長編小説 | ナノ



 L'endroit pour mettre le cœur


X

「おまちどーん!」と通りの良い声で、ジェリーが私達を呼んだ。
差し出された二つの料理は対照的で、私の料理は深めの土鍋の中で熱された油の照りが、焦げ目のついた肉と共に如何にも濃厚そうな味を醸し出している。
リナリーの方は、大きな皿にトーストと卵料理、豚肉の燻製、焼ききのこ等数種類が少量ずつ取り分けられた英国式の朝食だ。

「アリス。あまり時間をかけられなかったから、南仏風になっちゃったけど、自信作よ」
黒い硝子の向こうで片目を瞬かせていそうな彼女の言葉の通り、本格的に作ろうと思えば、豆や肉の調理もさる事ながら、数回に渡って焼き込まなければならないので、非常に手間が掛かる。けれど見た目や湯気に寄り添い香る匂いは、時間短縮の為にそれらしく作ったとは思えない出来栄えだった。
「”風”じゃなくて、そのものだよ。すごい…」と感動の眼を向けると、面映そうに「ちょっとそんなに澄んだ目で見ないで!褒めたってお料理しか出さないわよ!」と笑われた。

リナリーと二人並んで席に着き、遅めの朝食を始める。一口目を食す前に「ジェリーも言ってたけど、随分熱そうだから気を付けてね」とリナリーに言われたが、その矢先。つい癖で冷まさないまま口の中の舌先に熱いものが触れてしまい、素っ頓狂な声を上げてしまった。
次いで笑いを喉元で堪える声が隣から聞こえたので、恥ずかしくも視線を向ける。
「ふふ。ごめん、ごめんね。アリスったら、気を付けてって言ったのに食べちゃうんだもの」
……尤もだ。急いで食べようとしている訳ではなかったが、この癖はいつまで経っても抜けずに残っている。あの町に住む前は、熱が冷めるのを待つ、或いは冷ましながら食べる機会が一度も無かった所以かも知れない。

「はいお水。ちゃんと冷ましてから食べるのよ」
「ありがとう…」と、ひりつく舌を労わりつつ差し出された冷水を受け取る。不意にリナリーの見守るような微笑に、失った人の姿が重なった。
――いつも。アジュールにも同じように注意されてたなぁ。
口の中に含んだ水が、舌を冷やしながら目頭に向かって迫り上がる。そんな感覚を水と共に身体の中心へ嚥下し、悲壮を拭うように口を開く。
「此処は随分広いけど、随分沢山の人がいるんだね」
黒の教団にとっての戦力であるエクソシストは現在、私が加わった所で僅か十九名。それに対して敷地がかなり大規模だ。現に食堂は目測でも千は超える人数に対応出来得る体制が整っている。

私の問いにリナリーは、丁寧に各部署の詳細も含めて説明してくれた。
団員は大きく分けて実働派と後援派に分かれる。実働派として分類されるのはエクソシストだ。教団の職員として大多数を占めているのは後援派の人々ということになる。
後援派は七班に分かれており、最も人数が多いのは探索班だ。次に科学班、医療班、通信班、対外調整班、警備班、そして総合管理班という順になる。
この施設は北欧の辺境に位置しているそうだが、例えばリナリーの故郷は中国で、ジェリーはインド出身といったように、部署に関わらず国籍も様々だという。

「リナリーはいつから此処にいるの?」
「私が教団に連れてこられたのは、六歳くらいの頃だったから、もう八年は経つかしら」
随分教団に慣れている様子だったので、彼女がこの場所で過ごして来たのは一、二年程度の年月ではないだろうとは思っていたが、予想よりも遥かに長い。
彼女にとっては故郷で暮らしていた期間よりも、エクソシストとして教団に所属する期間の方が上回っている。

エクソシストになった経緯や、今日までの歳月について、今の間柄ではあまり深く聞くべきではないように思えて、口を噤んだ。
そんな複雑な感情が僅かに顔に出てしまっていたのか、沈思する私を見て彼女は頬を緩ませる。
「初めは中国に帰りたくて仕方がなかったけど、今ではここが私の家だと思っているわ」
彼女のように幼少の頃からではないにしても、長く此処で従事する者は多く、教団を「我が家」と呼ぶ人々も少なくはない。そう言ったリナリーの眼は、遠い日の出来事を思い浮かべているようで、悲しげでもあり、幸福そうでもあった。

いつか、彼女と互いについて話せる程に仲を深められ、私自身にとっても、この地が新たな我が家だと言える……、そんな日が来るのだろうか。
茫漠と考えながら、少しばかり熱さが落ち着いてきた白花豆を口に運ぶ。
肉の香ばしい香りが鼻腔に伝わり、滋味が染み込んだ豆は口の中で容易く散ぐ。
味わい深さも、柔らかく蕩けるような食感も、過去の情景を自然に想起させる。慌てて熱がる振りをして水を飲み干し、気を落ち着かせるのだった。

Y

朝食を終えてまず向かう先は、医療班が管理する階層だそうだ。階段を上がりながら、聞こうと考えていた問い掛けを口に出す。
「リナリーのイノセンスって、どんな武器なの?」
彼女は足を止めて「これだよ」と、片足の靴のつま先を床に一度当てて答えた。足……、靴の事だろうかと思いまじまじとその足元を見る。

リナリーの履いている靴と太ももまでの長さの靴下は特に装飾もない黒。
しかし改めて見遣ると双方は一続きとなっており、尚且つ革や布製ではない、多少の柔軟性はありそうだが見たことのない硬質な物質であった。
「この靴で戦うの?」
そう尋ねると、彼女は頷いて「円舞」や「踏技」と呼称する、所謂蹴撃技を扱うような戦い方をするのだと言った。そこで漸く団服や他の衣服の下衣の丈が短い理由と直結して、腑に落ちた。
発動前の状態はかなり簡素な見た目をしているが、発動し形状を変わればどんな出で立ちになるのか。また、彼女の言う技は、イノセンスが関わっている以上物理的な蹴り技とは異なるのだろうが、一体どのように繰り出されるのか。幾つも感興が湧き上がるが、それも追々知っていきたいと思った。
「休日用の服まで短くする必要は無いんだけどね。なんだか普段からこうじゃないと落ち着かなくなっちゃって」とリナリーは衒いもなく笑った。いつでも戦闘が出来るよう気を張る事が習慣付いているのかも知れない。

「アリスは、喉にイノセンスが寄生してるのよね?」
反対に投げかけられた問いに、包帯を巻いたままの首元に触れた。
「そうだよ」と答えつつも、指先は包帯を解くのを躊躇う。

朝、部屋に戻って着替えた際、鏡に映った自身の首筋の皮膚の有様に驚いた。
正直、自分の身体だと理解していても、悪い意味で息を飲んだ。まさかこんな状態になっていたとは、と。
昨日何の躊躇いもなく、ラビとコムイに見せてしまった事を大いに悔やんだ。

咽頭の中心。あの十字の痕の場所に、凝固途中の血液に似た結晶が、同じ十字の形で埋まっていた。それだけなら人に見せることに抵抗は抱かなかっただろう。問題はその周りの状態だった。
結晶を中心に、まるで皮下に根が張っているかのように線状の盛り上がりが四方に伸びている。
辛うじて首周りだけに留まっているが、お世辞にも見栄えの良いとは言い難い。

そんなものを見て彼女は気分を悪くしてしまわないだろうか。しかし、彼女に問いかけておいて自身の事は明かさない態度も快くは思われないだろう。
逡巡の末、おずおずと口を開く。
「ちょっと……見苦しいけど、見てくれる?」
リナリーは不思議そうに小首を傾げたが、直ぐに笑って頷いてくれた。
例え顔を顰められても、それは仕方がない。自身ですら嫌悪を抱くものを他者に受け入れろという方が難しいのだから。
そう自身の内で唱えながら決心し包帯を取りさらった。
彼女が嘆息めいて呟いた一言は、予期しない言葉だった。

「宝石みたい」
「そう。…………え!?」
脳内ではリナリーが絶句してしまった場合の、空気を切り替える返しを必死に考えていたのだが、予想以上に彼女は純真であったようだ。
「だって、すごいわ。中に光が灯ってるみたいで綺麗」
目を背けるどころか凝視された上に、こんなにも褒められてしまうと、返って別の恥ずかしさが横溢する。私が気に掛けている部分は全く目に入っていないのか、彼女は大きな瞳をそれこそ宝石のように輝かせている。
「ええと。それじゃあ、これくらいにして。そろそろ上に行こう」
ぎこちない口調を全く隠しきれていないが、気に留めずそそくさと包帯を巻き直す。少し名残惜しそうなリナリーの表情に罪悪感を覚えつつも、再び階段を登る足を進めた。

Z

医療班が管理する療養所は、微かに他の階層には無かった薬品らしき独特の匂いが広がっている。
一本の長い廊下が中央に伸び、左右にある幾つもの扉は病室や治療室等だろう。
廊下の際奥には鉄製の重々しい扉が見えた。何処と無く奥は仄暗く感じたが、照明の数は均等だ。手術室に通じる扉の可能性もあるが、密閉性は良いとしても緊急度の高い処置の為に、素早い移動に不向きな扉を採用するとは思えない。感染症を患った患者の収容場所か、或いは。

「アリス?こっちよ」
そんな思案に傾注していると、リナリーに呼ばれた。彼女は一番手前にある部屋の扉を開けて入って行こうとしていたので、扉の奥については聞けないまま急ぎ足に後に続く。

中に入ると、出迎えてくれたのは六人の看護婦達だった。広い室内には診察台と簡易的な治療器具が其々等間隔に並べられており、軽症者の治療を行う部屋だと見受けられる。幸いと思って良いものか、今は治療中の団員は誰も居ない。
「あら、リナリー。それから……」
看護婦の一人が声を掛け、私と視線が交わると口の動きを止める。次第にその面持ちが好奇心に満ちた様子に染まっていき、他の五人も息を合わせたように声を上げると、私達の元へ駆け寄ってきた。
「もしかして、入団者さん!?」
煌々とした眼差しで問う彼女達に、リナリーは自慢気な素振りで腰に手を当てて答えた。
「そうなの。アリスよ。エクソシストで同い年なの。ね?」
実に誇らしげに笑みを見せる彼女は、花が咲いたようだという表現がよく似合う。看護婦達もそう感じたのか、感嘆混じりに喜びを露わにする。

リナリーに向かって頷き、六人に向き直ると「はじめまして」と笑う。すると何故か歓声に近い声を浴びせられた。こんな歓迎を受けたのは初めてなので、心の内ではかなり戸惑った。
すると、出入り口の扉が開く音が聞こえ、次いで低く落ち着いた女性の声が賑々しい室内を静めた。

「一体何の騒ぎなの。隣の部屋まで聞こえてきたわよ」
怒りと表現するよりは諭しに近い語気に、私達を囲む女性達は「すみません、婦長!」と背筋を伸ばす。
一言で彼女達を宥めた人の姿を見ようと振り返ると、立っていたのは背の高い中年の女性で、発せられた声音に見合う引き締まった顔付きをしていた。
確かにこの女性に一喝されたら背筋も伸びるだろう。
一方リナリーは、入り口に立つ彼女の険しげな面持ちは気にしていない様子で、明るく声を飛ばす。

「ごめんなさい、婦長。この子を紹介したくて来たの」
リナリーの言を聞いた彼女は「そうだったのね」と落ち着き払った足取りで歩み寄る。私と向かい合ったところで厳格そうな口元を僅かに緩ませて、口を開いた。
「本部医療班を取り仕切っている、婦長のコストナーよ。宜しく」
その風貌や言葉遣いの印象から厳しい人物なのかと身構えていたが、間近で視線を交えると、凛々しく吊り上がった眼差しに胚胎した愛情深い内面が自然と伝わってきた。
リナリーはそれを承知していたから、無闇に怯える様子が無かったのだろう。彼女の手を取って頬を緩めて返すと、更に優しげな色が灯ったような気がした。

婦長に名乗ってもらったところだが、出来れば姓よりも名前を知りたい。彼女なら快く受け答えてくれるだろうと、心優しかろう気性に期待と甘えを込めて「婦長。名前は…?」と呟きじっと見つめる。
不意に看護婦達が静々と息を飲む気配が背から伝わった。何故か口を固く結んだ婦長に、どうした事だろうと小首を傾げて、戸惑っているようにも見受けられる瞳を窺い見る。

「………………ロザリア」と、長い沈黙の後、観念したようなかなり小さい声で婦長は告げた。

その瞬間、静聴していた周りの彼女達が騒めく。
「婦長が名前を教えた……!!」
「私、初めて婦長の名前知ったかも!」
彼女達の反応を見る限り、婦長はどうやら名乗るのを控えたかったらしい。理由は解らないものの恥ずかしそうに顔を顰めていた彼女だったが「ロザリア婦長。宜しくね」と愚直に言うと、そんな私に呆れてか、溜息を軽く吐きながらも、仕方がないといった面持ちで私に笑いかけた。

その後、婦長から必ず守って欲しいと、三点の要項を告げられた。
まず一つは「怪我や疾患の重軽、応急手当の有無に関わらず、治療を後回しにしないこと」
二つ目は「定期検査を必ず受けること」特にエクソシストは未知の存在であるイノセンスが起因の体調変化が起こる可能性が高い。月日をあまり空けず、推奨される間隔での検査が、かなり重要であると非常に近い距離で念を押すようにして言われた。

最後は「治療中は、医療班が完治と判断するまで必ず安静でいること」であった。
三つ目を言い終えた際に、看護婦の一人から「これは特に守った方がいいよ!病室を抜け出そうものなら地の果てまでも追い掛けられて、首根っこ掴まれながらベッドに引き摺り戻されるから!」と教えられた。特にエクソシストと科学班が怠りがちらしく、ロザリア婦長の形相が随分と険しい。
素直に従うべきだと悟り、大きく頷いて従順の意思を示したのだった。
今週中には必ず初回の検査を受けるようにと約束を取り付けられ、絶対に忘れないようにしようと心に確と刻み、階層を後にしたのだった。

[

修練場へ向かって階を下る途中、男女で分けられた東洋風の扉がある階が現れた。修練場にしては奇妙な出入り口なので、リナリーに尋ねると「そっちはお風呂だよ。修練場はもう一つ下なの」と教えられた。
何故この場所だけ様式が異なるのかと尋ねると、彼女は人差し指を口元に当て「今日の夜のお楽しみ。一緒に入ろうね」と無垢な破顔を見せた。
どういう事なのか聞いてみたが、リナリーは愛嬌のある微笑みを湛えるばかりで中々に頑固だったので、夜までの楽しみとすることにした。
明るくも落ち着いていて頼りになる人だと印象付いていたが、所々年相応な姿を見せる。そんな彼女に心を寄せられつつある自身に気が付き始めていた。

然う斯うする間に修練場に到着した。修練場は三階層に渡り、其々使用制限は無いに等しいが、イノセンスを使用した訓練に限っては三階でのみ許可されている。
残りの二階では、所属に関わらず訓練や精神統一に勤しめるという。
三階は無人だった為、階下に降りると、朝に出会った探索部隊の面々も含め、数十人の男性達が体術の鍛錬に励んでいる光景が広がっていた。

その内の一人。確か、目覚めた私に一番早く気付いた体格の良い中年の男性が、私達に気付いて駆け寄って来る。
「二人共、教団案内は捗ってるかい?」
「まだ始まったばかりよ。皆は……随分長く打ち込んでるのね」
そう言って辺りを眺めたリナリーの視線を追い掛けるようにして見回すと、数名息が上がって床に倒れ込んでいる人が見えた。

「いや。まだまだこれからだな」と、彼は息を吐く。床に転がってしまっている人程ではないが、彼も随分汗をかいているので、適宜休憩を挟んでいるとしても、そろそろ三時間程になるのでは無いだろうか。まさか、日がな一日彼らは鍛錬に努めるつもりなのだろうか。

「隊長!自分ばっかり休憩してないで、組手やりましょうよ!」
「わかったわかった、ちょっと待ってろ!」
「……隊長?探索部隊は大勢で行動することもあるの?」
「そうだ。このフロアにいる連中は、床に転がってるのも含めて全員、俺の隊の所属だ」

私の町で出会った探索部隊はエマティット一人だったので、彼等は少人数制で動くのだと思っていたが、隊長が率いる大人数の隊もあれば、少人数、または一人で動く班員もいる。
分隊または小隊規模で動く部隊は、情報収集が主な任務となり、少数や単独で動く班員は、隊が収集した情報をエクソシストに伝達しつつ追随し、案内等を行うというのが主な任務であるそうだ。どちらにしても、探索部隊は後援派の中で最も危険な職務を担う。
対アクマ防衛として科学班から支給される機材はあるが、基本的に彼らはアクマと対峙した場合、身を守るか逃げ果せる、何れかの手段しか持ち得ない。己の肉体が出せる力のみを頼りに戦場で生き残らなければならない為、エクソシストのみならず多くの探索班員は、任務外の時間はこうして鍛錬に励むのだという。

「俺達はアクマを倒せないけど、だからってエクソシストの足を引っ張っちゃいられない」そう意気込みながら隊長と呼ばれていた彼は、部下達の元へ戻って行った。
――あの人達も含めた大勢の人々に支えられて、エクソシストは戦うんだ。……私に彼等の覚悟が背負えるだろうか。

「 アリス。まずは教団の一員として、新しい環境を知って、新しい生活に慣れる事からでも、私は良いと思うよ」
焦燥しそうになる心緒を宥められ、逸る思考を止めた。リナリーは、重荷に感じる必要はないのだと教えてくれているのだと思う。
彼女の優しい言葉を受け取りつつも、内心で自身を戒めた。他者を気遣う余裕も強さも私には無いのだから、今は私が誰かの為に出来ることを知り、己の力としなければ。と。
「……うん。ありがとう。もう少し、皆の鍛錬を見ていっても良いかな?」
彼等の熱意はしっかりと胸の内に受け止めておきたい。リナリーと二人、暫く探索部隊達の鍛錬を眺めていた。

\

広々とした正面玄関を通り、聳え立つ堅牢な門を開けてもらい、外に出た。
思いの外、外気が冷え込んでいて若干身震いを覚えながらもリナリーに続いて歩みを進める。「まだ振り返っちゃだめだよ」と言った彼女は真っ直ぐに前進する。何処まで行くのかと疑問を投げ掛けようとした折柄、彼女は立ち止まって振り返る。上空を見上げながら「うん。この辺でいいわね。アリス後ろ、見てみて」と言った。

言われた通りに振り返ると、壮大な光景に思い掛けず叫びにも近い感嘆を上げていた。
青々とした森に囲まれ、屹立した門を構え大理石で形成されたその様式は古い鐘楼に似通っているが、塔と形容するには余りにも巨大で、かなり建物から離れているにも関わらず、全容を見るには仰ぎ見なければならない。外観や内装は百年前のままではあるが、現代科学を超えた機能を幾つも内在する、何とも怪奇じみていて感興の絶えない建造物だろう。
眼を大きく開いた状態のまま、リナリーに「こんな景色見たことない!」と感動のままを伝えると、彼女は嬉しそうに眦を細めた。

今日はこれまで階段での移動であったので気付かなかったが、食堂や医療用階層、修練場等、動く床が見受けられない階層があった。
あの大きな浮遊する床はこの建物の何処を通っていたのか、不意に疑問が過ぎる。
「リナリー。電気で動く床は、この建物の中心を通ってるんじゃなかった?」
「エレベーターの事?一部の階層は吹き抜けになっているけど、広く場所を取っている階では、建物の端を通って移動してるのよ」

言われてみれば、上下の移動に限らずあの床は平行移動も可能だった。移動の様子を思い出そう昨日は時間や自身の余裕が無く、十分観察できなかった。改めて床に対する興味が横溢した。

「後で乗せてもらえるように、お願いしてみるね」
「えっ、いいの?」
「実は、アリスがエレベーターに興味津々だったって聞いてたの。真下を覗き込もうとしてラビに怒られたんでしょ?」
思いも寄らぬ情報の漏れに、案外おしゃべりな人だったのか、と眼鏡の彼の顔を思い浮かべながら、恨めしげに彼女を見つめる。
「コムイから聞いたんだね?」
「怒らないであげてね。私が兄さんにアリスの事教えてってしつこく聞いたの」
「乗せてもらったらまた同じような事しそうだし、気にしてないよ。……ん?………兄さん?」
「そう、コムイ室長。私の兄なの」

本日では二回目になる盛大な驚き。
コムイも中国人だったのだと思い出す。歳も離れていたし、そもそも余り外見は全くと言っていい程似ていない二人なので、この時分まで結びつかなかった。
二人が兄妹だと認識したからかもしれないが、何処となく物腰の優しさが似通っているような気がする。

リナリーは考え込みながら目を瞬かせる私の反応に笑みをこぼしながら「そろそろ中に戻りましょう?図書室はもう行ったから、次は通信室よ」と言って私の手を握った。しかし、直ぐに繋いだ手を離して「ごめんなさい。私……、一人ではしゃいじゃって」と、頬を赤らめて気恥ずかしそうにはにかむ。

教団の中で、歓迎を示す人も多く居たが、同時に好意的ではない視線も感じていた。気にしないように心掛けながら、目が合った相手には口角を上げて挨拶を送った。それに対して陽気を取り繕って返す人もいれば、目を逸らす人、残念そうに顔を顰める人と様々で、新たな入団者を、団員全員が歓迎してくれているわけではないのだと知った。以前暮らしていた町の何倍もの人、尚且つ国籍も多様な人々が居るのだから、当たり前だと思いながらも、落胆が胸中に滲んだ。
けれど、それでも心が沈まずに済んでいたのは、リナリーが傍に居てくれたからだ。

不意に夢の中で言われた言葉を思い出す。自分の夢の中でアジュールに言わせた都合の良い言葉のはずなのに、不思議とその言葉に元気付けられ期待を寄せていた。
そして眼前の彼女が、それは私の独り善がりな期待ではなかったと教えてくれた。まだ、無条件に私を受け入れてくれる人がこんなにも間近に居る。

彼女の行き場の無くした手に向かって、自身の手の平を差し出した。
「知れば知るほど、私も此処が好きになってるの。だから皆の。リナリーのホームの事、もっと教えて」

私の掌の上に、そっとリナリーが手を添える。改まって互いに目を見合わせて、何とも形容し辛い気恥ずかしさと二人の不自然な手の取りあい方が可笑しくて笑い合った。

「これじゃあ私、エスコートしてもらうみたいよ」

「ほんとだね。……では、城内に戻ろうか。姫君」
「ええ。そうね。戻ったらお茶を用意させるわ。偶には付き合ってくださるでしょう?」

二人そろって咳払い一つして、大層真面目な顔つきで恭しい動作で子芝居を演じてみると、なおさら面白くて同時にからからと笑い出す。
すると、二人分の声に交じって野太い笑い声が辺りに響いた。思わず声の方向を向くと、聳え立つ城門の中央に巨大な顔の形をした壁が満面の笑みを浮かべていた。

「静かだから寝てるのかと思ってたのに……!」
リナリーが頬を紅潮させて門に呼びかけると、大きな金属の顔は低い声を朗らかに弾ませる。

「リナリーちゃんのはしゃいでる姿なんて初めて見たぜー。友情っていいなぁ」

唐突に言葉を発した大きな壁の顔は、門の通行者を審査する門番なのだという。彼は五代目とのことで年季の入った名前も持っていた。アレスティーナ=ドロエ=ギョナサン=P=ルーボーソン=ギア=アマデウス五号と言うのだそうだ。陽気な性格のようで、終始私達に笑顔を向けて見送ってくれた。

「それでは、王子様とお姫様の為に開門!」
「アレスティーナ、またね」
「もー。絶対言い触らしちゃだめだからね!」
調子の良い門番に笑いながら挨拶を告げ、リナリーは頬を膨らませて彼に釘を刺したのだった。

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