声を上げてしまった。慌てて口を噤むが全く意味はなく、彼女は振り返って首を小さく傾けた。
「どうしたの?」
「えーと、何でもない!」
「忘れ物?」
「そうじゃないんだけど……」
歯切れ悪く煮え切らない様子でいるのを彼女は全く不審がりはしなかった。
純粋に疑問を抱いた眼差しを向けている。次第に気遣いげに揺れだす瞳に戸惑った。

自分はブックマンの後継者として過度な人との接触は禁じられている。
記録地を変える度に新らしく付けられる名は、厳密には自身を識別するものではない。記録を識別する為の名称だ。
その為、記録作業に関わりのない人間に名を教えることも許されてはいない。
彼女と名を交わさずに別れたならば、この出会いは偶然短いひと時を過ごした少年と少女、という淡白な関わりのままで終われる。
彼女に抱いた言いようのない念は、単なる気の迷いとして時の流れが簡単に掻き消すだろう。

ブックマン後継者にとっては、それが正しいことだ。
だから今までも言いつけを守り過度な人との交わりは控えていたし、これからもその約束を蔑ろにすることはない。
自分の意思は固いと自負していたのに、今脳内を占めているのは今日の出会いがいつか二人の記憶から薄らいでしまうのは寂しいという感傷だった。

「……。名前」
「名前?」
「うん。君の名前をまだ聞いてないなって。でも」
続く言葉は、頭の中で響き出した声に押し留められた。
――他人に心を寄せ、仲を深めてはならない。三年前にその真意を、消えない傷を負い師に涙を流させてまで学んだじゃないか。

他人に抱いた情で動いた結果、自分の命を手放しかけるだなんて愚行は二度とあってはならない。
だからオレは彼女に名を伝えられないし、伝える名もない。けれど、せめてそれを納得してもらう為に事情を説明することも出来ない。
迂闊に溢した失態に、どうしたものかと考えあぐね視線を外す。この場をしのぐ言い訳を懸命に探した。

「私、アリス」
拒絶とも取れる態度に気分を害する素振りもなく、彼女は事もなげに明るく微笑む。
けれども、対して名乗らせようという素振りはなく「行こう」とアリスは前へ向き直った。
直後、春の風が頬を撫でながら通り抜け、葉擦れがそれを追いかけつつ囁き去る。まるで、これで良いのかと優しく問うてるようだった。

歩き出してからも彼女は何も聞こうとはせず「風、気持ちいいね」と、陽気に鼻歌を風に乗せ遊ばせてさえいる。
何故名乗るのを躊躇っていたと分かったのか、どうして気を悪くしないでいられるのか。……今何を思っているのかを、知りたい。
どれだけ見つめていても答えの出ない彼女への疑問が次々と湧き上がる。
枷のように重々しく足取りを鈍くする思考は、とうとう歩みを止めてしまった。彼女の優しさは、傍観者への毒なのだと胸の奥で危惧が滲む。
どうにかして少しでもこの思いを軽くしたい。ひとつの問いを彼女に投げかけた。

「……アリス。オレが来る前、一人で何を祈ってたの?」
随分酷い事を聞く、と自分の言葉に自嘲する。
けれど、彼女への期待や感興を断ち切るには良い問いかけだろう。
僅かにでも顔を曇らせ眉を潜めれば。答えを言い淀んでそれきり口を閉ざしてしまえば。
自ずと肥大しすぎた関心が冷めていく筈なのだ。
きっとアリスを傷つけてしまうだろうが、彼女の存在を少しでも自分の内から遠ざけ、溢れようと逸るものを抑え込まなければならないのだから仕方がない。
そうして自分を納得させるのに必死だった。

アリスは歩みを止めて少し考えるように空を見つめる。そして振り返りながら朗らかに形どられた口唇を開く。
「祈り、とは少し違うかな」
此方に視線を向けた彼女の瞳は、今日の晴れた空の色を写し取ったようだった。
「お母さんにね。私はこんなに元気だから、どうか天国でお父さんに会って、二人で幸せに過ごしていてねって、願っていたの」
胸の奥を握り潰される程の衝撃と痛みを覚えた。その痛みに耐えるように唇を噛む。
彼女を軽視したのはこれで二度目だ。それに加えて保身しか頭になかった自分を強く恥じた。
こんなにも慈悲深く表情を和らげる彼女に対して、非礼を詫びることも出来ない。

何も返せずにいると、おずおずと近付いてきたアリスはオレの袖口を控えめに引いた。
心配そうに眉尻を下げるその面持ちは、自身の答えで相手を傷付けてしまったと自責しているかのようで、尚更掛ける言葉が出てこない。
「ごめん、なんでもない」
顔を背けてそれきり口を閉ざしたままでいると、彼女は握ったままの手を離さずにゆっくり振り返って前に進み出す。袖を引かれながら更に重くなった足を引き摺り気味に動かした。

この世界の何処にも彼女の両親はもういない。
孤独な世界に残されて、辛いとは思わないのだろうか。
心ない問いを寄越した挙句身勝手に沈む他人を、どうして憂慮出来るのだろうか。
罪悪感さえ飛び越えて自分の体から湧き上がって止まらない、この不思議な感情は何というのか。

きっとそれは、自分が一歩踏み出し彼女と向き合えば知ることが出来る。
頭の中で膨張していく思いの片隅で、それを押し殺さんとする理性が叫んでいるが、もう遅かった。
暖かくそよぐ風が優しく背を押す。
オレは、次の記録地で使う名前でも前に使った名でもなく。四年前に後継者として旅立つ際に手放した名を告げていた。

Y

風はしっかりと彼女の耳に届けてくれたようだ。アリスはすぐさま振り向いて、目を見張った。
「オレの、名前」
後継者となった際に捨てて以来、呼ばれることも自分で口に出すことも、それどころか思い出しもしなかった名前だ。彼女が注ぐ真っ直ぐな眼差しが恥ずかしくさえ感じる。
「風……だね」
緩く目を細めてアリスが告げたのは、思いもよらない単語だった。聞き違えていなければ、それはオレの名の持つ意味だ。
けれど、この名は古代に消滅した言語で、学者ならともかく彼女の生活において全く馴染みなどはないはずの言葉だ。驚きを隠さないまま彼女を見つめ返す。
「知ってるの?」
「少しだけ、古い言葉を勉強したことがあるの。貴方にぴったりだね」
「風って意味が?」
「うん。今日みたいな穏やかで素敵な日に吹く。歌ってるような優しい風。……そんな意味が込められてるのかなぁ、なんて思った」
てらいもなくアリスは微笑んだ。

自分の名前の意味は知っていても、それ程深く考えたことはない。
不意に、この名を付けてくれた人もそんな風を思い描いていたのなら嬉しいだなんて郷愁に浸りかけて、思わず相好を崩していた。
オレの顔が緩むのに気付いたらしい彼女は、まるで子を慈しむかのようなあえかな光を瞳に灯し、静かに見据えていた。
それを目にした途端、心臓が飛び跳ねそうになった。動揺を誤魔化そうとして狼狽気味に口を開く。
「ひ、秘密にしてね。もう捨てちゃった名前だから、ほんとは誰かに教えちゃだめなんさ」
少しだけ表情を引き締めながら、人差し指を立てて示した。
「分かった。……ありがとう。絶対に秘密にするね」
頷くアリスが見せた笑顔。
それは大切な人が見せた笑顔によく似ていた。再び懐かしさを覚え、自然と浮かぶ過去の情景を眩しく思い目を細めたのだった。

改めて歩き出したが、一分も経たない内に彼女は唐突に立ち止まってしまった。小さな背中は悩むように少し丸くなる。
催促せずに大人しく待っていると、ゆっくりと窺うように振り返ったアリスは躊躇いつつ口を開いた。
「あのね。貴方の名前、私が預かっていてもいい?」
「預かる……?」
突拍子もない彼女の願いに、頭の中に疑問符が大量に浮かぶ。
「だって、こんなに素敵な名前なのに、捨てちゃったなんて。何だか寂しくて」
真剣な面持ちで彼女は言う。何かの例えや冗談ではなく、本当に言葉の通り預かりたいと思っている様子だ。
名を捨てたと確かに言ったが、まさか彼女がその一言を拾い上げて慮っていたとは予想しなかった。

「この名前に込められた気持ちや、思い出は貴方だけのものだから、私が貰うことはできないでしょ?だから私が取っておくの。……駄目、かな?」
「アリスって、面白いこと思い付くんだね」
邪念のない子供らしい抽象的な発想と言えばそれまでで。実体の無い物に対してわざわざ許可を得る意味も預かる意味も無い。
けれども彼女の内にはそんな意地の悪い理屈とさえも和解する、清廉な思いが秘められているような気がしていた。
彼女はそういう子なんだと、上から下へ水が流れ落ちる程容易く自分の内に何かが落ちた。答えに悩みなどしなかった。

「うん。オレの名前はアリスが持っていて」
そう告げると、安心したようにほっと息をついて「ありがとう」と屈託無くアリスは笑った。何の価値も無い名が、彼女をこんなにも喜ばせている。
名を教えあっただけの取るに足らないやり取りで、胸の奥が熱を帯びたり心が弾むのが楽しい。
少しずつ自分の内の何かが変わりつつあるのが心地良くて、彼女と同じように笑った。

Z

道中、彼女との約束だった旅の記憶を話しながら町へ向かった。
砂漠に作られた太古の岩窟神殿や、行き掛かりに現れた逆さに町を映す蜃気楼。巨大な菩提樹が立ち並ぶ深い森とそこに住む生き物達。時には野宿をしようと準備していたら原住民に取り囲まれ何とか危機を脱した話。
記録地とは関わりのない行く先々の景色や経験を伝えた。
そのどれもつい先程目にしたばかりのように鮮明に浮かぶ。
けれども自分が持ち合わせる月並みの言葉では、その美しさを全て伝えきれないのが少し歯がゆい。
彼女は拙い語りでも満足してくれているらしく、時折立ち止まってはわざわざ振り返り、続きを早く語ってくれときらきらした催促の目を向けてきた。
「続きは前を向いてから」と彼女の肩を持って半回転させ……というやり取りを四回も繰り返しながら長い帰り道に絶え間ない笑顔を飾ったのだった。

町の中に入って間も無くすると覚えたての道と繋がった。こんな所に出るのかと感心しつつ更に歩みを進めていくと、まだ少し距離はあるものの宿の外観を見受けた。
するとアリスが宿の方向を指差す。
「実は。あの宿、私が住んでる場所なんだよ」
「え!そうだったの?」
「住み込みで働かせてもらってるの」
教会を出る際は、確かそんなことは一言も言っていなかった。
突然知らされた偶然の事実に目を白黒させていると、彼女が嬉しそうに目の縁を細め、悪戯が成功したと言わんばかりに見つめてきた。どうやら驚かせようとしてわざと言わずにいたのだ。
新しく見た彼女のあどけなく可愛らしい一面に、喜びにも似た高鳴りを覚えた。
つい綻んでしまった顔を隠すように「それなら丁度良かったね!行こう行こう!」と彼女を抜いて前へ出た。

そのまま宿に真っ直ぐ向かおうとした矢先、パンダのように黒々と囲まれた目の中心をぎらつかせて怒りを露わにする老顔が思い浮かんだ。ぴたりと動きを止めて呟きを溢す。
「そうだ。忘れてた」
「どうしたの?」
「オレのじじい厳しくてさ。遊んでたのバレたら面倒かも」
叱られるのを恐れているわけではない。
勿論、共に旅立ったばかりの頃は感情を全く波立たせないあの目と、冷淡な諭しを怖いと感じることもあった。けれども今はもう怒鳴られても殴られても怯えたりはしない。
ただ単純に、あれこれ長々と続く説教を大人しく聞かなければならないのが億劫だった。
一人きりで遊び呆けていたならまだしも、町へ訪れた初日から最速友達と呼べる存在を作ってしまったとなれば、もはや丸一日の説教では済まないかも知れない。
それに何より、良い出会いに巡り合えた一日をじじいの説教で締め括りたくなかった。

「そうだったんだ……。一緒には、帰れないね」
アリスは俯きがちになって拗ねたように少し唇の先を尖らせるが、すぐに顔を上げて笑みを向けた。
「わかった。それじゃあ気付かれないように、ここでお別れだね」
「うん。オレは少し遅れて戻るよ」
柔かに手を振りアリスは背を向けた。先程まで森を先導してくれていた同じ背中がやけに遠く感じて、無性に繋ぎ止めたい衝動に駆られた。

「待って」
咄嗟に彼女の手を取って引き止めていた。此方を向いた面持ちが驚きに染まっている。
「あの教会に行けば、明日も君に会える?」
アリスはぎこちなく頷いた。その頬は紅を色濃く浮かべて、何故かその姿は恥じらっているかのように見えた。
「休憩、いつもこれくらいの時間だから……。良かったら会いに来て」
嫋やかに綻ぶ彼女の熱を移されたのかも知れない。自分の頬にも火照りを感じ始める。
その熱も湧き上がる思いも離したくなくて、指先に込めた力を緩めることが出来なくなった。
アリスも同じ思いでいるかは分からないけれども、握った手の内にある温かなそれは少しも抵抗する気配がない。
とは言え、単に困って動けないだけかも知れない。自分はともかく、彼女にはやらなければならないことがある。名残惜しくも込めた力を解いた。
遠慮がちに少しずつ、手のひらの中から彼女の手が出ていく。最後の一本、爪先が離れていく。その感触に例えようのない切なさを覚えた。
遠ざかる背中は、何度か振り返ろうと僅かに傾いたが、家屋の中に入っていくまで決して此方を向くことはなかった。

何もなくなった空洞を通り抜ける空気がどうにも冷たい。
すり抜けていった温もりの名残を握り締める。
何処で時間を潰そうか漠然と考えながら踵を返し、彼女とは反対の方向へ歩いて行った。

≪PREV | TOP | NEXT≫




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -