長編小説 | ナノ



 Vouloir c'est pouvoir


[

このまま落胆に傾倒してしまえば、漸く掴みかけた端緒を見失ってしまう。先ずは自分自身で能力を実感してみようと気持ちを切り替えた。
痺れを切らしていなければユウは修練場で待っている筈なので、発動状態での手合わせを頼み込もう。練習用の剣を借りつつ駆け足に修練場の三階に登る。道中足を動かしながら、ふと思い出した。
ユウは三階に来いと言っていたが、其処はイノセンスを使用した訓練が許可されている階層だ。まだ私が発動に至っていないのは彼も承知している筈だが、一体何故だろうと疑問を抱いた。

階段を登り切り、場内にて苛立ちを露わにするユウを見つけ、彼の許へ駆ける。
「遅ぇ」
私が話掛けるより早く淡々と告げ、言い訳さえ切り出す間も無く、竹刀を私に向かって構えた。
「お前のイノセンスの力、どの程度か見てやる」
その言葉から察するに、彼は私の変化に気付いている様子だ。はっきり告げた訳ではないというのに、本当に恐ろしく鋭い感性に瞠目する他ない。
「……でも。ユウは六幻を使わないの?」
ユウの対アクマ武器である黒い刀、六幻。それが彼の手には握られていない。私がイノセンスを用いるならば、相応の装備でなければ不公平な勝負になってしまわないだろうか。
「自惚れてんじゃねぇよ」
私の憂慮をよそに嘲笑めいた声で、彼は露骨に私を挑発してきた。
初めての会話が挑発合戦だった所為か、あの日以降度々ユウは手合わせの際に私を焚き附けるような発言をする。たちが悪い事に、段々と剣で相対した際の私の煽り方を会得しつつあるようだ。
「絶対、後悔させてやるんだから」
その余裕の表情を崩してみせる。そう意気込み唄い出そうと息を吸い込んだが、ふと我に帰り咳払いで吐き出す。
「あ、あの。……一旦向こうで発動して来ていい?」
「は?」
「発動するのに、唄わないといけなくて……」
歌が好きであるというのは変わりはないが、教団へ来てからも今までと同様に人前で歌うことは無く、人気のない場所を探していた。今は聴かせる事が目的ではないものの、どうも気恥ずかしさが勝る。
「お前の唄が下手だろうがどうでもいい」
頭に小石を当てられたような気分だ。上手さに自信があるわけでも無いが、そこまで断言されると恥じらいも吹き飛ぶ。むしろ堂々と聞こえるように声に出してやろうという気が沸々と横溢する。
広めの間合いを取りながら剣を構えた。

――ユウにもしっかり聞こえるように唄おう。……さっきの唄、もう一度教えて貰ってもいい?
意識を脳髄の底に沈ませるように、問い掛ける。
すると穏やかな声音の囁きが答えた。続いて、鮮明な音階が次々と頭の奥で反響し始める。
身内の唄に重ねて一小節程の短さで声を放った途端、身体の芯が燃え上がる錯覚を感じ、直後身体が熱を持ち始めた。次第に体内に膨らむ力を放とうとする騒めきが湧き上がってきた。

初めての体感に戸惑うが、悠々と堪能している余裕は無いと気付かされる。
向かい合う相手が僅かに動いたからだ。珍しく今回は彼が間合いを詰めて来た。
迫る剣尖は無駄無い軌跡で振り上がり、伸びるように真っ直ぐに落ちてくる。
……何故か、その動作がやけに判然で普段より遅く見える。問題なく避けられる確信を得て半身を逸らすと、予想通り彼の打突が空振った。
しかし、彼は打ち切っていない。元より私が避けると予測していたのか、手首を利かせて振り幅を最小限に止めている。そんな微細な動きさえ見極め、自身の次の対処を考える余裕が有った。それが不思議で仕方がない。
ユウは着地する左足の向きを素早く変え、再び此方へ踏み込みながら腰を捻った反動を使い、下がった剣先を私に向けて薙ぐ。直に受け止めれば確実に弾き飛ばされるだろうが、今の体勢では避けるのは困難だ。
重心を落として衝撃に備える。
竹刀を剣身で受けた。尋常ではない衝撃が身体を走り抜けるが、まだ足は地に付いている。
――持ち、堪えた。
そのまま迫合いとなりながら、未だ私は当惑していた。
ユウは決して手加減しているようには見えない。普段私を返り討ちにする剣戟の威力と速度だ。何故私の眼は突然敏くなり、身体は思い通りに反応しているのかと。

互いに後退し間合いを取った。距離を詰める時機を図り、彼の隙を引き摺り出そうと前に出る。
途端、滔々と身体に熱が溢れ出すように、柔軟で力強さの増した肢体の動かし方が解ってきた。同時に確信が胸の奥に落ちる。
――身体能力を増強させる能力。これが私のイノセンスの力……!

「今更気付いたのかよ」
ユウは私の打突を受けながら、余裕の表情を見せる。次の瞬間、彼は柄を握る右手を態とらしく離し、残った左腕だけで私を押し返す。身構えていたにも関わらず、思いもよらぬ速さと強さに仰け反り、慌てて後退した。
先程受けた、体重と遠心力を手伝わせた攻撃よりも、明らかに力の乗り方が違う。片腕の力とは思えない。
――ユウにも効果が作用してる……?
私の疑念に答えるようにユウは構え直す。
ほんの一瞬、今までになく楽しげで残虐じみた彼の笑みを見た気がした。普段以上に気を引き締めなければ、瞬殺されると鼓動が警告している。

互いに強化された状態で、どれ程打ち合えるのか。試さない選択肢は無い。
素早く間合いを詰め、予測と僅かな彼の動作を見極めながら次々に打ち込む。対してユウは攻撃も反撃も無く、受けるか凌ぐかの動作しかしていない。
とは言え、防戦一方という風ではない。むしろ此方を冷静に分析しているような静かな気配を秘めている。
俄かに、ユウが大きく後退しようとする初動を見極めた。彼の体勢が安定する前に腕を伸ばし切れば、初めての一勝となる。
迷う事無く退がる彼を追い、眉間に目掛けて突きを放つ。

伸びた剣先の前にユウがいない。無様にも彼の策に誘い込まれてしまったのだ。
加えて最大の挑発のつもりだろう。半身を逸らすという、彼の初手を避けた私と同じ躱し方を、更に早く完璧な挙動で見せ付けられた。
――……それなら私も同じ方法で仕返す。
挑発に乗ったと見せかければ、彼は間違い無く私とは異なる動作で受け、反撃するだろう。
今から繰り出す横薙ぎの攻撃は振り抜かず、彼が反撃する前に直後に次の手に切り替えて出し抜く。
左足で踏み込み足腰に重心を確と落とし込む。身体を半回転させながら剣の向きを横に変える。
するとユウは竹刀を逆さに立てるような受け構えで、想定より早く私の剣を受け止める。
直後、私の横に回りながら、真下に向けた切先を弧を描きながら私の頭上に翻す。
――早すぎる、……また嵌められた……!
間に合わせの対処で手一杯だ。攻撃の体勢に移る余裕など無い。反射的に横にした剣身でなんとか受ける。
剣を伝って重い衝撃が腕にのしかかる。安定しきっていない足元が崩れ、間一髪の所で片膝を地に立て転倒を防いだ。
互いの刀身が十字に交わっているが、私の剣は上から押さえつけられている。
少しずつ腕に篭る力が削り落とされている。拮抗が揺らぎ出した。一切力を抜けない状態で、どう打開したらいいのか、案が思い付かない。

折柄、耳打ちに近い密やかな声が頭の中に谺する。
発動の際とは異なるイノセンスの紡ぐ新しい唄だ。その旋律には私を助けようとする意思が強く感じられた。
助言に応えるべく、残る力を注ぎ込む気合いで腕を持ち上げ短い唄を絞り出す。
忽ち帯状の白銀の光が空中に浮かび上がり、間も無くして私の剣に吸い込まれていった。
すると、剣が磨かれた銀鉄のように淡く光を纏い、合わさる竹刀が音を立てながら剣に食い込み軋み出す。上から掛かる重みが薄れた刹那、まるで研磨された刃に斬られたかのように、竹刀が二分した。
勢い余って振り上がる私の剣に対し、両断された竹刀の半身は落下する。やけにその光景が長々と感じられた。
自身の所業ながら、誰よりも私が驚愕していただろう。木製の剣では、精々本気で振ったとしても薄い紙ぐらいしか斬れない。私の力では竹刀を折ることも難しい。

今は間違いなく形勢逆転の好機だ。そう思ったが、ふと、それは自身の望む勝利ではないのでは、と躊躇った。
この機会はイノセンスが作り出したものだ。私の実力ではない。
飛び退いてユウから遠ざかろうとしたが、心体に生じた明らかな隙を彼が見逃してくれる筈は無く、私の着地と同時にユウは踏み込み、半分の長さになった竹刀の先端を私の首元に突き立てる。
「情けを掛けたつもりか」
彼は静かな怒りを孕む眼差しを向ける。やはり追撃を見送った事を見抜かれていた。
しかし、決して彼の威厳の為に勝たせようなどという蔑みではない。寧ろ相手を慮れる程の余裕など持ち合わせていなかった。

ユウはイノセンスに頼らず勝負しているのに対し、私は八割以上イノセンスの力を受けて戦っていた。
唄の力が無ければ彼の挑発に嵌った時点で負けが確定していたようなものだ。
「違うよ。ユウには、自分自身の力で勝ちたかっただけ」
強く見返すと、相対した眼が宿す不穏な感情が薄らいだ気がする。寧ろ余りに身勝手な言い分に呆れが勝っているのか、場を緊迫させる鋭気も消えていた。

「……一生掛かっても無理だろ」
構えを解いて溜息交じりにユウが吐き捨てる。
「そうやって見下してばかりいると、いつか恥をかくかも知れないよ」
彼が怒りを手放したのを悟り、頬を緩めて生意気にもへ理屈を述べてみせる。
その時、唐突にユウの手が眼前に迫って来て、身構える前に頭を掴まれた。慌てて痛みに備え眼を固く閉じ、歯を食いしばる。
しかしユウが指先に力を込める気配は無い。時を待たずして、顔を覆う彼の手が離れていった。それでも念の為警戒を解かずにいたが、どうやら今回は私を懲らしめる気は無い様子だ。
恐る恐る片目を開いて彼を窺い見る。
「ブサイク」
一言。冷めた面持ちでユウは鼻で笑い、何事も無かったように歩き去っていく。
流石に聞き捨てならない。恐らく無視されるのは目に見えているが、せめて抗議は唱えようと、やけに勝ち誇って見える彼の背を追い掛けたのだった。

\

「……まるで、共振だな」
ヘブラスカの間に降り、発動の唄を口にした直後、彼女が息を呑むようにして最初に告げた言葉だ。
上手く理解が出来ず、眼を瞬かせていると、隣に立つコムイが問い掛けた。
「ヘブくん、共振って?」
「発動時の唄はアリスに限らず、歌を耳にした適合者の肉体的な能力を高める効果がある」
彼女が言うには、人数に於いての上限は無いが一つ限定されるのは適合者にしかこの能力は反映されないのだという。
「確かに僕の身体には変わった感じが無いなぁ。でも一緒に戦う人数が多い程、重宝する力だね」
「そうだな。……だが」
ヘブラスカが続きを濁す理由を察した。言い辛そうな様子の彼女の言葉を代弁する。
「発動に少し時間が要るのが、欠点?」
一度きりだが、この眼でアクマとの戦闘を見たからこそ、私の能力の最大の欠点は早々に思い浮かんだ。
ヘブラスカは私の答えに頷き、自在に変形する腕を緩やかに私の眼の前に伸ばした。一歩前に出て受け入れると柔らかな肌触りのそれが首に触れる。
「更に、アクマを破壊するには、もう一つ唄が必要になる」
もう一つと言うのは恐らく、竹刀を斬った際の剣を強化した唄だろう。
私は臨戦体勢を整えるのに最低でも二つの唄を要するが、アクマは先程のユウのように唄う間を与えてはくれない。発動前に戦闘に入った場合、機敏な判断と行動を取らなければ周囲の足枷となるのは明白だ。
けれど、悲観はしていない。寧ろアクマとの戦闘に向けて、より建設的な訓練に進む為の課題が見えたのだと、前向きに捉えている。

「その唄の音階は、物質の構造変化に加えて、アクマの動力伝達を停止させる効果を持っている」
声音を和らげたヘブラスカがそう告げたが、私は後者の具体的な意味が上手く理解できなかった、隣を窺い見ると彼もまた頭を悩ませているようで首を傾げている。眼が合い互いにはにかみながら、声を合わせてヘブラスカに再び問うた。
「それって、どういう事?」
「アリスの持つ武器は、一時的に対アクマ武器として使用出来る」
「それってなんだか、私に合わせてくれてるみたい……」
「寄生型のイノセンスは、適合者に密接な分、見合った能力を新たに生み出す傾向がある」
彼女が続けて言うには、それに近い現象で、イノセンスが剣を扱う私の為に能力を作り出したのかも知れないという。
以前イノセンスが迷ってるようだと言っていたのは、どのようにして私に力を施そうか思案していた為なのかも知れない。
ヘブラスカのイノセンスに対する分析の精密性には感謝するばかりだ。彼女の情報を活かしつつイノセンスと共に練磨を重ねれば、私一人で戦う事も不可能では無いかも知れない。

「漸く発動に至ったか」
突如、遥か頭上から厳然とした声が降ってくる。見上げた先の、普段は黒々と闇を広げる壁面の一部に、煌々と白い明かりが灯されていた。
照らされ浮かぶ影が五つ。簡素な椅子に鎮座する黒衣の人影がそこに在った。
まるで人形が置かれているように、生気がない。背格好も全員同様で、一切顔は見えず男か女かも判別がつかない。余韻を残す声だけがやけに生々しくて不気味だった。
「大元帥……」
隣でコムイが呟いた。彼の表情が一気に強張り、緊張が窺える。
コムイが口にしたその人々は、教団本部へやって来る事は殆どないと聞く。
大元帥が口切に落とした発言は、あたかも私の様子を見に来たかのようだが、たった一人の為に遠方から赴いているとは考え難い。
きっと通信機器を通して、遥かな地より声を飛ばし、姿を見せないまま私達を監視しているのだろう。非常に居心地が悪い。

「ヘブラスカ。同調率の報告を」
低く反響する声に対し、ヘブラスカは躊躇うように無言となる。
再び催促するような口調で大元帥が彼女の名を呼ぶと、静々「五十六」とヘブラスカが告げた。
初めて聞く言葉と数字は、間違い無く私に纏わる何らかの結果報告なのだろうが、全く会話の真意が見えて来ない。
「……聞き間違いか?そこに居るのは寄生型のエクソシストだろう」
「期待外れか」「低過ぎる」「本当に寄生型の適合者か?」と、次々に放たれる冷淡な声は怪訝を胚胎しながら飛び交う。
すると、コムイが毅然とした声調で大元帥達に呼び掛け、非難の声を止めた。
「ご安心ください。問題は全くありません。同調率は日毎に上昇していますので、引き続き訓練に務めさせます」
言い終えると、この議論を切り上げようという意図なのか、彼は恭しく辞宜をした。

「待て」
すかさず、大元帥の一人が声を発する。
「五十を超えているのなら発動に支障は無いだろう。報告書にも毎日実践的な剣術訓練を行なっていると有る。戦場に出せぬ訳ではあるまい」
弾かれたように、コムイは顔を上げた。私も、大元帥が何を言わんとするのか察した。鍛錬に努めているとは言え、任務を一つもこなしていない私は、彼等から見れば一月以上何もしていないのと同義だ。
「エクソシストとしての役目を果たせ」
「お言葉ですが……」
大元帥に意見しようとコムイが口を開くが、私は彼の袖をなるべく彼等に見えないように軽く引いた。此方を見遣るであろうコムイとは視線を合わさないよう、目蓋を伏して僅かに腰を折り、大元帥達に敬意を示した。

大元帥……。彼等の方が余程祖父に近い思考を持っているようだ。
だからこそ、彼等が述べる意見は至極全うだと理解できるし、意見に従わない者がどうなるのかも容易に想像出来る。
否定的な意見を述べれば、恐らく室長としての立場が危うくなってしまう。
リナリーの為にと費やした彼の努力と、途絶えずに済んだ二人の絆を水の泡にしてはならない。

二日だけ猶予を与えられた上で、私を任務に赴かせるという結論で大元帥との対話が終えた。
頭上の明かりが消えてしまっても、コムイは僅かに眉根を寄せて暗闇を見つめていた。
私は頬を緩めながら、彼の視界に映るように正面へ回った。
「発動の感覚は掴めたつもりだから、大丈夫だよ」
「アリス……。……うん、君の言う通りだ。そうと決まれば、急いで任務地を選定しないとね」
「私の所為でみんなの仕事、増やしちゃってごめんね……」
「僕等は君達エクソシストのサポートをする為に在るんだ。気にせずどんと任せといてよ」
彼は自身の胸を拳で軽く叩いて見せた。その声音は普段と変わらない明るさに戻っている。緊迫の空間に再び朗らかな空気の広がりを感じて、安堵した。
しかし、先の大元帥との会話でまた一つ、知らなければならない言葉を聞いた事を忘れてはならない。
それを今知る事で、浮上に向かっている気概の降下を憂うが、聞かぬ振りをして逃げる方が後悔をする予感がする。
温かく和らいだ場の温度を又しても下げそうで心苦しいが、意を決して切り出した。
「コムイ、ヘブラスカ。上に戻る前に教えて欲しい事があるの」

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二人に教えられ、また一つイノセンスについて知り得た。
適合者とイノセンスの間には、ヘブラスカのみが測ることのできる「同調率」という数値があるという事。
同調率は適合者が対アクマ武器を発動するに当たっての、生命線とも言える数値だ。
これまでその数値の存在と値が告げられなかったのは、大元帥に伝えた「五十六」という値よりも尚低かったからだろう。
寄生型の適合者は精神の上下がイノセンスに影響を強く与える傾向にある。同調率の変動に作用する可能性も全く無いとは言い切れない。
同調率が低い程、発動は困難となり適合者も危険な状態に陥りかねない。故に私が動揺しないよう彼等は配慮してくれていた。
それは、私の悲観による動揺が容易に予期できる程、当初の状況は芳しくなかったと意味している。
コムイ達は私に配慮して、十分過ぎる程の時間を掛けてイノセンスに慣らす為、取り計らってくれていたのだ。
その心遣いに感謝しているからこそ、今回の任務を熟す事で彼等を安心させたい。説明を受けた後、そう惟ながらコムイ達と別れた。

しかし、今日は感情の変化が激しかった為か、自身でさえも今の心境が本当に前向きになっているのか、上手く把握出来ていない。
少しだけ、一人になりたい。そう茫漠と思った時には、足は森の方へ向いていた。

鬱蒼と茂る森を探索していた際に発見したのだが、この森には一箇所だけ開けた場所がある。
範囲は然程広くないが、陽光を丁度良く遮る木陰もある為、重宝している。
此処を見つけてからは、複雑な心持ちの時や、歌を口ずさみたい気分の時等……、不意に思い立つ度、足繁く通っていると言っても過言ではない。
そもそも森に入る団員自体が稀有な上、長居するのはユウと私、それから私に付き添ってくれるリナリーのみらしく、その場所で人と出くわした事は一度も無かった。
その為、特に気兼ね無く歩みを進めていたが、木立の隙間から覗く明るく照らされた場所を眼にして直ぐ足を止めた。

どうやら先客が居る。
傍に腰掛けるのに丁度いい広々木陰を広げた一際大きな木の傍。其処に誰かが座っていた。
慌てて近くの幹に身体を寄せて隠れる。最小限に顔を覗かせ、眼を凝らしてその人を判別した時、酷く胸を締め付けられる心地を覚えた。
それが喜びなのか、悲哀に因るものなのかは、解らない。
ただ、こんな所で彼に会えるとは思っておらず、この足を踏み出すべきか下げるべきか逡巡した。
判然としない綯交ぜの感情に揺さぶられながらも、出した答えは前進だった。

会って何を話そうか、どんな顔をして近付こうか。何一つ準備は出来ていないが、きっと此処で私が避けてしまえば、彼との距離は離れて行く一方だ。
何歩か進み、明るみに踏み込んでも、私に気付くどころか少しも動かない。
確とその面持ちを見ると、彼の緑の瞳は目蓋に遮られている。木に凭れて眠っているのだと解った。

本来ならば彼の安らぎの時間を邪魔しないよう、立ち去るのが正しい選択だろう。
けれど私は歩みを止めなかった。蝶が花の香りに誘われるように、或いは蛾が燃え盛る炎の光に導かれるように。無心に一歩一歩と距離を縮めていた。
手を伸ばせば触れられる程間近まで来ても、彼の深い眠りは続いている。少しだけ安堵した。
今なら私が失言をする事もないし、失態で困らせる事もない。そして、感情が喪失した笑みを彼が浮かべる事もないからだ。

彼が目覚めれば、二、三程度の他愛無い言葉を交わして立ち去ってしまう気がする。
声を掛けず、音を立てないよう慎重に傍に寄り、隣へと腰を下ろした。顔を向けてその寝顔を凝視する勇気は持てず、横目に彼を見遣る。
髪を下ろしている所為か、無防備な表情の所為か、その横顔が幼く見える。加えて未だ頬を占領する綿紗がやけに痛々しく映った。その姿が儚くも清艶だと、締め付けれられる胸中が告げた。
そよぐ風がまるであやすように優しく彼の髪を撫で揺らし、無性に安らぐ寝顔に触れたいと、衝動めいた欲が芽生え出す。
優柔な自身がもどかしい。そう感じた折柄、意識なく伸びて彷徨いかけていた手が自身の視界に映り、慌ててそれを引っ込めた。

遣る瀬無い。そう思った矢庭、音無く若い色の葉が彼の髪に落ちた。
柔らかな色調の葉と、鮮やかな髪色は、対照的ながら互いを引き立て合っているようで、いつの間にか首を向けて凝視する程に眼を奪われいた。
この落葉は、彼に近付く口実を作る大樹の図らいに思えて、密かに感謝を心の内に浮かべながらそっと葉を摘む。彼に触れないように指を離すが、若葉は離れ難いのか短い葉柄で髪を数本掬ってしまった。
引き連れた髪を丁重に解くと、しなやかに弛みながら戻って行く。
変則が齎す繊細な動きさえ整っているのは彼が成すものなのか、私の偏向によるものなのか。
……浸っている場合ではない。恐る恐る寝顔を窺えば、余程深く寝入っているのだろう。彼は目覚める様子はなさそうで胸を撫で下ろした。

余計な干渉によって、清澄で安らかな表情が崩れる様を見たくはない。もう離れた方が良いだろう。名残惜しさを振り切って立ち上がった。
一歩彼から遠去かり、振り返って向き合う。
俄かに吹いた風が立てる細やかな音に「おかえり」という一言を静かに紛れ込ませた。
何故、何の脈絡もないその言葉が溢れたのか、自身でも理解出来ない。
例え彼が目覚めていたとしても、何度告げた所で返事は貰えないというのに。
……ただ、それでも。彼を見つめていると、伝えなくてはならないのだと理由無き意志が湧き出でて、口に出さずにはいられなかったのだ。
勿論、今回も対する言葉は帰って来なかった。

深い影を作る森に戻った。あの場所ではなくても、歌は歌えるし、気を落ち着かせる事も出来る。
紡ぐ祈りを子守歌に乗せて口遊む。彼の穏やかな眠りが、少しでも長く続くようにと。
そうして歩きながら、木漏れ日を落とす木立の群れを見上げてふと思う。この景色は、あの町の廃教会へ続く森と似ている。
何度も通ってきた風景なのに、郷愁を覚えたのは今日が初めてだ。
――どうして、今頃そんな風に感じるんだろう。
立ち止まり、捨てずに手の内に収めたままにしていた若葉を眺めた。
その折柄、後ろから緩やかな風が吹き抜け、掌の葉は流れに乗って一面に広がる緑に吸い込まれて行く。
同時に、風と葉音に紛れて誰かの声が通り抜けたような気がして、振り向いた。
しかし、背後には誰も居らず鮮やかな緑が広がっているだけだ。
――……どうして。其処に居ると思ったんだろう。
慣れている筈なのに、たった一人の帰路が無性に寂しい。気付いた時には、頬に生温い雫が伝っていた。

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