長編小説 | ナノ



 Tacitum vivit sub pectore vulnus


『Couchés dans cet asile,
Où Nuit étoilée nous a conduits,
Endormis sous leurs voiles
Ou prions aux regards,
Des tremblantes étoiles.

Loin du bruit de la foule,
Unis par le malheur,
Durant les longues nuits,
Nous reposons tous deux.

Minuit, chrétiens,
Tout autour de toi étincelle,
dansent sur les ailes du vent.

Et comme un flot sacré,
Qui doucement s'écoule,
Comme une étoile perdue dans l’océan que ton amour dessine,
Je te découvre tout au fond de mon.』



T

――人の涙が嫌いだった。
オレがこれまで見てきた涙は、戦火から生まれ出づる悲しみや、怒り、憎しみに因って流れるものだったからだ。
子供を目の前で撃ち殺され己の無力に噎ぶ親、我が身を庇う親が嬲られ痛めつけられる様を恐怖に怯えながら目に焼き付ける幼子。共に戦い抜きたかった仲間の亡骸を抱え屍の群れの中に一人佇む兵士……。
彼らが流す涙は暗い感情を溶かして溢れ黒々と濁る。いつもそう映っていた。
戦という混沌の内で犇めく悲痛な姿は無関心を装っても心に突き刺さる。救うことも寄り添うことも叶わない、傍観者としての己の定めが虚しいと。

ブックマンは傍観者として、この世界の「裏歴史」を公平に記録する重要な役割を担っている。
数多の組織や土地に一時的に身を寄せることはあっても、人に心を寄せてはならない。
この虚しさを乗り越え、誰も知らない事実を知り記録していく。それが己に託された一族の責務であり、大切な人との約束だ。
何度も何度もそうやって言い聞かせ差し伸べたい手を抑え込み、黒い涙を流す人々の姿を辺りに転がる石と同じだと唱えながら目を背けてきた。

歳を十数える頃には無情の現実に慣れ始めた。
戦争がいかに愚かな行為かを観て、またある時は身に受けていく内、多くの悲劇を生む所業へと繰り返し身を投じる人間という種族に失望を覚えていた。
幼さ故の曲解ながら「オレは愚行を重ねる人間達とは違う。だから奴らの涙は黒く見える。こんな奴らの痛みに共感するのは無意味だ」という考えが芽生えたのだった。
……思えば、精神安定と自己防衛の末に至った思考だったのかも知れない。
その思考を根底に、師である記録者から言い聞かせられた通り、人とは深く関わらずにあらゆる地を渡り歩こうという決心は日毎に固くなっていく。
誰にも心を移さず、一方で相手には自分を信用させ役立つ情報は引き出す。割り切った上辺だけの関わりは疲れずに済むので楽だと知った。
そうして傍観者としての強かな処世術を身につけ始めた時分だった。
抑え込み深く沈めていた心を掬い上げてくれる存在に出会ったのは――

U

十八番目の記録地に向かう途中、フランス南部を進み山脈を超えてスペインへ向かうべく、手前の田舎町に立ち寄った。山を越える前に必要な装備等の物資を調達するのが主な目的となる。
遠回りにはなるが、東西に渡る山の麓を伝う安全な道のりも選択肢としてあった。
けれど敢えて過酷な道を選ぶのは、急いでいるのではなく体力作りや戦闘、隠密の調練を行う為だ。
その行程を決めたのは祖父でも師匠でもあるブックマンで、この記録者は小柄な見た目と齢八十という高齢にも関わらず常人離れした身体能力を持っている。いかなる時も冷静で、突発的な対処も迅速で的確だ。
少し前に身長は越したが(本人は髪を含めればまだ越えていないなどと言い張っている)戦闘訓練ではこの先何百回掛かっても勝てる気がしない。そんな人物が施す教えはいつだって過酷だった。肉体だけの話なら記録地での行動よりも余程疲弊が激しい。

「この町に三日滞在する」
告げられた言葉は、山越えと道中の訓練の重さを物語っていた。つまりこれから厳しい旅路となるので、今の内に休養しておけという意味になる。
けれども、好奇心旺盛と自負している自分の気性は、大人しく体を休めるなんて思考には行き着かなかった。
初めて足を踏み入れる土地を三日の内でどう探索するか、どんな物を発見できるか。小さな興奮で頭が一杯だった。

山の麓らしく自然が溢れる穏やかな景色。裕福とは言えないが貧困という風でもない。農業を主な生業とした、よくある小さな町というのが第一印象だ。
言葉にすれば「凡庸」の一言で片付けられてしまうが、これまでに訪れた大小幾つもの町や村に同じものは決して一つも無い。
一つ一つの小さな町や村に各々の土地でしか見られない多くの発見がある。そうした特色を探し当てるのが、他人と言葉を交わすよりも楽しい。
町で唯一の宿は少し古めの外観だが風情があり、観光地でもない立地にしては小規模ながら宿泊施設らしくきっちり整っている。比較的安定した客足を保っているのだろう。
早速足を踏み入れた場所の観察をしながら宿泊手続きを待ち、それが済んだのを確認すると背後で聞こえる嗄れた諭し声を振り切って外に飛び出した。

教会や店などは比較的新しく造られた建物が多く、中心地に集まっている。外れた場所には石積みの古めかしい小さな家屋がぽつぽつと建っているが、徐々に町の規模を拡めようとしているのか、家の基盤があちこちで窺える。
街や都市のようにはならないだろうが、ある程度栄えた町になるのだろうと想像した。
こうした観察と発見から、歴史や未来を空想するのが習慣となっているので、小規模の田舎町とはいえあちこちで立ち止まりながらゆっくりと探索をするのには一日では手に余る。今日は軽く歩き回って二日目と三日目で存分に歩き回ろう。そんな予定を立てて逸る足に任せて進んでいたところ、気付けば森に入ってしまっていた。
森とは言っても深くはないし、危険なものも無さそうだ。
未だ陽も高いので鳥のさえずりを聴きながら心地良い自然に包まれふらふらと当てもなく歩き回った。

暫くして行き着いた先は、こじんまりと拓けた敷地にひっそりと建つ、人々に忘れ去られた教会だった。
壁には草が伝い屋根の一部には元気に雑草まで生えている。秘密の場所のように思える様相は、小さな探検の収穫に相応しいだろう。
扉の立て付けは少々悪くなっていそうだが建物自体が崩れている様子は無いので、人為的に荒らされていなければ案外中は廃棄されたままの状態がそのまま残されていそうだ。

胸を躍らせながら扉に手を添えた時、僅かな隙間から歌声が溢れているのが聞こえ手を止めた。
鳥や他の動物の声を聞き間違えているのかと森の中の音に耳をすましたが、歌は間違い無く教会の中から奏でられている。
――人。女?……いや、多分子供の声か。
外からでははっきりとは聴き取れないので、音が立たないようそっと草臥れた扉を開けて中を覗き込んだ。

V

正面奥の大きな飾り窓の許、硝子の聖母に向かい祈るように跪く小さな背が見える。背格好からして少女だろう。
虚の空間に響くあどけない声は、小川の清流に踊る水に似ている。何処か儚げで切ない音には感情を乗せられているようにも聴こえた。
この歌が描いているのは神々しくも荘厳でもない、初冬の夜空に瞬く星を見上げ結ぶ何処でも見られるありふれた景色だろう。けれど、寄り添うように語り掛ける、祈りと人の温もりを宿した不思議な歌だ。

自然と胸の内に流れ込んで来る音に、自分の静止し澱んだ水面が揺らされる心地を覚えた。
少女はオレの為に歌っている訳ではない。それなのに、思うまま悲しんでもいい、苦しんでもいいと、心が解かれ包み込まれていく。
――もっと近くで聴いていたい。
戦場を渡り、慈悲の排除された光景には慣れたと思い込んでいたが、それは憔悴の余り心がこれ以上傷付かないよう意識の奥底に沈み込んでいただけだったのだと気付かされた。
それをこの少女の歌が掬い上げた。けれど露わになった自分の心は傷だらけだ。掬ったならせめて僅かでも慰めて欲しい。
乱雑に袖で頬を拭いながら、オレの体は無意識に引き寄せられていた。

あと三歩程の所で立ち止まると同時に、歌が止んだ。小さな身体は地に膝をついたまま、こちらに向かって振り返った。
細く柔らかそうな髪の間から覗く濡れた瞳。縁から溢れ出た一粒の透き通る雫が、淡い光を通しながら白い頬を伝い落ちていく。
人の涙は目を背ける程嫌いだった筈なのに、魅せられたように視線を逸らすことが出来ない。
彼女の流す涙にはどんな想いが溶け込んでいるのか。そして何故、触れたくなる程美しいと思えるのか。偏にそれを知りたいと思った。
もしかしたら彼女は人間ではなくて硝子の聖母が慈悲を抱き姿を現してくれたのかも、だなんて超自然的な錯覚すら覚え、気付けば茫然と心に思ったままを声に出していた。

「聖母が歌ってるのかと思った……」
それを聞いた少女は呆けたような表情で固まっていたが、はっとして顔を背け隠すように目元を拭った。
再びこちらを向いた時には顔が随分赤らんでいて、首を強く何度も振って言った。
「き、きっと、本物はもっとずっと綺麗で。こんな程度じゃないよ……!」
少女の反応は恥ずかしがりで控えめな気質の子供のそれで、もしや聖人然とした受け答えが返ってくるのかと想像していたので少々気抜けした。
「そう?オレはすごく綺麗だと思ったけどなぁ」
変わらず彼女は頭を大きく振って否定しているが、気に留めず感興のまま口を開く。
「今の、なんて歌?」
「えっ?あの、ごめんね。……分からないの」
僅かに彼女の表情に陰りが差し込んだ。それよりも、随分歌い慣れているのに分からないとはどういうことなのかという疑問に首を傾げる。
「お母さんが教えてくれた歌なんだけど、名前、聞いてなかったから……」
「そっか。じゃあ、分かったらオレにも教えて」
まだあと二日は町にいられる。彼女が今日のうちにでも母親に聞いてくれれば、小さい町なので滞在中にまた会えるだろう。その時に教えてもらえれば良い。そんな軽い考えを抱きながら彼女に笑みを向けた。
しかし、快く承知されると期待していた反応は、正反対のものだった。彼女は控えめに眉尻を下げて首を振り「……ごめんね」と微笑む。

その時、彼女が何故教会でひとり涙を流していたのか感じ取った。つつがなく暮らす同年代の子供であれば、少女の口からはっきりと聞かなければ分からないだろう。
失う側の人間の苦しみや心の痛みの様が色濃く記憶に焼き付いているからこそ、直感した。
少女の瞳は、愛する人の亡骸の傍で立ち尽くす、残された人の憂いの色と同じだった。ただ一つ異なるのは、彼女はすべてを受け入れようとしている意思が感じられることだった。
次いで思考に浮かんだのは、彼女が歌うから救いを生むのか、あの歌を奏でることによって救いが生じるのか。という感興だった。

「ねえ、その歌。オレにも教えて?」
少女は一瞬、大きな目を丸くして分かりやすい程驚きを見せる。けれど直ぐにとても嬉しそうに目を細めて「ありがとう」と答えた。突然彼女が年相応の少女ではなくなったようで、思わず目を逸らした。
「な、なんでありがとうなの……?」
「お母さんの歌、貴方も気に入ってくれたんでしょ?」
気に入った、というのは正確には当てはならない気がする。この感情は単なる興味に過ぎないだろう。けれども余計なことを言って教えてもらえなくなっては興ざめだ。敢えて話を合わせて首を縦に振る。
「だから貴方が何処かでこの歌を歌ってくれたら。そうしたら、お母さんがきっと喜ぶと思って」
そう言った彼女が浮かべる微笑は、遥かな遠い場所へ向けられていると覚った。
抱く切望は叶わないと理解しながら、遠く離れても思い続けることは決して止めずにいる。
……何だか自分と彼女は少し似ているような気がする。
だから、言葉に現れなくても読み取れてしまうのかも知れない。

そんな思考を働かせて生まれたのは、彼女への配慮を欠かした罪悪感だった。
どうせ彼女もそこらの人間と変わらない、自分とは異なる安心の世界で生きてきた子供だと、勝手に想像を働かせていた。
歌自体に特別な力があるかも知れないだなんて、浅はかだった。
オレが彼女の思いを蔑ろにしていたのは、彼女の知る由ではないだろう。
罪滅ぼしのつもりでもないが、せめて少女と共に、美しい歌を紡いだ亡き人の鎮魂を祈ろうと反省した。

不意に我が身に銃弾を受け生死を彷徨った際、必死に救おうとする朧げな師の姿を想起する。
他人と無闇に仲を深めてはならない。情は我が身を蝕む膿だ。身を委ねれば一族の希望が潰える。そんな戒めが頭の中に並べられた。
少女に手を差し伸べるのではないのだから、これ位の接触なら許されるだろう。それに自分が興味を抱いているのは彼女じゃなくて彼女が知る歌なんだ。きっと間違ってない。
そう念じながら強引に身の内の批判を振り払い、自分の行動の肯定を押し通したのだった。

W

教会の古びた椅子はいくつか頽れているものがあり、彼女に教えられて一番綺麗だという三列目の左端に座った。
もう一度初めから歌って欲しいと言うと、彼女は少し恥ずかしそうに先程よりも小さな声で音を奏でた。
随分緊張しているのか、初めて聴いた時よりも強張っている様子だったが、それでも彼女の歌は清廉だった。

歌が終わり、記憶した詩を読み上げる。
「……これで歌詞は合ってる?」
「一回聞いただけで覚えちゃったの!?」
彼女が目を輝かせて仰天する様に、何とも言えない誇らしさやら気恥ずかしさが湧き上がったが、なるべく表に出さないよう頷いた。
「すごいなぁ……。何でもすぐに覚えられるの?」
彼女は感嘆を洩らしながら興味津々という感情を包み隠さず一心に向けてくる。一体何が興味を惹く要素なのかはよく分からないが、嘘を言う必要も無いので再び首肯した。
「本の内容とか、言語に絵画……それから町や自然の景色も。全部?」
「うん。全部覚えられるよ」
そう言い笑みを浮かべてみせると、瞬く間に少女の期待と頬が赤らんで膨らむ。
分かり易い反応なので彼女が何に関心があるのか察しがついた。口元を綻ばせながらじわじわ寄ってくる彼女の詮索が面白いので、求めているだろう答えは秘めて次の言葉を待った。
「それじゃあ、今まで色んな場所を旅してたり……?」
相当気が逸っているのか、胸の前で手を組み何故か乞い願うような格好になっている。笑いを堪えながら、彼女の膨らむ期待にそろそろ応えようと口を開く。
「……旅の話。聞きたい?」
すると少女は体中から花が咲き乱れるように嬉しそうな表情を見せて、何度も頷く。
余りに必死な姿が以前道中で見かけた啄木鳥の動きに似ていて、押し留めていた笑いが溢れた。
「いいよ。でもその前に」
「……あ、ごめん!貴方のお願いが先だよね」
恥ずかしそうに彼女ははにかんで、此方に傾きかけていた体を引き戻す。好奇心旺盛なところもお互い似ているらしい。自分でもよく分からないが何故かそれが嬉しく感じる。緩む頬を引き締めようとしても言うことを聞いてくれなかった。

「貴方は、何でも出来るんだね」
一小節ずつ彼女の音階を追い掛けながら歌い終わった時。飾り窓の硝子から溢れる煌めきを瞳一杯に湛えて彼女は言った。相変わらず薄紅に色づく頬を楽しそうに膨らませている。
「自信無いなんて言ってたけど……。一回で覚えちゃうし、それにすごく上手だよ」
今まで歌う機会なんて一度も無かったので、事実上手く歌える自信は無かった。相手に気遣いをしそうな雰囲気を彼女は纏っているので、世辞を言ってくれているのかも知れないが、此方が恥ずかしくなる位に純粋な目を向けられて悪い気はしない。
「ほんと?」
「うん。それに貴方の歌を聴いてると、安心する」
何かを思い描いているような面持ちで彼女は睫毛を僅かに伏せた。
嫋やかに光を抱いた瞳は、近い年頃の子供なのかと疑う程に慈しく、その眼差しを見ていると体の中心に火が灯ったような音が頭の中で反響した。
「オレはただ真似してただけさ。だから、そう思うのは君がとても優しいからなんだよ」
自然と口をついて出た本心に、言い終えた直後自分でも少し驚いた。当たり障り無く感情を込めない適度な口上は直ぐに思いつく筈なのに、考えもせずに人に伝えたのは一体いつ振りだろうか。
オレが半分困惑している一方で、彼女は笑みも恥ずかしがりもせず、こちらに目を向けたままぴくりとも動かさない。まるで心臓が一瞬止まってしまったかのような僅かな驚きの感情は読み取れるが、それ以上は彼女の思考が読めなかった。
何か間違ったことを言ってしまったかと慌てて窓に顔を逸らし、差し込む光が微かに弱まっているのを口実に切り上げようと時間を気にする素振りをした。
気付いた彼女は服のポケットから銀の懐中時計を取り出して時刻を確認する。
「そろそろ戻った方が良さそうだね。一緒に帰ろう?」
その言葉に同意して、寂しがっているような色に染まり出す室内を後にした。

≪PREV | TOP | NEXT≫




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -