長編小説 | ナノ



 L'endroit pour mettre le cœur


T

揺蕩う泡が水面に向かって浮かび上がる。境界を越え、纏った薄膜を弾けさせ、陽射しの下の暖かな空気と同化した。

今日も無事、夢から現実を取り戻せたらしい。
複数人の話し声が耳に入って来た。聞き慣れない男性の声だ。人の行き来もあるのか、足音も響いている。
声や物音が綯い交ぜになり、周囲は人の気配で活気付き始めていた。きっと朝が来たのだろう。

目蓋の向こう側で、起きろと言わんばかりに光が眼を刺激する。逃げようと身体を捩らせるが、やけに重くて固い痛みを伴う。
どうやら寝ている場所が良くない。寝台にしては固くて狭いので、抱えるように折りたたんだ足も、丸まった背も、殆ど自由に身動きが取れない。
――そういえば、結局私は部屋に帰ったんだっけ?
思い出すより眼前を見た方が早いだろうと、眩しさに耐えながら渋々眼を開けた。

目が眩んで視界が安定しないが、徐々に周囲の輪郭が鮮明に描かれる。
明瞭になった視界で真っ先に飛び込んできたのは白い外套に身を包んだ見知らぬ人々。対面の長椅子に座っている男性達と目が合うと、笑顔で「お、起きたぞ」と一人が声を上げ、その場の人達が口々に朝の清々しさに合った挨拶を浴びせてきた。
状況が理解出来ず眼を白黒させながら「おはよう」と呟き上体を起こすと、側で可愛らしい笑い声が弾む。

「おはよう。気持ちよさそうに寝ていたから、どうしようってみんなと話していたの」
声を発した彼女は、私と同年代に見える。頭の左右、高い位置で纏められた長い黒髪が、艶やかに揺れる。
その髪の流れを目で追った先に、彼女の着ている黒い服の胸元に銀の十字架が憮然と光を包含していた。
寝ぼけ半分の思考のまま見つめていると、彼女は声音と相まった、愛嬌のある可憐な笑顔を私に向けた。
そこで漸く、談話室と思われる場所でそのまま寝入ってしまったのだと思い出した。
微笑みに縫い付けられていた視線を慌てて外す。
次いで周囲を見渡し、大慌てで身体に掛かっている毛布を畳んで居直った。
「皆の邪魔しててごめん!」
長椅子の半分以上を陣取り、剰え人の賑わう時間まで寝こけるなど、寛ぎ語らう場所に於いてなんと非常識なことだろう。
更に追い討ちをかけるように人前で夜着を晒すという始末。きっと叩き起こされても文句を言えない所を大目に見てもらっているのだ。
彼等に迷惑をかけてしまったに違いない。すっかり微睡みの余韻が吹き飛んで狼狽している私に、周囲の人々は衒いもなく哄笑した。

淑やかに笑みを湛えた黒髪の彼女が、私の隣に座って言った。
「気にしないで、アリス。慣れない場所でなかなか眠れなかったんでしょう?」
「そうなんだけど、でも。……あれ、私の名前?」
確かに私の名を口にしたように聞き取れたので、思わず首を傾げた。すると彼女は無邪気な悪戯心が内在したような愛らしい笑みを見せる。
「驚いた?今朝、貴女が夜に到着したって聞いてたから」
続けて彼女は「私、リナリー。よろしくね」と手を差し出しながら僅かに頬を暖かに染めて言った。その手をそっと握る。
なんだか少し気恥ずかしく感じながらも、嬉しさを覚えた目尻を細め、同じ言葉を返した。

すると堰を切ったように、私達の遣り取りを静かに見守っていたらしい周囲の人々が、口々に自身の名を挙げながら私に歓迎の言葉を送ってくれた。そのうちに誰かが「そんなに一気に名乗られても覚えられねえよな!」と声を上げて笑い出すと、一同が更に賑わう。

「ごめんね。皆アリスが来るのを楽しみにしてたの」
「そんなこと言って、一番リナリーちゃんがそわそわしてたくせに」
一度上がった声に、リナリーの顔が忽ち紅潮した。「昨日、何回も室長にまだかまだかって聞いてたんだって?」と続け様に発せられた別の誰かの言葉に、慌てた様子でリナリーは立ち上がった。
「もー、言わないでって言ったのにっ」
ふてくされた様子で訴える彼女を見て、再び笑い声が広い空間に満ちる。まるで、家族の団欒する様子を見ているようで、思わず頬が緩み綻ぶ。此方に向き直ったリナリーは、屈託ない瞳を輝かせて言った。
「ね、アリス。支度を済ませたら、朝食に行かない?」
「私も一緒に、いいの?」
「もちろん」と明るくリナリーが答えた直後、またしても男性の一人が「だって、その為に朝メシ我慢して探し回ってたんだもんな」と小声で言った。
すかさず「むっ」と眉根を寄せて彼女が振り向くと彼等は「さて、新しい仲間の顔も見たことだし、俺達は行くとしますか」とわざとらしく告げながら、ぞろぞろと退席し始める。
通りざまに「頑張れよ」だとか「後援は俺達に任せてくれ」と次々に応援の言葉を掛けてくれるので「皆、ありがとう」と去って行く背に声を飛ばすと、彼等は大きく手を振って応え、階段を上っていった。

「気さくな人達だね。あの人達もエクソシストなの?」
リナリーに向かって問うと、彼女は緩やかに首を横に振った。
「彼等は探索部隊って言って、私達エクソシストの後方支援をしてくれているの」
探索部隊は、主に情報収集を生業としており、イノセンスや適合者を発見する為に世界各地を周り調査をしているのだそうだ。エクソシストに随行し任務地の案内をしたり、アクマとの戦闘による被害等の現地処理も彼等が行うらしい。教団では、任務地に赴き実働するのはエクソシストと探索部隊が主であるそうだ。

思い返せば、町で別れたエマティットも彼等と同じ服を着ていたので、彼は探索部隊だったということか、と納得した。そのまま話を続けそうになったが、内心でリナリーの発言を何度か復唱し思わず口を開いた。
「ちょっと待って、“私達”って……」
「私もエクソシストよ」
衒いもなくその一言が紡がれた瞬間、絵に描いたように分かりやすく全身が驚愕を形どった。言われてみれば、彼女の胸元には薔薇十字が付けられており、ラビ達が着ていた外套と形は大きく違うものの、様相の似通った部分がある。それでも初見でこんなにも淑やかで可憐な少女が、アクマと命懸けで戦う使命を負っていると直ぐには結びつかないだろう。

同性で尚且つ歳も近いであろう彼女と、直ぐにでも時間を取って話したいと欲求が膨らむが、夜着のままと言うのも格好が付かないし、何より彼女は私の為に朝食がお預けになっている。一先ず身支度を済ませるのが優先だと思い、立ち上がった。
「直ぐに支度するから、あとで話を聞かせて……!」
愛らしい笑みを浮かべて彼女は首肯する。
「それから、教団の案内も。良かったら私にさせてもらえる?」
「そんなに時間を割いてもらっていいの?」
「私がそうしたいって申し出たの。許可もちゃんと取ってあるわ」

そう聞いて嬉しさがみずみずしく湧き上がる。その所為か彼女も実に嬉しそうにしているように思えた。
コムイの居る司令室に赴くのも、教団内の案内や挨拶を済ませてからで良いらしい。
「ありがとう、それじゃあお願いするね」
答えながら不意に、横溢する期待のまま強く握りしめている毛布に気が付いた。元々談話室で寝入るつもりは無かったので、何一つ手には持ってはいなかった。誰かがわざわざ私に掛けてくれたに違いないのだが、一体誰の好意なのだろう。
「この毛布…、リナリーが?」
「ううん。私が来た時にはもう掛けられていたわ」

リナリーが一番に私を見つけたそうだが、その時談話室には人が居なかったので夜のうちに誰かが掛けてくれたのかも、と彼女は言った。もしかしたら、夜に出会ったあの白い大きな生き物がここまで来てくれたのかも知れない。
そんなことを思っていると、席に置き忘れた物が無いか確認していたリナリーが一冊の大版の本を見せてきた。
「机の下に置いてあったんだけど、アリスのかしら?」
昨日は身一つで教団内を歩き回っていたので、これも覚えの無い物だ。彼女から受け取る。厚く重い本で、表面は太古の森のに聳える長寿の樹を思わせる、単に緑とは表現出来ない神聖さを胚胎した独特な色だ。
「誰かの忘れ物かな?」
「毛布を掛けてくれた人の物かも知れないわね。…なんだか、見たことのない文字ね」

タイトル
と表紙に書かれた文字。
恐らくこれが書名なのだろう。「聖年」……「ヨベルの書」と訳せば良いのだろうか。項を捲って内容を見たが、所々の単語しか読み取れず、内容の理解には及ばなかったので直ぐに閉じた。随分古い書物のようだが虫食いや手荒く扱われた様子が無く、丁重に保管されていた可能性がある。もしかしたら個人の所有物ではなく、教団の図書室にあったものかも知れないとリナリーが教えてくれた。
食堂に行く前に其方へ立ち寄る事にして、談話室を後にした。

U

居住階層に向かい、リナリーに部屋の前まで案内される。正直、殉情のまま後先考えず自室を出てきてしまったので朧げにしか部屋の場所を覚えていなかったので助かった。幸いな事に私の部屋はリナリーの隣にあったのだ。
水道は各部屋にはついておらず、一つ下の階にあるのだそうだ。わざわざ別の階層に行く手間があるが、施設の形状や設立が百年も過去になるので致し方ないだろう。幸いな事に男女で階層が分かれているそうなので、此処が軍事基地であると考えてみれば、それだけでも十分な配慮が為されている。

部屋へ入る前に「ちょっと待っててね」と止められ、急ぎ足でリナリーは自室から何かを持ち出してきた。
「アリスには少し大きいかも知れないけど、昨日出来上がったばかりでまだ一度も着てないから、安心して使って」
そう言って彼女が手渡してきたのは数着の衣服だった。日常使い用のものと夜着がある。
「もしかして、今私が着ているのって……」
「それも着てないから大丈夫よ」
黒の教団では所員の衣服を製作する部署もあり、寸法が分かれば衣服が要望に応じて支給されるらしい。リナリーは偶々仕立て上がった時期が合って良かったと笑っているが、私は彼女が着る筈だった新品を使わせてもらっていたのだ。

「駄目だよ、リナリーの為に作ってもらった物なのに……!」
事情を知らずに着てしまった分は今更返せないが、今手元にある物はせめて返そうと差し出す。しかし彼女は受け取ってくれない。どうにかして彼女に折れて貰えないかと押し問答していたが、優しく断り続けていたリナリーがとうとう諭すように「アリス。いいから早く支度を済ませなさい」と眉を吊り上げ凛とした声音で言い放った。
怒鳴られても、厳しい言葉を浴びせられたわけではなく、彼女のからは相変わらず柔和な気配が失われてもいないのだが、どこかそれ以上逆らえず、「わ、わかった」と気付けば口に出していた。それを聞いてリナリーの頬は直ぐに緩み「今はこれくらいの事しか出来ないから、私に出来ることだけでも助けになりたいの。…解ってね」と寂しげに告げられた。懇願にも似た面持ちをされてしまっては、尚更それ以上食い下がる事は出来ない。
渡された衣服を抱えて自室に入ったのだった。

急いで着替え、駆け足で水道に行き身支度を一通り済ませたが、私は今彼女の部屋の前で立ち竦んでいる。
……彼女専用に作られた衣服は身長の関係で少し大きい。しかし思いの他、下衣の裾が短い。他に渡された物も同様に丈が膝よりだいぶ上になる。そう言えばリナリーが来ている黒い服も、彼女が着こなしている所以か、馴染んでいたので気にならなかったが、実際に自身が着てみると膝付近に違和感を感じて仕方がなかった。リナリーが着ればなんの違和感もなく、この服は彼女を可愛らしく飾るだろう。

此処で懊悩して、これ以上彼女を待たせたくない。私は壁に背を隙間なく貼り付けた状態で扉を叩いた。
部屋の中からリナリーの返事をする声が聞こえ、時を待たずして彼女が扉を開くが、真正面に私が居ない。
「あれ」と呟く彼女に、小声で呼び掛ける。潜んでいる私を見て、肩を大きく震わせて驚いた彼女は「どうしたの?」と心配そうな視線を送る。
「私、このまま出歩いて大丈夫かな」
問いかけに応える前に、リナリーは私の全身を眺め、小さく声を上げた。
「ごめんなさい。私の服、動き易いように裾を短くしちゃってるの。慣れない?」
小刻みに頷いて見せる。必死な私の反応を見て、彼女は屈託無く微笑んだ。
「でも大丈夫よ、似合ってるわ」
とてもそうは思えないと反論しそうになったが、例え無理をして捻り出した物だったとして、折角彼女が褒めてくれた言葉を否定するのは返って失礼だろう。喉の奥を鳴らすようにして返事をした。

「嫌だったら、他の物を探してみるね。一度着たものになっちゃうけど……」と僅かに眉尻を下げ申し訳なさそうに、けれど柔らかな語気で彼女は言った。嫌だなんてとんでもない事だ。服が悪いのではなく来ている本人の問題なのだから、私の我儘でこれ以上彼女に気を遣わせたくなかった。
「違うよ、嫌じゃなくて、初めて着るからちょっと。どきどきしてるだけ」
「だから、いこう」と、実に覚束ない言い回しで情けない声しか出せなかったが、遂に決心を付けた私は、裾が罷り間違って捲れないよう気を集中させながらリナリーと共に図書室へ向かう。

V

図書室の両開きの扉を開けると、三階層分はある高さの三方の壁が全て埋め込み式の本棚となっており、二段に分けて木製の回廊が作られている。その上り口は四隅に螺旋階段として設置され、部屋の中心の広々とした空間にはそれぞれ独立した机と椅子が数十席程設置されていた。部屋と言うよりは、一棟の建物と捉えても相違ない。荘厳とも形容できる景色は一種の芸術作品のようで圧巻だった。
しかし、この聳える棚のどこにこの本があったのか。探すのに骨が折れそうだ。と思った矢先。

「よぉ、リナリーと。……アリス?」
背後から声を掛けられ、振り返ると眼に掛かる程の長い赤髪から、緑の隻眼を不思議そうに瞬かせる人が立っていた。髪を下ろしている姿は初めて見たので、一間置いてその人がラビだと気づく。彼もまた、私がリナリーの服を着ているので当惑しているのであろう。
リナリーと揃って挨拶で返すが、ラビは呆然とした様子で返事をした。彼の視線は間違いなく私に対して違和感を覚えているだろう位置に向いている。
しかしそれに対して全く彼から是非が告げられないので、いたたまれず「昨日は。遅くまでありがとう」と声を発した。

するとラビは、はたとして視線を外し颯爽とした笑顔を見せる。何故か少しだけその笑顔が作られたように洗練されていて訝しく感じたが、彼に失礼だと思い芽生えた疑心を振り払う。
「調子は悪くなさそうで良かったさ。二人共、早速仲良くなったんだな」
「うん。今日はこれから朝食を摂って、教団を案内するの」
ラビの問いに、弾んだ声でリナリーが答えた。彼女の内では、私を仲良しと認識してくれているらしい。純朴な彼女の気質に淡い期待で頬が仄かに熱を帯びた。
「ラビは、何か探し物?」
「そんなとこ。じじいに読んどけって言われているもんがあるから。で、そっちは?ここになんか用事でもあんの?」

「この本、談話室に忘れてあったから返しに来たんだよ」
彼に向かって本を見せると、表紙を見つめたまま言葉も発さず微動もしない。表題の意味を探っているのだろうか。僅かな沈黙を破ってラビは「オレこの本見たことあるぜ。場所も覚えてるから、代わりに戻しておくさ」とごく自然な所作で、断る間を作らず私の手から本を受け取った。
「でも」と口を開き掛けたが「まだ朝飯食ってないんだろ?気にせんでいいから。行ってこいよ」と快く言う。リナリーと二人で顔を合わせ、彼女が小さく頷いたので彼の好意に甘える事にした。

「そうだ。ブックマンとユウは何処にいるか知ってる?」
昨日、教団に到着して早々倒れてしまったので、私が意識を取り戻す間に別れていたブックマンとユウには全く礼を伝えられていないのだった。
「じじいは科学班が管理してる書庫に篭ってると思うぜ。ユウは修練場か森だな」
「森?」
「この建物の外を囲んでいる広い森があるの。神田はよくそこで鍛錬しているわ」
「じじいにしろ、ユウにしろ、今日は会えないかも知れねェな」

ブックマンが篭っているという書庫は、図書室とは違って限られた者しか立ち入りを許可されていないのだという。科学班の一部の者と、ブックマンとその後継者のみが閲覧を許されているらしい。其処に居るのなら書庫を出るまでは会えない。
また、ユウは殆どの場合、任務明けは機嫌が悪い事と鍛錬中は手合わせを願い入れる以外では全く対応してくれないらしいので、望みは薄いということだった。
ラビとリナリー曰く、二人共気にする性格ではないので、律儀に構えなくても大丈夫との事だったので次に会った時にでも伝えれば何の問題も無いのだそうだ。

見送られながら図書室を去ろうとした矢庭、慌てたようにラビが小走りに追い掛けてきて、リナリーを引き留めた。
「それも忘れ物だろ?多分科学班のだろうから、それもついでに預かっとこうか」
彼が示しているのは、リナリーが持っていてくれている毛布の事だろう。リナリーは申し訳なさそうに少し迷っていたが「ありがとう。それじゃ、お願いするわね」と渡した。

「ねえ、アリス」
階段を登りながら、俄かにリナリーが口を開く。短く返すが、聞きあぐねているのか続く言葉が中々彼女の口からついて来ない。気にせず聞いてもいいよ、と彼女の顔を覗きがちに視線を送ると、控え目な語気で問う。
「ラビとアリスって、元々知り合いだったの?」
「違うよ。五日前、私の住んでいた町で初めて会ったばかりだけど……」
「どうして?」とリナリーの疑問の意図を尋ねる。
「なんだか、ラビの様子が私達に対してとは違う気がして」
短い会話ではあったが、先程のラビの態度はリナリーに対しても、私に対してもこれといって差異は無かったように思える。もしも違いがあるとしたら、私が余りにも頼りないので他より気を遣ってくれているという可能性はある。それを告げると、あまり釈然としない様子で「うーん。気のせいなのかなぁ」と呟いた。

W

朝食時をやや過ぎている為か、構内は半分以上が空席になっていたが、それでもある程度の賑わいを見せている。
温かく香ばしい食べ物の匂いが何処からか流れて来た。はっきりと何の匂いかは解らないが、仄かに香ばしい。香油か、香辛料だろうか。どちらにせよ食欲を唆られ、今更ながら自身がかなり空腹状態にある事を気付かされたのだった。

食事を摂っている人は皆大人で、同年代の教団員は居ない。それどころか、女性の姿すら一人も見当たらなかった。
服装を見たところ、探索部隊と白衣の研究職らしき人が殆どを占めているようだ。

それにしても、食堂と呼ばれるその空間は想像以上に巨大だ。二階建ての民家が二、三件収まっても余りある広さと、一列一列均等の間隔に並べられた机と椅子からして千人以上は間違いなく収容出来るだろう。
この施設の外観を未だ目にしていないが、計り知れない規模の建物に違いない。

奥には鉄製の格子で仕切られた受渡し口らしき場所がある。更にその向こうにも広々とした部屋が有り、忙しなく動き回る料理人らしき人が数名いる。近付くと、対面の為に窓の形に切り取られた格子の間から、随分背が高く逞しい身体付きの男性が姿を見せた。
武術家を思わせる、しなやかに引き締まった筋肉を蓄えた背丈に見合う長い腕、奇抜な色に染められ細かく編み込まれた独特の髪形。細身の黒眼鏡はどんな眼差しで私達を見据えているのか全く解らない。

料理人用の白衣を纏っているので、彼は厨房で働く正規の職員に違いない筈だが、衣服と何処か噛み合っていない風貌に私は圧倒されていた。宿で働いていた時に、外見や気性が奇抜と思える人々と対話した経験が無かったわけではないが、彼のような人は初めてだ。

「ジェリー、この子が新しく入団したアリスよ」
彼と対話する心の準備が付かないままにリナリーが口を開いた。思いの外名前が可愛らしいと頭の片隅で思いながら、内心大急ぎで唖然とした頬に力を適度に入れて笑みを作る。
「初めまして」と告げると、ジェリーは私に視線を合わせるように大きな身体を屈めた。

「教団でリナリー以外の女の子に出会えるなんて思わなかったわ!困ったことがあったら何でもアタシに相談して頂戴」
「あ、ありがとう」
「ジェリーは何でも知ってるのよ。私もたくさん教えてもらったわ」
何でも、と言うのは一体どんな観点での話だろう。
その疑問を読み取ったのかは定かではないが、戸惑う私にジェリーは軽く背を逸らせて張った胸元に手を添えて淑女然とした振る舞いで言った。
「女性の嗜みなら任せて。恋の話でも、美容の悩みでも、何でもアドバイスしちゃうわよ!」

聞き間違いではなければ、彼から女性の嗜みと聞こえたが……。横目でリナリーの様子を探るが、特に彼女は気にしている風ではない。素直に返事をすれば良いのか返答に迷った。ジェリーは煮え切らない態度の私に不敵な笑みを向け、人差し指を私の眉間にそっと近付ける。
距離を縮める彼の指先は爪が丁寧に整えられ、荒れている様子も無く、手入れを具に行なっているのだと見て取れた。清潔感のあるその指先が私の眉間にそっと付く。
「困ってるわね、アリス。いい?世の中には見た目では判断できないことが沢山あるってことよ」
つまり、彼の身体は男性であるけれど、本質は女性ということなのか。
確かに体躯は逞しいが、身振りや口調からは女性らしい淑やかさを感じる、気がする。
何より、リナリーがこれ程信頼を置いているのだから、他意などなく、純粋に女性らしさを追求することに熱心なのだろう。
「今度ゆっくり話しましょ。……それで、二人ともお腹空いてるわよね。何食べたい?」

ジェリーは入団する以前は古今東西、国を隔て彼方此方を放浪していたらしく、多くの料理に精通しているのだそうだ。
普段なら朝食は軽食、或いは飲み物だけで済ませる事が殆どだが、数日食事が喉を通らずまともに食べていないからか、それとも時間も朝食にしては遅く、加えて食堂の香ばしい香りに食欲が触発されたのか、兎に角食べ応えのある物を口にしたい気分だった。
彼女は円やかに私の要望を待ってくれているが、自国の郷土料理しか思い浮かばない。異国の左程知名度の高くない料理名を伝えて、ジェリーを困らせてしまわないだろうか。返答に窮しているとリナリーが口を開いた。

「ねぇアリス。確か出身はフランスなのよね?」
その問いに頷いて答える。次いでジェリーが「あら、それなら自信あるわ!どの辺りに住んでたの?」と訊ねて来たので、南西部の田舎で、ピレネー山脈の間近だと告げる。それを聞いたジェリーは乙女らしい所作で、顎に手を当てて僅かに思案する。
「軽く食べたい気分?それとも、こってりな気分かしら?」と楽しげに次の問い投げ掛ける。その雰囲気に引き寄せられるように、先程までの躊躇が失せて自然と口から言葉が発されていた。
「こってり、がいいな」と気恥ずかしく抑えた声で伝えると「それなら煮込み料理なんてどうかしら?白花豆と、鵞鳥の」そう告げたジェリーの黒眼鏡の縁が、私の求める料理を突き止めたと言わんばかりに一度煌めく。
その一言で、脳内に食べ慣れた料理の姿を描かれ、記憶に残る味も引き出す。彼女の知識の豊富さに瞠目しながら「食べたい!」と思わず膨らむ期待のままに声を上げると、リナリーとジェリーの閑やかな笑い声が後から続くのだった。

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