長編小説 | ナノ



 Type de Agneau de dieu


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イノセンスが身体に宿った為なのだろうか。自由の効かなかった感覚が思い出せない程に全身が軽い。
しかし、特段アクマと対等に戦える能力を得たという実感は無い。いつの間にか唄は止んでいて、耳を澄ましても音は聞こえなくなっていた。
矢庭に、掌を象ったヘブラスカの身体から、更に数本の腕が伸び私の身体に絡み付いた。締める様子は無く、生き物が緩やかに這い上がっているようだった。
表面上の感触よりも、皮下を撫でられているような感覚の方が、痛みは無いものの妙に身体…特に喉頭の辺りが疼いた。

「同調は……出来たようだな」
解放され、直後抑揚無くヘブラスカが言う。彼女の声音からは良し悪しの判断が付かない。「どんな力が使えるの?」と不安を覚えて怖々問う。しかし反応が無い。疑問を浮かべながら、彼女を仰ぎ見た。
「発動をしない限り、私にもその能力は解らない」
「今はその発動って、してないの?」
聞き違えていなければ、町でコムイと通話をしていた時点で、既にイノセンスは発動状態にあった筈だ。けれどヘブラスカが答えるには、今は発動が解かれているらしい。
「"発動"とは、非戦闘状態となっている武器を使用可能な状態に変化させる事を言う」
「武器……?さっき、ヘブラスカに渡されたイノセンスは、結晶のままだったね」
彼女は頷き、僅かに困惑を胚胎した口調で告げる。
「結晶のまま、尚且つ適合者が側にいないにも関わらず発動するというのは、本来ならば有り得ない現象だ。だが、そのイノセンスは間違いなく適合者の、お前の意思に反応していた」

突然の失声や「声を返して」と念じたのが発動の端緒だったのかも知れない。しかし何故、国すら隔てる遠方からイノセンスは私に応えられたのか。
疑問は留まることを知らず次々と湧き上がるが、今回のような事態は前例が無く、ヘブラスカが得た感覚を私が理解できるよう言語化するのは難しい様子だった。

ただ、同調はしているが発動はしていないこの状態が、イノセンスと適合者にとっての標準なのだろう。深まる謎を解き明かそうにも、私自身の知識が今は足りない。ヘブラスカへのこれ以上の言及は控えた。

私の身体を支えるヘブラスカの掌が忽ち形状を変え、加えて緩やかに動き出した。
私は変わらず座ったままだが、彼女の動作に合わせて向きが変わり、見下ろすと柵の付いた四角く大きな鉄製の床に立つラビとコムイが見えた。思わず身を乗り出そうとして、ヘブラスカに「危ないから動いてはダメだ」と窘められた。
巨大な掌の奥へ引っ込み、時を待たずして鉄床の上、二人の間近へと丁重に降ろされた。
足元がふらつかないかと不安に思ったが、真っ直ぐに立てている実感が明瞭なので、問題なさそうだ。

「アリス。身体、なんか変なとこない?」
ラビは開口一番に眉尻を下げ、気遣いの声を掛けてくれる。その憂慮を拭いたくて、私は頬を緩めて頷いた。
「身体も動くようになったし、イノセンスと同調……も出来たみたい」
首に巻いた包帯を取り、襟口の釦を外して見せる。
ふと、首元に眼を遣った彼の表情に、去っていた影が戻ってしまったように見えた。
「寄生型……」
ラビが低く呟く。初めて聞く単語に、小首を傾げ同じ言葉を復唱して意味を問う。

「イノセンスの特性は、現状“装備型”と“寄生型”の二種類に分類されるんだ」
答えたのはコムイだった。彼は続けて「ヘブラスカ、彼女は寄生型の適合者で間違い無さそうだね?」と見上げながら声を飛ばした。
ヘブラスカは首を僅かに縦に傾け、肯定の意を示す。
それを確認すると、彼は再び此方に向き直る。
「イノセンスの殆どは、適合者が見つかり次第、武器として使用できるよう加工されるんだ。それが“装備型”。君が出会った三人のエクソシストの武器はこれに当て嵌まる」

説明を頭に落とし込みながら「装備」に対して「寄生」と形容された名称の意味と、この身に起こったイノセンスとの反応から推察される答えを、コムイに投げ掛けた。
「もしかして…寄生型は、適合者の身体と結合して、人体を武器化するの?」
「そう。例えば腕に擬態したイノセンスは、発動すれば腕そのものが対アクマ武器として適合者の腕ごと変化する」
「私のイノセンスは、声……?声帯が武器になる、のかなぁ」
言いながらも自身の首元が変形して武器になる姿が想像できず、まさか首が裂けて武器が飛び出てきやしないかなどと、稚拙な想像力で空想する。余りにも不毛なので途中で連想は打ち切った。
「その可能性が高いね。詳しくはまた明日、調べてみよう」
コムイの言葉に頷いて返す。黒の教団についても、イノセンスについても、初めて得る情報に容易くは理解が付いて行かないが、適合者として有るべき原点に、助けられながらも辿り着けた。それだけでも、私はかつての居場所から一歩を踏み出せたのだと思う。

振り返ってイノセンスとの同調を手助けしてくれた、神秘的とも言える巨躯を仰ぎ見る。彼女に届くようにと、少し張った声を飛ばした。
「ヘブラスカ、ありがとう」
「私は何も、していない。イノセンスとお前が通じ合った結果だ」
大袈裟に讃えられた訳では無いが、何故か自身が褒めてもらえたような気になり、面映しさに笑みが溢れた。
しかし直ぐに心緒を引き締め、口を結ぶ。まだ私は開始地点に立っているに過ぎない。
これからは千年伯爵の企てを阻み、世界の救済の為アクマと戦うのだ。その為には一刻も早くイノセンスを発動させて自身の能力を知らなければならない。
「アリス。お前と武器との同調はまだ完全とは言えない。無理な発動はしない方がいい」
思惑を感じ取ったのか、ヘブラスカは私の逸る心を制止する。不完全な同調でのイノセンスの発動は適合者にとって危険を伴うのだという。
とは言っても実の所、禁止されたところで「発動」とはどのように行えば良いのか、私にはその方法が全く解らないので「その心配は無いよ」と内心で答えながらも素直に首肯した。

不意に、私が寄生型だと知ってからラビが一言も発していないと気付き、視線だけ向けて窺い見る。
その円やかな表情からは内心は読み取れない。微塵も感情を読ませないよう平然を貼り付けているようにさえ見えて、なんだか私が寄生型の適合者である事は喜ばれていないのかも、と邪推する。沈思している間に、彼の隻眼に私の眼が映ってしまった。
「どうかした?」
訝しんでいる様子もなく、彼は口角を上げて優しげな声音で言った。私が問いたかった言葉がそっくり彼に取られた気がする。質問に質問で返す訳にもいかないので、言い淀む。得心がいかないが仕方がないので「なんでもない」と首を大きく振って無理矢理に誤魔化した。明らかに本心ではないと勘付かれていそうだったが、特に問い詰められることはなかった。

「一先ずは、無事イノセンスと同調出来たという事で。今後については追って話し合おうか」
場の空気を一新するようにコムイが改まった声で告げる。短く返事をすると、彼は此方に向かって手を差し出した。
「順番が前後しちゃったけど、改めて。ようこそ、黒の教団へ」
優しげで朗らかな笑みを浮かべる彼の手を握り、口角を上げて返事を返した。
彼は決して重厚でも厳然でもなく、強いて言えば親しみ易い雰囲気を纏っているのだが、不思議と意欲的に心が傾く。きっと彼が生まれながらに持つ人徳なのかも知れない。

「そうそう。彼女、ヘブラスカもイノセンスの適合者なんだよ」
「え!?」
思いがけない情報に頓狂な声を上げた。イノセンスやアクマを知って、一般的な理解を超えた存在を認めてはいたので、彼女と見えた際も驚きはしたものの、まさか同じ人間だったとは予想していなかった。
「私は教団設立のきっかけとなった石箱の適合者だ。戦闘は出来ないが、此処でイノセンスの番人をしている」
ヘブラスカは特異な能力を持っており、ある程度の範囲内であれば他者のイノセンスに触れ分析する事が出来るらしい。私のイノセンスも、これから彼女を通じて知っていくのだろう。

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ヘブラスカにも改めて挨拶を交わし、明日も此処へ赴く約束を取り付け区切りがつくと、足元が微かな振動を帯びる。ヘブラスカの位置が沈むように次第に低くなっていく。彼女の姿が見えなくなり、鉄製の柵から身を乗り出して覗き込んだ。

どうやら一瞬錯覚を起こしていた。ヘブラスカは動いてはおらず、私達が上昇していたのだ。しかし、上へ向かっているにも関わらず殆ど音がしない。上を見上げても吊り上げている線等は見当たらない。
蒸気とは別の動力なのだろうが、果たしてどんな原理なのだろう。手摺をしっかり握りながら、床下の構造を覗き込もうとしたが、乗り出し前方に折り畳もうとした身体は、俄かに肩を掴まれて反対方向に引き寄せられる。勢い良く仰け反ったが途中で背中が何かに触れて、背後から強い力に包み込まれ身動きが取れなくなった。

「危ねぇよ、何してんさ!?」
ラビの声は間近のやや高い位置から聞こえて、身を捩って其方を向くと、随分動転した様子の彼の面持ちがあった。
真下へ飛び込もうとしているのだと思われたらしい。私は彼に抱き竦められているようだ。
これは多分偽りの無い表情だ。と彼が初めて見せる眼差しに圧倒され、目を奪われながらも口を開く。
「この床、どうやって動いてるのかなと思って」
「なんだ、そういう事か……」
溜息混じりに彼が言い、同時に腕の力も緩まる。折柄、大袈裟にも思える所作で腕を私から離し、数歩後ずさり「ごめん」と顔を逸らした。

その遣り取りを見てなのかは定かではないが、コムイが小さく笑いを孕んで言った。
「アリスはどうやって下の階層まで移動したのか、知らなかったんだったね」
どんな原理で動いているのか問うが、大雑把には電気が主な動力なのだという。それを聞いて瞠目した。
専門的な知識は持ち合わせていないが、現在の科学研究者の間では電気学が発足され、新たな資源として着目され大学等では研究者によって実験が進められている現状である事は知っている。
しかしその大半は実験の域を出てはおらず、実用的な製品や機械は未だ開発には至っていないと聞く。
黒の教団は、驚くことに超自然な存在の保持のみならず、現代科学の水準も卓抜した技術も備えた組織なのだ。

コムイ曰く、自身がやって来た時には既に設備が整っていたので、どのように設計され製造に至ったのか解らないらしい。
信憑性は薄いが、中央庁が石箱を発掘した際に発見された遺物そのものだという噂もあるという。
この施設の常設はそういった一般の理解を超越した代物が多く、詳細は中央庁により管理されている為機密であるものの、手を出せる範囲(或いは監視の目を掻い潜って)で研究する内に、真似事に過ぎないが似たような物は作れるようになったと彼は笑いながら言った。

一から作り出してはいないにしても、遥かに先進した未知の技術を吸収できる力量は、彼を筆頭に並みの技術職員の集団では無いのだろうと察しが付く。
現在も職務の合間で製作に当たっている機械があるらしく、完成したらお披露目してくれるらしい。

彼の話を傾聴している内に、目的の階層に到着したのか鉄の床は上昇を停止した。一周見回すと、均等の間隔で扉が十以上、壁を囲うように取り付けられている。扉の一つ一つが孤立した部屋の群。訊くと教団員が寝泊まりする個室が集まる階層なのだそうだ。どうやら私の部屋も既にこの何処かに用意されているのだという。

「唯一全員起きていそうな科学班に紹介したいところだったけど、君も疲れているだろうから今日は休んで、明日みんなに挨拶をしようか。教団の案内もその時にするからね」
浮遊する床は平行移動も可能のようで、コムイが操縦基盤らしき台に向かい操作すると、石造りの床に鉄製の床が隙間なく隣接した。双方の柵は可動式らしく手早くラビが開ける。

「あの正面の部屋の二つ右が君の部屋だよ。ラビ。念の為、部屋の前まで送ってあげて」
鍵を手渡しながらコムイが私の部屋を指差す。「へーい」と軽い調子で返事をしたラビは、石の床に足を踏み出す所から、示された部屋の前で立ち止まる所まで、丁寧に付き添ってくれた。
一言だけ挨拶を交わし、踵を返す彼を引き留める。
「町で会ってから、ずっと頼ってばかりでごめんね。ラビ達の役に立てるように頑張るから、宜しくね」
「あんまり焦らんでいいさ。よろしくな」
彼の表情からは微笑みが浮かんでいる、としか読み取れない。あの町ではもっと彼の機微が見える程近い所にいた気がするのに、今は随分間遠に感じる。
無性に離れ難く思えて、苦し紛れにラビも部屋に戻って休むのかと訊くと、その前に今回の任務について報告書を作成するのだと言った。

何か脳内に引っ掛かるものが芽生えた。今回私の住む街に彼等が訪れた目的は、イノセンスの回収だ。となると、彼が報告するのはイノセンスの有無が主たる内容だろう。掌の上で光を纏う結晶を想起すると、折り重なる情景が脳裏に閃いた。水底で美しい虹色に発色する結晶。
――そうだ、あの泉で見つけた石。あれは……。
なるべく表情には出さないよう配慮しているつもりだが顔が強張る。何の脈絡もない私の思念を視線で送るのは、いかに彼は察しが良いとしても困難だろう。だからと言って今ここで要件も告げず、二人で話しをしたいと申し出るのは不自然だ。何てことをしてしまったのだと、悔いが胸の奥から滲む。
通信の際、確かイノセンスは未発見だと報告していた筈だ。出入り口は崩落してしまったし、今更言っても遅いかも知れないが、任務の邪魔をしてしまったあの前言を取り消し、結晶を回収する方法が無いかラビと相談する必要がある。
十分可能性を持っていた結晶を意図して回収しなかったと解れば、処罰が下る可能性も皆無ではない。焦らず慎重に、彼と話せる時機を待とう。適度に会話を切り上げ、階層を下っていく二人を見送った。

部屋に入り、明かりを点けて見渡す。広さは宿の部屋の半分程だろうか。個室としては広くないが、自身が一介の兵士であると考えれば、そもそも部屋を与えられる事自体好待遇だと言えるだろう。
それだけではなく、床には絨毯が敷かれているし、置き型の照明器具と、寝台、ひいては鏡台や衣装用の収納まで置かれている。
中を開くとわざわざ用意してくれたのか、明らかに下ろし立ての夜着が掛かっていた。袖を通してみると少し大きかったが、それ以外の障りはない。
何気なく寝台に腰掛けて上半身を倒し天井を仰ぐ。想像していた以上に寝具が柔らかく心地良い。こんな体勢のまま目を閉じてはいけないと解っているが、身体は私の意思に反して休息に入ろうとしている。
次第に思考が鈍くなり、眠いという欲求が肥大する。重くなる目蓋に抗えず視界を閉じれば、眠りの中に意識を持っていかれるのにそう時間は掛からなかった。

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深い木立の間を縫いながら草深い森の中を歩く。小さい手に握る花束を散らさないよう、ゆっくりと。
これは、母が亡くなって、一年後のとある日の記憶だ。時折、不意に思い出す度、自分の行動に後悔を重ねた出来事。
木々の狭間から覗く空を見上げると、随分日が落ちているのが解る。
――今日はアジュールの誕生日だから。喜んでほしい。
白い糸を編んだような繊細な花房は、彼に感謝を伝える為に用意できる物はなんだろうと、懸命に考えて見つけた贈り物。

幸いなことに道を違えず森を抜け家へ戻る途中、携える花がこの地域に群生しているものだと教えてくれたパトリックが、辺りを落ち着き無く辺りを見回していた。
「教えてくれた花、見つけたよ」と声を掛けると、真っ青になっていた顔を驚きと安堵に染めて駆けてきた。「よかった」と頻りに泣きそうになりながら顔を綻ばせている。
愚かながら、花を見つけたのが褒められたと勘違いし、私は彼に満面の笑みを返したのだった。その日は夕刻にも関わらず外に出ている人の数が多く、私を見掛けると怪我はないかだとか、見つかって良かったと口々に穏やかな声と安心の笑みを向けた。

その当時、私は直ぐには解らなかった。
私の姿が見えないと、多くの人々が心配してくれていたことに。この町に訪れる以前の生活では、母と友人ともいえる少女以外の人間に、気に掛けてもらった事など無かったからだ。

宿に戻ると、夫婦は私を包み込み喜んでくれた。皆の様子の違いに、どうやら私は周囲の人々に随分心配を掛けてしまったと漸く理解した。時刻を窺い見ると、帰宅するようにと言い付けられている定刻よりも一時間程過ぎていた。数分の遅れで何十分も謗られる事には慣れていたが、涙を堪える眼差しを向けられる事は身体の奥にむず痒さを覚える。
どこに行っていたのか聞かれ「森に、この花を探しに」と答え、二人に見せる。すると離れたところで私達を眺めているアジュールの姿を眼で捉えた。
駆け寄り名前を呼ぼうとすると、それよりも早く彼に「どうして一人で森の奥に入ったんだ」と怒鳴られた。初めて彼に叱られたことが何よりも衝撃で、幼さ故に理由を考えるより先に、ただ悲しさだけが心緒を占領した。誕生日の贈り物として、どうしても自分の手で探し出したかったという理由を告げる余裕など無く、私は部屋に駆け込んで一人泣いた。

朝起きて部屋を出ると、気まずそうにアジュールが一言謝ってきた。私は小さく頷き、ぎこちない笑みで受け入れたが、花は彼の手には渡らず朽ちた。
あの年にたった一度だけの彼の誕生日は、苦い思い出を刻み、終わってしまった。その後はこの出来事が話題に上がることなく、いつの間にか互いに普段通り接し合うようになり、時は流れていった。次第に追想の夢が遠ざかり、黒く淀み始める。

――私はあの日、贈りたかった言葉を伝えられなかった。あの時と同じ後悔が残ってるから。だからこんな夢を見てしまうんだ。
アジュールだけではない。町の人々、大切だった人達の誰にも、一言も。
失ってからではもう遅いと解っているが、叶うなら、どうか、もう一度だけ会いたい。

そう願った瞬間、激しい水しぶきをあげて視界が強引に切り替わった。見上げる灰色の水面。
色彩を失い、暗い水底に沈むこの夢を見るのは二度目になる。寂として音の無い水中に溶け込むように、胸中に苦しみが滲む。初めて見た時と同じく暗闇に包まれ、最期の瞬間の一歩手前で途切れ、終わった。

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目が覚める。寝転んだまま見慣れない室内を見回し、徐々に覚醒する意識に比例して、寂しさが横溢する。
何処を探しても、会いたい人達は一人として見つからない。暗く落ち込む心は、灰色の水に飲み込まれて行く夢と似ている。そう意識し出すと寝台に横たわっているのが段々と居心地が悪くなり、目的も無く部屋を出た。

何処に何があるのか全く解らず、廊下を当てずっぽうに歩いて見つけた階段を単調に下って行く。
何階まで下りたのか解らないが、一向に誰ともすれ違わなければ、視界のどこかに人影さえ映らない。
どの階層に至っても閉ざされている部屋の群れに、無性に孤独感を感じて視界が霞む。乱雑に目元を拭って再び歩き出した。

かなりの段数を下りた時、静謐を貫く石畳の下から漏れる、煌々とした照りが見えた。しかし人の話し声等の音は聞こえない。
明かりに近づくと、更に下へ続く螺旋階段があった。静々覗き込むと、階下は書籍や何らかの器具が置かれた机が何台も設置されており、研究室らしかった。けれど続いて床には隙間なく書類の束が辺りに散乱し、床や長椅子、机に伏してぐったりしている白衣の人々の姿が目に飛び込んで来る。異様な景色に圧倒されたが、助けが必要だとしたらこうしてはいられないので、慎重に階段を下る。
階段間近で倒れている人の顔を覗き込むと、随分穏やかな表情をしていた。耳を澄ませば其処彼処から深い呼吸やいびきが空間を飛び交っている。彼等は疲れ果てて寝入っているのだ。何か事件があったわけではないと解り、胸を撫で下ろした。

そういえば。深夜に眠れない時に自室を出て階下へ行くと、義父や義母、或いは宿泊客がこんな風に寝台ではない場所で寝入っていたのを度々見かけた。
その誰もが眼前の白衣の彼等のように、束の間の休息を堪能している表情を浮かべて眼を閉じているので、起こすのは返って可哀想に思えて、せめてもと毛布を掛けたりしていたものだ。
懐かしさを覚え、笑いを抑えながら辺りに掛けるものは無いかと探す。
すると、人の背丈程に積み上げられた毛布が階段の上から現れた。驚き上がりかけた声を咽喉から押し返し、毛布の塔の動向を見据えた。

毛布の動きを正視していると、視界も落ち着いてきた。どうやら毛布が一人でに動いているのではなく、抱えている人がいるようだが、人間にしてはどうも大きく形も妙だ。
近付くにつれ全貌がはっきりと確認できた。背が高く恰幅の良い人が頭から足先まで白い布を被っているような姿。
足は無く、代わりに何処から伸びているのか、太い管が身体に繋がっており、見方によっては管から送られる空気で白い布が膨らんで形作っているようにも見える。明らかに人ではない事は確かだが、緩慢な姿に危険な気配は感じない。

「あの、貴方は……」
言い掛けて口を噤んだ。声を出したのは良いものの、果たして言葉が伝わるのかが解らないまま口を開いてしまったからだ。
なんと言えば良いのか逡巡する私に気付いた白い生き物は、階段を下り切って近くの机へ器用に毛布を置くと、恐らく眼であろう二つの球体を私に向け、やけに短い腕を、これも恐らく口元であろう「×」の形に貼られた身体と同色の布の前に出し、小さな人差し指を立てて「静かに」の動作を示した。
頷いて直立したまま不動としていると、その生き物は積まれた毛布の内から器用に一枚抜き取り、長椅子で横臥する男性の身体にそっと被せた。
私は直ぐにそれを手伝い、彼方此方で眠りに就いている人々に毛布を掛けて回った。この階層の更に下にもまだ人が居るらしく、白い生き物と毛布を半分ずつ持って階下へ行き、眠りに身を落としている人々を包んだ。
四階層を分手分けして行い、全員分分け終わったのを互いに合図し、静かに二人で手を合わせた。
白い彼……または彼女の手は想像より硬くて冷たい感触だった。
結局、仲間思いの白い生き物は何者だったのかよく解らないまま別れ、その後も教団内を徘徊してみたが、誰とも出会う事はなく、諦めて部屋へ戻る事にした。

薄暗い階段を一人きりで上がる内、徐々に膨らんでいた元気は、再び消沈しつつあった。
黎明が過ぎ、人の気配が広がって周囲が活気付けば、この憂鬱を紛らわすことが出来る筈だ。それまで数時間我慢すればいい。
自身に言い聞かせて登りながら、思い掛けず開けた階層に眼が止まる。
下る際には気付かなかったが、この部屋は談話室だろうか。広々とした空間に、数十席分もの低い机と長椅子が備えられている。照明は付いておらず人気もない。普通なら素通りするところだが、惹きつけられるように部屋の奥の大きな窓の下の長椅子に腰掛け、薄暗い周囲を見渡した。
明るくなれば、この場所で人々が団欒するのだろう。その余韻が夜の静寂の中に残っている気がして、目を閉じる。賑わう想像の中、家族や友人達の声を混ぜ、平穏で幸せだった日々の残滓を抱くように身体を縮こませて寝転んだ。

拭っても拭っても、涙が溢れ出す。
悲しくなどない。こんなに陽気な声に囲まれて、寂しいわけがない。流れる雫を無視して瞳を閉じたまま、幸福な虚構を抱きひたすら耐え続けた。

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遥か頭上を覆うように高く伸びた梢が月の光を阻む森を走る。その手にはまた白い花が握られていた。
洞窟のような森を抜けた先には、見慣れた町並みと、当時の幼い姿のアジュールが私を待つように立っていた。その遠く後ろでは、両親、パトリックにシモン、町の人達が手を振っている。随分記憶とは異なる情景だ。
対面した彼の表情は、言葉を発せずとも怒気が伺える。私は彼の前で立ち止まり、花を手渡すのを躊躇った。
これは先程見たものと同じ、唯の夢だ。伝えたかった言葉は二度と失った人には届かないのに、こんな夢に何の意味があるのだろうか。

「離れていても思いを持ち続けることが、きっと大切なんだ」
覚えのない声に振り向くと、少し離れた所に見知らぬ少年が立っていた。しかし、彼の周りだけ靄が掛かり、更に顔は判然としない。何故か彼だけが色を宿しておらず朧げだった。
眼を凝らすがどうしても見えない。けれど彼の言葉は透き通る程鮮明に私の頭の中に届いて、反響する。
「届かなくても例え忘れられても、思い続けるよ。…君は?」
「私、は」
言い掛けた時、少年の姿を霧散させながら、春の香りを乗せた微風が頬を擦り抜けていった。すると自身でも驚く程、確固とした意思が滔々と湧き出る。こんなに強い感情を私が持っていたとは、知らなかった。

――夢でも構わない。たとえ永遠に伝わらなくても、私はこの気持ちを決して離さない。
アジュールに向き合い口を開く。声が震えて掠れる。紡ぎ損なった言葉を振り払うように、もう一度誓いを込めてはっきりと、碧の瞳を見据えて言葉にする。瑞々しく開く花を握る手を、彼に向かって伸ばす。
彼の手が小さな花弁に触れ、俄かに背後から押し出さんばかりの風が吹き付け、花達は一斉に宙へ飛び出していく。
眼を瞬かせた刹那、私と彼の小さかった身体は急速に時を進め、一瞬の内に姿を変えていた。

アジュールは穏やかな面持ちを綻ばせる。その笑みには憂いや苦痛は一欠片も内在していない。
気付けば辺りには、遠巻きに居たはずの人々が集っている。両親は間に私を挟んで、眦を細めている。
「もう自分を責めなくて良いんだ。……よく頑張ったな」
「あたし達を大事に思ってくれてるって、言わなくたってちゃんと伝わってるよ」
これは私が欲しかった言葉。二人が本当に思っているとは限らないのに、自身が許されたようで胸の内に透き通るものが駆け巡る。

「アリス。お前は一人じゃない」
願望が見せる都合の良い夢だとしても、瞳から零れ落ちる涙が、冷えた感情を流し落とす安らぎを覚えた。
頻りに頬を濡らす私の頭に、微笑みを湛えたアジュールは手を添えた。頭を撫でられる感触は、夢とは思えない程、生身の人の掌のように暖かく心地良い。
髪を緩く梳きながら触れる手は穏やかでやけに繊細で、恐る恐る撫でているようにも感じる。いつもの彼の手つきとは異なるが、違和感や不快感は少しも無い。
目蓋を閉じて心地良い掌に心を委ね、私は暖かく深い眠りに落ちて行く。

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