長編小説 | ナノ



 Type de Agneau de dieu


]

ラビの言葉が示してくれた小さな希望によって、澱みが底へ積もって水底が鮮明になるように、冴えた頭は自身の置かれた状況と今持っている情報を整理し始める。

私はアクマにとって、命令によって殺めるべき対象の人間ではなく「イノセンスの適合者」なのだ。
適合者がアクマにとって脅威となる何かを秘めているからこそ、彼等は敵であると認識するのだろう。
凡そ平凡な人間では太刀打ち出来ない能力を持つ彼等を脅かす存在は、私が見た限りただ一つ「エクソシスト」だ。悪魔とアクマ然り、ブックマン達は一般的に認知される「祓魔師」とは別の意味を持つ「エクソシスト」に違いない。
それが正しければ、イノセンスの適合者は、アクマと戦闘するに値するエクソシストに成れる可能性を持っている。
もしも私がエクソシストとしてアクマを破壊できる術が手に入るのなら、アジュールのように苦悩する心を生み出さずに、囚われた魂の解放を、無意味に命を奪われる人を救えるかもしれない。

――悔やむより、私が誰かの為に何が出来るのか、知りたい。
湧き上がる強い意思が身体を軽くする。立ち上がって足元に気を巡らせたが、もう不安の揺らぎは感じていなかった。
「待たせてごめんね。戻ろう」
「もういいのか?」
遠慮がちに此方に顔を向けたラビに対して深く頷いて見せた。
「話の続きを教えて貰いたくなったから」
肩に掛かったままの彼の外套を脱ぎ床についていた箇所が汚れていないか見遣る。
汚れが無いのを確認して、簡易に畳み手渡した。
「ラビ、貸してくれてありがとう。寒かったでしょ?」
「全然。アリスが起きる少し前に来たばかりだからさ」
彼は受け取りながらそう言うと、続けて「身体が温まるまでは着ていて良い」と再び私に羽織らせた。

何時から傍に居てくれたのかは分からないが、少し前にと言うのはきっと嘘ではないだろうか。
項垂れて、自身の左胸元で煌めく銀を見つめた。彼は私に気を遣いすぎる。私が頼りないから、優しい性分の彼は放って置けないのだろう。
もっとしっかりしなければならないのに「しっかりする」とはどうしたら良いものなのか。どんな顔をすれば真に彼を安堵させられるのか。思案しても的確な解法は見えない。

すると突然、額の中心に冷たい何かが触れ、やや強引に頭を押し上げられた。顔を上げた先でラビとの視線が交錯する。どうやら額に触れているのは彼の指らしかった。
その冷たさから、彼の嘘に対して声を上げそうになるが、慌てて抗議を押し戻す。
そんなことより暗い顔を見せたらまた彼の心労の元になってしまう。急拵えの笑顔を作ろうとするが、表情は着いて来なかった。
一体何を表現したいのか分からない形相を作り出しているに違いない。側から見れば端正な彼との対比にすら見えるだろう。そんな間抜けな表情を直視されている恥ずかしさに、頭が急激に上気した。

何を言われるでもなく指先が離れ、また何事も無かったように彼は車両の扉を開ける。丁重に乗り入れを譲る仕草は、何故か随分と機嫌が良さそうで、膨らみかけていた悪戯への不服は、表皮に穴が空いたように萎んでいった。

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客室に戻り、寡黙な二人に声を掛けると、長く席を立っていたにも関わらずそれには特に言及せず私を一瞥した。
相変わらずユウは無言のままで、目は合うものの思考を察するには至らない。不調は治ったとの意を込めて表情を緩ませてみても、これといった反応は無く「そうか」と受け流すように緩慢に窓の外へと視線が逸れて行ってしまった。

「気は落ち着いたようだな」とブックマンが発する。やはり体調が悪くなったという誤魔化しは見抜かれていたのだと気恥ずかしく思ったが、素直に頷けば自然と自身の顔に笑みが浮かび上る。
上等な座席に着き、これから再開されるブックマンの語りを、自身の内へ丁寧に飲み込むように落とし込もうと、姿勢を僅かに伸ばした。

――アクマを造り出す製造者は、哀れな機械を用いて世界の終焉を目論んでいる。製造者の名は「千年伯爵」
名の通り千年以上の時を経ても未だにこの世界に存在する人ならざる者だ。
彼とアクマに対抗するエクソシスト達を始め、蝙蝠越しに会話したコムイや、エマティットも所属する組織の名は「黒の教団」
教皇を中心とした中央庁が、とある予言を受け、世界の救済の為、約百年前に創設したのだという。
端緒となった予言は、約百年前にヴァチカンにより発見された石箱に刻まれていた文献の一部である。
その石箱を作った者は、遥かな過去、千年伯爵と戦い打ち勝った者であるそうだ。しかし戦いに勝利したものの世界は一度崩壊を迎えた。旧約聖書に記された「ノアの大洪水」がそれなのだという。

そして長い時を経て千年伯爵は世界に再来し、二度目の終末を世界にもたらすと予言された。
文末には終末を阻むべく、唯一千年伯爵に対抗しうる「神の結晶」現在では「イノセンス」と呼称される物質の使用方法が記されていた。武器としてイノセンスを加工する術だ。
解析する内に石箱自体もイノセンスである事が解り、神の結晶の復活を機としたかのように伯爵は世界に再来した。イノセンスの対とも言える暗黒物質を生み出し、それを原材料にアクマを生み出し戦力を拡大し始めた。
アクマの侵攻を阻み、千年伯爵を打ち滅ぼす為の軍事組織として、黒の教団は存在している。

イノセンスは一つにつき一人の使徒「適合者」を選び、イノセンスと同調する事で本来持つ身体能力を超えた能力を発現する。能力はイノセンスや適合者により様々な形状に加工されるのだそうだ。
この場にいる三人の武器はどんな物なのか訊くと、ブックマンは針、ラビは槌、ユウは片刃の剣と三者三様であった。

イノセンスは総計百九個。
現在、教団での保持数は三十六。教団にエクソシストとして在籍する者は十八名。私が正式に入団すれば十九人になる。
結晶は大洪水により世界中に飛散してしまい、教団の戦力は伯爵に対抗するには十分と言えないのが現状だそうだ。
確かに兵士としてはかなり少ない人数だ。悲劇による死別の数だけアクマは存在するといっても過言ではないのなら、その数は世界規模と言える。例え一人の戦闘能力がアクマ一体を凌駕するとしても、現在の人数では恐らく数で圧倒されてしまう。
つまりエクソシストはアクマの破壊ではなく、イノセンス及び適合者の捜索が当面の目的だと言える。

イノセンスは長い年月を経て内在する力を「奇怪」として発現する事が多いらしく、探索部隊と呼ばれる団員達が各地で調査し、イノセンスの可能性が高い事案があればエクソシストを送るのだと言う。
その中でイノセンスと共に適合者を発見することもあるらしい。私の場合はまだイノセンスが黒の教団で保管されているにも関わらず、「発動」という状態となっている。この発動はイノセンスと適合者が間近にあり、尚且つ同調している状態でなければ起こらないという。
遠く離れた場所にいる適合者にイノセンスが反応を示すことは有るが、かなり特異な事例になるらしく、私の身体に相当の負担が掛かっていることが懸念されるので、急いでイノセンスの元へ行く必要があるということだった。

説明を聞き終え、脳内を掻き混ぜる勢いで新しい情報達を整理した。ブックマンの言葉は理解できても実感が湧かない。
人間では対処出来ないアクマという兵器が存在している事実や、互角に渡り合える力を有したイノセンスと適合者の強さはありありと記憶に刻まれている。だからこそ、戸惑いが生じている。自身に特別な力が備わりつつある事、世界を救う担い手の一部となる事に。
正しくイノセンスと同調することが出来れば、この不安は拭えるかもしれない。
この身が置かれた状況を、せめて前向きに落とし込もうと沈思し始め、一時間と経たない内に下車する駅へと到着した。

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降りた町で一泊し、朝方再び汽車に乗る。そして何度か乗り継ぎ、線路の通らない地に辿り着き、馬車と徒歩で進む。
最終的に辿り着いたのは、地下水路。待っていたと言わんばかりに四、五人の定員であろう小舟と、その上に櫂を携えた白い外套の男性が一人、背を正して立っていた。
どうやら次は小舟で水上を移動するらしい。この二日間で現在有る移動手段の殆どを使い切った気がする。

三人の聖職者達は早々に小舟に乗り込んだが、私は足が竦んで乗るどころか近づく事もままならない。
水音が恐ろしい。小波が打つささやかな音すら恐怖心を掻き立てる。まるで本能が拒んでいるように、近づくと、一度だけ見た水底に沈む夢が脳髄を駆け巡り反射的に身体を硬直させる。
地に足を付けているにも関わらず、足元が小刻みに揺れて力が入らない。無意識に手近にある大樽にしがみつき、剰え「ちょっと待って、直ぐに乗るから」と言いながら安定する樽ごと移動しようと試みる始末だ。

「何してんだあいつは」
「さて……?水が怖いのか」
ユウとブックマンは私の奇行に困惑している。無理もない。私自身もこれ程怯えるものがあるなんて思っていなかった。湖や海に出向いた経験が無く、泳ぐ事が出来ないが、それでも異常だと自分でも思う。
「アリス、そんなに揺れてねぇから大丈夫だぞー」
船上から手招きするラビに、自身を奮い立たせる意図も込めて明るく答えてみせた。

「本当だね。今行く……!」
言ってみたものの、張り付く腕は一向に離れない。威勢の良い返事だけが滑稽なまでに細波の余韻に消えた。呆れた溜息が聞こえて来そうな沈黙が暗渠に広がる。
自己嫌悪に陥りかける心持ちを、緩く頭を振って霧散させる。

唐突に、音も無く間近に人の気配を感じ、首を捻ると緑の隻眼と視線がぶつかる。
驚き腕の力が緩んだ矢先、強い力で肩を背に向かって引かれ、呆気なく樽と私は引き離されてしまった。更に仰け反った体勢のまま、足から地の感触が無くなる。この浮遊感の記憶は確と残っている。

先日ラビに抱えられたのは身に危険が迫っているにも関わらず私が動けなかったからだ。あの時は迷惑を掛けているなりに、大人しくするのが足手纏いを最小限に抑える唯一の方法であったが、今回は状況が違う。
生死が関わる事態でもないのに、身体が動かないのは単なる甘えだ。幼子なら許されるが、十四にもなるのにみっともなく思えた。
「そこまでしてくれなくていいよ!自分で乗れる、からっ……!?」
彼の肩に手を掛け腕の中から降りようと藻いたが、抱き締められるように押さえられる。
身動きが取れなくても尚力を緩めない私に、説得とも、ある意味脅迫とも取れる語気で彼は囁く。
「暴れんなって。正面から抱え直そうか?」
瞬間的に言うことを聞かないと言葉の通りにされそうだと感じ取り、もがく手足を止め、行儀よく腕の中で小さく居直る。
「この、まま……で」
「よしよし」
横抱きにしたまま、彼は躊躇い無く小舟に乗ろうと動き出した。思わず手近な彼の首元に取縋り固く目を閉じる。どこか衝撃に備えよとしてはいたが、案外呆気なく舟に乗り、更に抱えられている為か左程舟の上である感触は無かった。しかし、地を離れ水上に居るのだという感覚は安堵を許さない。

ラビは私を降ろそうとしているが、私の足は舟に着くことを拒んで浮き上がったままで、腕は渾身の力で彼にしがみ付いて離れようとしない。
「アリス、大丈夫?」
「平気だよ、うん。平気、平気」
想定では、平然と且つ淡々と言った筈なのに、声はか細く震えている。相変わらず視界は固く閉ざされて黒い。自身と水面との距離を認めたくない。
「言動がまったく一致してねェさ」
私が必死なのを気遣って堪えてくれているのだろうが、明らかに笑いで声が弾みかけている。けれど私は醜態を晒している羞恥よりも、純粋に恐怖が胸中を支配していてそれどころではない。
するとラビは、奇抜な体勢の私を抱え直し、更にどうやら腰を下ろしたらしい。

水音が近い。身内で夢の中で経験した死の感覚が肥大するように、水の音がまるで海鳴りのように耳につく。耳を塞ぎ出来る限り体を縮こめることで、なんとか自身の内で膨張するものを押し留めたい。
不意に少しだけその音が小さくなり、何かに覆われている感触に気付き、目を閉じたまま触れた。洋服の手触りとは違う。少し荒いが触れていると暖かさを感じる。どうやら毛布のようだ。
頭から被せられているそれを抱き寄せるように握り締めると、少しだけ冷静さを取り戻せたような気がした。

舟が進んでいるのか、誰かが会話しているのか全く気に掛ける余裕が無いまま、私は目的地に到着するまで、耳から入る水音を遮断しようと頭の中でずっと童話を歌い続け、自身を勇気付けていたのだった。

]V

結局終始ラビの腕の中で小さくなったまま、舟の移動が終了した。どうせ降りようにも私の意思通りに体は動かない、と半ば諦めて私を持ち上げてくれる力に礼を言いながら、大人しく身を委ねた。

上り階段の側まで運んでもらい、地に足を付けるとこれまでにない安心感に胸を撫で下ろした。
小舟に乗り始めた場所よりも天井が高く、幅も何倍もある空間なのでかなり広い敷地であるようだが、ここが黒の教団の本部、と言われても仄暗く簡素な水路では腑に落ちるには至らない。
「階段、少し長いけど登れるか?」
「うん。迷惑かけてごめんね。震えも止まったし、今度こそ大丈夫」
その場で足踏みして見せて、口角を上げると、ラビも同じように笑い掛けた。
進み出した彼に着いて、階段を登ろうと足を上げたが、突然声のような音が聞こえた気がして立ち止まる。
辺りを見回すと首を振った拍子に視界が真横に傾いた。倒れ込んだと理解したのは、頬に触れる石の冷たさと、自分の身体とは思えない程の重みを感じてからだった。
身体の緊張が抜けての脱力ではなさそうだ。激務に追われた日の夜、仕事を終え寝台に横になった瞬間の感覚に似ている。
ただ似ているとは言っても、疲労の度合いが桁違いだ。自立する余力すら無くし、薇の切れた人形のように倒れた経験など無い。
これが、私を早く連れて行かなければならなかった理由だったのかと実感した。疲れを感じていなかった訳ではないが、これ程唐突に身体が動かなくなるとは思わなかった。

大丈夫と答えたばかりだというのに、漸く大きな荷物から解放された筈のラビは、また私を抱えて移動せざるを得ない事態となってしまった。呼吸の合間に途切れ途切れの謝罪を伝えると「頭は、打ってないみたいだな。あと少しでゆっくり休めるからな」と穏やかな語気で励ましてくれた。朦朧とする意識の中、頷いたつもりではあるが、果たして首が動けたかどうかは定かではなかった。

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混濁しては何かに呼ばれる様に覚醒を繰り返す内、肢体は力の抜けたままではあるが意識だけは少しずつ明瞭を取り戻し始めた。
話声が聞こえる。一つはラビ、もう一つはブックマンでもユウでもない声だ。
身体に触れる触感と声の近さから、まだラビは私を抱えてくれているらしい。張り付いたように重い目蓋を持ち上げ、唯一思い通りになる眼球を左右にゆっくり振って周囲の確認を試みる。狭い視界では自分は何処にいるのかを見極める情報量が足りない。
「お、アリス。目ェ覚めたみたいだな」
「此処は……?」
「イノセンスの保管場所“ヘブラスカの間”に向かっている途中だよ」
問いに答えたのはラビの声ではない。しかし聞いた覚えのある声だ。そちらに向かって緩々と首を捻ると、真っ白な外套に身を包んだ、背の高い男性が私を見据えていた。彼の胸元にも薔薇十字がある。

「改めて、黒の教団本部の室長、コムイ・リーです。痛みや苦しさは無いかい?」
眼鏡の奥のややつり気味の眼差しを優しげに綻ばせて彼は告げた。蝙蝠を通じての会話で、きっと穏やかそうな様相なのだろうと漠然と思っていたが、少し想像とは異なる雰囲気を纏っている。けれど、不思議と安堵を横溢させる笑顔を見せる人だった。
頷いたが、四肢はまだ思うように力が入らない。イノセンスと同調して、せめて自力で歩ける位には回復すると良いが、果たして上手く事が運ぶだろうか。憂いていると微かに流れる歌声に気が付いた。
聞き覚えがあるようでどこか懐古を覚えるが、何という唄か、また誰の声なのかはあまりに茫漠としていて断定できない。
女性の声であると辛うじて判別できる程の遠い声だ。淵から誘うように静々と響いている。
「下で、歌っているのは誰?」
「……歌?」
数秒の沈黙の後「ラビ、聞こえる?」と問いかけるコムイに、ラビは「いや。何も聞こえねぇさ」と、首を傾げた。その間にも声は徐々に大きくなり、確実に近付いているのだが、彼等には聞こえていないらしい。
或いは、まだ眠りから覚め切っていない為に、一人幻聴を聞いているだけなのかも知れない。

「イノセンスが呼び掛けてるのかも知れないね」
「そんな事って有り得るのか、コムイ?」
「僕もそういう事例は初めてだけど、イノセンスは未だに明らかになっていない事の方が多い。だから無いとも言い切れないな」
ラビは興味深げだが、何処か気落ちしたような声を発する。その意図を探ろうと、コムイから視線を移そうとした矢庭だった。

「さて。ヘブラスカ、彼女が新たな神の使徒だよ」
コムイが呼び掛けると同時、暗闇に青味掛かった白色の発光を帯びた巨大な物体が、首を擡げるように浮かび上がる。淡く光る物体に眼を凝らした時、驚きに心臓が跳ねた。

大きな人の顔だ。それが此方を向いている。顔の上半分は目を含めて髪の毛らしきものが覆い隠している。女性的な作りの鼻と口唇、それから輪郭で瞬時にそれが人であると認識できた。
しかしその身体は人とは全く異なる形状だった。首から下は蛇の胴体のように手足が無いが、背に当たるであろう部分は鱗ではなく鳥の羽に近い何かが無数に生えている。
異形と形容出来るその姿に一瞬怯んだが、自分でも不思議な程、微塵も畏怖は感じない。それどころか、私は無意識の内に巨大な人に手を伸ばしていた。適合者としての本能なのだろうか。イノセンスに一番近い存在がヘブラスカと呼ばれたこの人なのだと、直感していた。

応えるように伸ばした私の手に向かって、羽を纏う無数の人のそれを模った腕が近付いてくる。
ふと、私を支える腕に力が入り、抱き竦められるように身体がラビの方へ傾いた。
彼へ顔を向け、見上げる。交錯した眼差しは僅かに憂慮が窺える。今日は「平気」「大丈夫」と二度も告げては彼の手を煩わせてしまったのだ。三回目が無いとは言い切れないので彼としては気が気では無いだろう。
しかし明確な理由は無いが、強い確信があった。
言葉の代わりにありったけの気力で笑顔を見せると、根負けしたと言いたげに眉尻を下げて、彼は微笑を返してくれた。

抱く力が弱まり、私の身体は仄かな光を纏った腕に委ねられた。軽々と肢体は掬い上げられ、ふと下を見ると、間近で何本もの腕に似た触手が、何層にも重なり巨大な人の手の形を形成した。
その柔らかい掌の上に座らされる。大きな指に凭れ掛かると、巨大な顔が近付いてきた。同時に、未だ途切れる事なく続いていた唄声も一層大きくなる。

「貴方の中に、イノセンスがあるんだね」
「そうだ。お前を待ち侘び、何度も私の中から飛び出そうとしていた」
「宥めるのに少々苦労した」と緩慢に告げるその声は、優しげで落ち着き払った女性の声音だった。
「待たせてごめんね、……ヘブラスカ?」と眦を細めて言うと、美しい形の唇の両端が僅かに上がったように見えた。
そして、彼女の胴体から新たな二本の腕が現れた。両の手で大切そうに何かを包み込んでいる。きっとあの手中にあるのが私のイノセンスなのだ、そう思った拍子。

無意識というより、勝手に諸手が頭上の腕に向かって持ち上がった。物を渡すように乞うているのではなく、まるで我が子を抱き締めんと手を伸ばしているような広げ方だ。
開かれたヘブラスカの掌が傾けられ、零れ落ちるように小さな光が宙に浮かぶ。なだらかに降下する光は両手の真上で停滞する。私はそれを柔らかに包み込む手つきで胸元に寄せた。

途端、身体から自身とは別の意思で動いている感覚が消えた。勝手に動き出す様子は無く、私は光を抱き寄せたままとなっている。
手の平の上にある光を見遣ると、重なった二つの歯車の中心にある正方形の結晶が、星の鼓動を思い出させる細やかな点滅をして浮いていた。

すると頭の中に唄が流れ込んで来る。今までで一番鮮明に聞こえる旋律は、新古を感じさせない独特の音階で、どこか哀愁を帯びている。初めて耳にするにも関わらず、遥か昔から口ずさんでいたかのように身体に馴染む。手の内にある結晶は、その唄を共に奏でてくれと催促するように緩急をつけて輝き出した。

身内に響き渡る音楽に、自身の声を控えめに重ねる。
途端、結晶から眼が眩む程の光線が辺りに拡散した。先程まで起伏がなく淡々とした語気だったヘブラスカが、困惑したような喫驚の声を上げる。
身体に光が当たれば当たる程、私の身体は立所に疲労じみた重さが取り払われていった。

やがて激しい発光は徐々に弱まっていき、輝きが収まったと眼を開いた時には、イノセンスは私の手中に無かった。
包帯をずらして咽頭の辺りに触れてなぞる。痕の浮かんでいた所に、それまでは無かった硬く十字の形の物が皮膚に埋め込まれていた。
――これが、私のイノセンス。
喜び、安堵、不安。その何れにも当て嵌まらないが、何れにも似た複雑な感情が心緒に絡まっていた。

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