長編小説 | ナノ



 Type de Agneau de dieu


X

石畳に鳴る靴音が、住み慣れた場所に近付くに連れて重々しく耳に障る。
脳の中に再生されるのは、異様な気配を纏った屍のような町の様相だからだ。宿の前に伸びるあの道には、きっと未だに人を殺めた痕が残ったまま、薄明かりに照らされているのだろう。
距離はあるが宿の外観が見え始めた所で、ラビが立ち止まった。
「それじゃ、この辺で待ってて」
ブックマンとエマティットは頷き、ユウは反応せずとも反論もしないので同意している様子だ。何故こんなに離れた場所なのか、私だけが理解出来ていない。

僅かに間を置き、エマティットが「やっぱり俺も行くよ」と声を掛けるが、ラビは丁重に断った。二人の遣り取りで更に疑問を覚える。
思考の底へ落ちずに引っ掛かった疑問を汲み上げ、会話を遡り、今になってブックマン達が私を説得しようとした意味が解った。
私が宿に帰る事で、決心が揺らぐからでも長居の原因になるからでもなく、凄惨で生々しい死の現実を見せまいとして配慮してくれていたのだ。
両親達の死を受け止めていない訳でも、軽く捉えていた訳でもない。
簡潔な言葉でしか得なかった情報では、屋内がどのような惨状となっているか、平穏の中で生きていた凡人には即座に想像するに至らなかった。余裕が無く浅慮な自身を恥じるしかない。

「アリス。時計はどこを探せばいい?」
ラビは気後れしているようには全く見えないが、宿の中に広がる光景を目の当たりにして、何も感じない筈がない。それでも彼は表に平然を纏って帰ってくるのだろう。
「窓際の、小さい机の上に……」
「わかった。必ず持ってくるからな」と微笑を浮かべる彼の眼差しとの交わりを断ち、足元へ視線を落とした。
背を向けた服の袖を緩く掴み「ごめん」と呟くと、彼は歩き出さずに留まった。掴んだままの自身の指先を見つめる。
彼が振り返り、袖が指の腹を撫でながら逃げていく。空中に取り残された私の手を大きな手が支え受けた。
「アリスの所為だなんて思ってない。だからもう謝んないで」
私よりも僅かに温度の低い彼の掌は、緩く私の手を握る。彼の機微を表しているようで、尚更顔を上げられそうになかった。
ぎこちなく頷き、掌が離れていく。謝るな、と言われたにも関わらず視線を上げた先に映る背に、同じ言葉を思い浮かべながら見送った。

短時間の内にラビは宿の中から姿を現し、小走りに私達の許へ戻って来た。
「これで合ってる?」と差し出された掌に、間違いなく母が遺した懐中時計が収まっている。鈍く古ぼけた光を照り返す時計を受け取り、「ありがとう」と伝えると彼は閑やかに目を細めて言葉を返した。

再び町の外に向かって進み、いよいよ隣の町へ続く道が近付いてきた。エマティットはこの町に留まり、今回の事件の処理を進めるのだという。
一人で大丈夫なのかと訊くと、同じ所属の仲間達が夜明け頃までには町に到着するので、教会と共同で取り仕切るから心配ないのだそうだ。
アジュールの衣服を預けながら、人ではなかった彼の事も弔ってくれるのかと思い憚り尋ねてみると、彼も含めて亡くなった人々を全員手厚く葬ってくれると約束してくれた。

隣町までは徒歩で向かう必要があるが、そこからは汽車が停留する街まで馬車の手配がされているらしい。汽車に乗ってからの道筋も手際良く進められた段取りを聞く限り、この町に停滞する理由はもう無い。
郷里と言っても過言ではない地を発つ時が来た。

もしも叶うのなら。帰れるのなら、家に帰りたい。パトリックも、シモンも、居なくなった人達が全員見つかり、寝静まる住処に、気づかれないようひっそりと戻って。翌日、無断で昨日抜け出したなと、朝からアジュールに強く諭されて、両親が許してあげてと私の肩を持つ。怒られているにも関わらず「シモン達、戻ってきて良かったね」と能天気に笑えば、彼は呆れ顔を見せるも、次の瞬間には顔を綻ばせる。
こんなにも鮮明に描けるのに、その日常はもう戻らない。
平穏な妄想など捨てようと、脳裏から掻き消した。私が受け止めるべき現実を立て並べ、一つずつ脳髄に落とし込んでいく。少しずつ、少しずつ、自身の心を切り離すような感覚だった。握りしめたままの懐中時計を取り出し、上蓋の模様を眺める。

――まだここに絆が残っている。それだけで、十分。
最後に大好きな町の景色を目に焼き付けたい。けれど、決して振り返りはしなかった。行きたくないと駄々をこね、溢れようとする感情を抑え込むのに必死だったからだ。

Y

町を離れた後は、最中に僅かな休息を取りつつ移動を重ね、幾つか町を経由し駅のある街に辿り着いた。手短に私の身支度を整えて、陽が落ち始めた現在は汽車の中だ。
乗車券も無いまま、徐に一等車両に乗り込んだ私達を駅員が呼び止めたが「黒の教団」とブックマンが名乗ると、駅員はすかさず胸元の十字架に気付き、背筋を釣り上げられたように伸ばして丁重に車内へ案内をした。

幼い頃に得た情報はやはり間違っていなかった。「黒の教団」という名称は初めて知ったが、あらゆる組織に特認される権限を持った秘密裏な存在。
けれど、それ以外は未だに彼等の事も、悪魔であったアジュールの事も、自身の身に起きている自体さえ理解出来ないまま此処に居る。

それらを明らかにしたいとは思っているが、受け止めきれる自信が湧かない。
家族を亡くし、町を遠く離れ、出会ったばかりの彼等と行動を共にしている状況が、夢なのではないかと錯覚する程、私の意識は現実から一歩引いた場所で猶予っている。このまま、全て夢だと思い込み、受動のまま流されてしまった方が楽になれるような気さえする。

矢庭に、対面に座るブックマンが此方を正視し問い掛けた。
「知りたいか?」
その眼差しは鋭く、思考を止めて逃避しようとする意識を引き摺り戻す。
「これまで知らなかった事、これから知らねばならない事を」
厳しげな眼差しばかりを向けていた眼が、僅かに慈悲を湛えているように感じる。彼は、私の心が身体から抜け落ちそうになっているのを勘付き、防ごうとしているのかも知れない。
私の隣でラビが制止しようと声を発するが、ブックマンは視線でそれを諌める。押し黙ったラビが僅かに身動ぐ音がした。
私はブックマンから目を逸らさず、それが本心なのか認識する事なく、無意識に一言「教えて」と呟きを零す。彼は小さく頷き口を開いた。

「我等と敵対する“アクマ”は、悪の概念を具象化した存在とは異なる生きた悪性兵器の呼称だ」
生きた兵器。結び付く要素のない二つの言葉の組み合わせに、出鼻から理解が追いつかない。
機械の体を持ったアジュールの正体が兵器であったとして、彼には生まれた時から家族も幼馴染もいて、皆人間であった。「生きた」と呼ばれる所以は一体何なのか。
「アクマは殺した人間の皮を被り、その人物に成り済ます。そして人間社会に潜伏する」
「殺したって……?」
「アクマの体は製造者により造られるが、それだけでは完成しない。アクマの完成に必要な材料は“機械”“魂”そして“悲劇”」
悲劇により離別した魂を、深い絆を持つ者がこの世に喚び戻す。還って来た魂を機械の体に定着させる事でアクマが生まれる。
アクマの製造者は、目的である兵器生成の真実を伏せ、言葉巧みに死者の復活を遺された人間に強く望ませる。甘い言葉に唆された者は、殉情のまま疑う事なく冥府より愛しい者の魂を呼び寄せ、その魂を内蔵した機械の手に掛かり、命を落とし肉体を奪われるのだという。

アジュールが喚んだ魂はきっと、私と出会う前に亡くしたという妹だったのではないか。
幼い妹を病に奪われ、両親以上に生命の復活を望んだのが兄であるアジュールだった。当時十二、三歳であろう彼がどうしたら可愛い妹の復活を望まずにいられるだろうか。
そして、本物のアジュールは、妹の魂を内蔵したアクマに殺された。
私がこれまで接していたのはアジュールではなく、彼の妹ということになる。何故、彼女は兄を殺して彼に成り済まし、多くの人を手に掛けることを望んだのだろう。
「内に人間の魂を持っていても、その本質は製造者の指示の許、人間を殺めるよう命令を擦り込まれた機械だ。人格も意思もない」
「アクマは魂の持ち主でも、身体の持ち主でも、…誰でもないという事?」
「そうだ。アクマは人を殺せば殺すほど成長し、進化の過程で自我が生まれる。だがそれは能動的に思考する事により、効率良く製造者の指示無く命令を遂行する為の手段に過ぎん」
「アクマの自我が、私が今まで一緒に生活をしてきたアジュールだったんだ……」

これまで、アジュールだと……、家族だと思っていた人は、本当の彼ではなくて。それどころか人間ですらなかった。体も意志も、造り物だった。
けれど、私にとってのアジュールは彼だけであり、いつでも優しく頼れる兄のような大切な存在だった。
私に掛けてくれたあらゆる言葉、表情、それも、全ては人間社会に溶け込む為の虚偽だったのだろうか。

「アクマに内蔵された魂は、機械の体を破壊されない限り、望まない殺人を繰り返しながら永遠に拘束される。そして抱く罪への苦悩、絶望や憎悪、負の感情の昂まりがアクマにとっての糧となる」
幼い少女の魂は何年もの歳月、誰にも助けを求められないまま、誰かを手に掛ける度、嘆き苦しんでいた。世界を、自身の存在すら恨む程に。
悲嘆が絶えず間近にあったのに、私は気付きもせず、平穏な日々を過ごしていると履き違えていたのだ。
一瞬、絶望じみた虚構の縁に落ちたような錯覚に陥った。皆の前で顔に出してはいけないと思い直し、取り繕う。その際にブックマンと再び視線が合う。

「それが現実だ。目を逸らしてはならん」
諭すような口調で、彼は決して目を逸らさない。無意識に首を縦に振っていた。恐らく、彼が説明したアクマについては、ほんの一端に過ぎず、アクマが彼等にとってはどんな存在なのか、製造者は何者で目的は何なのか、イノセンスとの関連など、深く知るべき情報はまだ沢山あるだろう。
けれど、事実を受け止めた上で感情的にならないよう平然を保つのは、今の私にはその微細な事柄だけでも手一杯だった。

「じじい。今は……、もうそれくらいでいいだろ」
頷きはしないが、ブックマンはラビを一瞥すると背凭れに深く身体を預け、語りを止めた様子を見せる。
「アリス、馬車の中でずっと起きてたよな。降りるまで暫く時間が掛かるから、横にはなれねぇけど少し休んだ方がいいんじゃねぇか?」
擦り切れそうに動揺する心緒は、ラビの助言に救われた。ブックマンは私の精神を追い込むつもりでは無いのだと理解はしている。
新たに得た真実を受け止める余力が残っていないのは、自身の弱さの所為だ。
ラビは眠ってもいいと持ち掛けてくれたが、私だけのうのうと寝入るのは不義理に思える。
「十分休めているから、大丈夫だよ」と説得力のない答えを返し「でも、少し考えを整理させて欲しい」とブックマンに断りを入れた。

室内が沈黙で満たされる。何をするでもなく、膝に置いた手を見つめる。
既に二日近く寝ずに過ごしている身体は、微細な振動と規則的な音に心地よさを覚え、望んでもいないのに徐々に意識を混濁させていく。
目蓋が重いと感じた時には、もう既に遅かった。

Z

夢か現か分からない世界。最初に視界に入ってきたのはアジュールの後ろ姿。
安心を覚えるその背に向かい駆け出すが、恐ろしい程に足が鈍く重い。立ち止まっている筈の彼に、全くと言っていいほど近付いていない。私が手間取っている内に、彼は影に包まれ消えた。
「助けて」と男か女かも区別の付かない誰かの声が弱々しく反響した。

立ち止まり行方を探すが、辺りはいつの間にか夜の静謐を充満させた私の部屋に移ろっていた。騒がしい音を引き連れて、けたたましく扉が開け放たれる。現れたのは、パトリックだ。
「早く逃げて!」と焦燥した形相で言い放ち、彼は私の手を引く。言われた通りにしたいのに、私の身体は微動もしない。
悲痛めいた獣の咆哮と共に、部屋の隅の闇間から鈍い光を照り返す巨躯が這い出てくる。大鎌の爪を振り上げながら私達に近づく。
私は彼の名を叫ぼうとするが、咽頭の奥に押し止められたように声が出せない。足も動かない。大腕が打ち下ろされた瞬間、パトリックの姿は消えて、明るい町中に放り出された。

道の真ん中で立ち尽くす私に、通りかかる人達がどうしたのかと集まり声を掛けるが、私は動くことも問いを返す事も出来ない。
途端に彼等の背後が暗く澱んでいく。広がる黒溜りから大きな腕が伸び、眼前の人々を一人ずつ一瞬の内に闇の中へ引き摺り込む。再び私は声を張り上げようと試みるが、一向に口は無音を貫く。脳内では怒鳴りにも近い語気が激しく反響しているのに、彼を止める術が無い。一人残らず町の人達の姿は消えてしまった。

森の中。座り込む私の前に、シモンの背がある。両手を広げて私を何かから守ろうと必死に呼び掛けている。重厚な足音が近づいて来ている。シモンに「逃げて」と言いたいのに、やはり私はただ見ているだけ。心の中で何度も何度も同じ言葉を繰り返しても、何一つ変わらない。
シモンと対峙する金属の獣は、煙を振り払うように容易げな挙動で、シモンの身体を薙ぎ払う。
次いで背後から駆け寄る足音。義母が私を庇うように抱き締め、義父が異形の獣の前に立ち憚ろうとする。それを前にして、慟哭の雄叫びと共に鋭利な切っ先が閃く。

――私が何も出来ないのはもう解ったから。だからやめて。お願いだから誰も傷つけないで。これ以上大切な人達を苦しませないで。

どんな拒絶も制止も懇願の言葉も身体の内に拘束されている。心が悲鳴を上げ、身体が腕を振り乱して体表に出せと喚き叫んでも、私は指先さえ反応しない。何かが弾け散るような音が耳に響く。

全力で駆け回った後のような激しい鼓動に、胸が苦しくて目を醒ました。打ち鳴らされる脈が喉に迫り上がってくる。同時に、抑えきれない感情も連れ立って横溢し、濁流にも似た強い勢いで襲い掛かろうとする気配を覚えた。
――限界なのかもしれない。
私の明らかな動揺にラビが気付いたようで、不安げな眼差しで気遣う言葉を掛けられた。僅かに視線を泳がせるとブックマンもユウも、私に目を向けている。

「ごめんね。何年も汽車に乗る事がなかったから、少し気分が悪くなっちゃって」
落ち着いていると装うために、ゆっくりと告げて、座席から立ち上がった。追うようにラビも腰を上げようとしたが「外の風に当たるだけだからすぐに戻るよ」と、気力を振り絞って笑う。彼はそれ以上食い下がる事なくすんなり私を見送った。

[

最後尾の車両の外に出て、出入台の欄干を胸に抱くように身体を預けた。少しだけ休憩したら、すぐに戻らなければならない。目を赤腫らして戻ろうものなら、また余計な心配を掛けてしまう。
離れて小さくなった峨々たる山岳を見つめ、随分遠く離れてしまったのだと実感した。住んでいた町は既に見えない。そして、あの山さえも見えなくなる土地に私はこれから行く。けれど、そこで私に何が出来るのか…。列車の揺れとは異なる足元の揺らぎを感じながら惟る。

――気持ちが落ち着くこと考えよう。……。そうだ、私には歌があるんだ。
辺鄙な地を走る路線の為か、この車両には人が乗っていない。入り口の扉も確と閉めた。走行音や風にかき消されて誰にも声は届きはしない。いつものように歌えば気が晴れるに違いない。そう思いたかった。

呼吸するように口から出たのは、永遠の安息を願う歌だった。子守唄を聴かせるように、静々と空に放つ。彼らが楽園へ導かれ、受け入れられた聖なる地に於いて、安らぎの光に照らされるようにと祈りを捧げる。

祈りの中、パトリック、シモン、両親、もう会えない人々の顔が、脳裏に浮かび出す。
私を呼ぶ声、笑い声、「おはよう」「おやすみ」当たり前に交わしていた会話が勝手に頭の中で想起されては消えていく。
姿を知り得ない、家族の悲痛な喚び声に応えた為に支配され、重ねる業に苦しみ、助けを乞う事さえ出来ず歪んでいった幼い少女の魂。
そして、優しげな光を湛えた藍銅の瞳、穏やかで低めの声音、軽く手の平を私の頭に乗せる仕草と、時折見せる切なげな笑顔。血に塗れた彼の最期。儚げに綻ぶ微笑、寂しげに呟いた一言。

頬に一筋冷たいものが伝った。雨、ではない。涙だ。
そう気付いた時には哭泣に変貌しつつある歌は次第に掠れ、思うように声が発せなくなり、嗚咽に変わりゆく。
私は彼等の誰一人を救う事も、弔うことも出来ないまま、永遠に別離した。
謝るべきは私だ。全ては自身の無力が生んだ悲劇だ。家族や友人達の平穏が失われるのを見過ごし、苦しむアジュールに手を差し伸べる事も出来なかった癖に、皆の魂の安息を願うなど、何度謝罪を重ねた所で許されはしない。
喪失の悲しみは、強い自責へと化す。「何故。何故」と何度も自身の過去の言動を批難する。

露わになった感情は遂に、背けていた悔恨の渦に為す術なく飲み込まれた。涙はとめどなく眼から溢れては落ち、力が抜けた身体は膝から頽れる。手摺にしがみ付いて何とか上体を立てているが、いっそ子供のように床に倒れ込んで哭き叫んでしまいたい。頻りに「ごめんね」と誰にも受け入れられない言葉を振り絞るように唱え続ける。

腕に力を込められなくなり、座り込んだ。眼を抑えて涙を堰き止めようと試み、しゃくりを上げる声を嚥下し押し留めた。列車が次の駅に着くまでに泣くのは止めて戻るんだ。そう自身に言い聞かせながら、暗い視界に浮かんでは消える思い出に縋り付きながら、足を抱え、縮こまって泣いた。
吹き付ける春の夜風が冷たくて寂しい。暖かい家と、家族の笑顔をどれだけ目蓋の裏に描いても、無情な現実は罰を与えるが如く郷愁に浸らせてはくれない。身体は少しずつ冷え込んでいった。

\

暗澹から浮かび上がる感覚。遠くから規則的な振動音。髪を揺らす風の感覚。
少し前まで身を震わせていた気がするが、寒えは何故か今は薄れ、冷えた風も身体には吹き付けて来ない。
私は何をしていたのだろう。何処にいるのだろう。やけに重たい眼を開け、顔を上げた。ぼやける視界が安定し、夜、外気、鉄の手摺と様々な物を認識して漸く、自身が車内に戻らず泣き疲れて眠ってしまっていたのだと気が付いた。
急いで戻らなければと慌てて身動ぐと、不意に肩に掛けられた何かが擦れ落ちそうになり、反射的に掴む。その拍子、仄暗い視界に、映った。
出入台の端に立つ人影。その横顔と、夜の色を宿した濃い赤は、彼は誰なのかという疑問を抱かせなかった。

「いくら寒さに慣れてても、外で寝てたら風邪引くぜ」
ラビは此方を向いて笑顔を見せたが、気遣いが心苦しくて「ごめんね、迷惑かけて」と私は短く返して視線を逸らしてしまった。
その態度に呆れるでも怒るでもなく、ただ彼は無言となる。僅かに視線を彼の方へ戻すと、緑玉の眼差しは再び暗闇の先へと向けられてしまっていた。

彼は優しいから態度には出さないが、不快に感じただろう。自身が招いた過誤に、再び論う内心の声が蠢き出す。けれど、咎めの沈黙は、正面を向いたまま発せられる彼の声によって唐突に破られた。
「アジュールは、アクマである以上絶対に切り離せない殺人衝動に、抗っていたのかも知れない」
その言葉を端緒に、ふと想起した。強い頭痛に耐える姿、獣の姿となり苦悩する姿。何かに抵抗しているとも取れる挙動が確かにあった。
もしもラビの言う通り、アジュールが製造者に従いたくないと、誰かに止めて欲しいと願っていたのなら、一体それは何故。

「きっと、人として生きたくて」
まるでその一瞬だけ吹き付ける風が止み、列車が停止したように、彼の声は鮮明に届いた。
アジュールと過ごした日々は、決して効率良い殺戮の為に形成された偽物では無かったのだと、そう信じさせてくれる、摯実な声調だ。
「あの時アジュールを止めたのは、ずっと傍に寄り添っていたアリスじゃなきゃ出来なかった」
壊れた金属の体から現れたアジュールの瞳に再び灯った光の色が脳裏に蘇る。あれは、私が取り戻したものだと、微力でも助けになれた結果なのだと、自惚れてもいいのだろうか。
「拘束されて苦しむ魂を。助けを求めていたアジュールを救ったのは、間違いなくアリスだ」
はっきりと断言する彼に、反応できなかった。彷徨う暗闇に突如差した暁光に目が眩んだように、息が止まって、次いで目の前の彼の後姿が滲んでは鮮明になる。何度も何度もそれを繰り返す。
理由が解らないまま、堰を切ったように溢れて止まない涙は、決して悲しみや苦しみに起因するものではない。それだけは確固としていた。
「あ。あと、じじいがアクマの話をしたのは、自分を責めるなって意味もあったんだと思う」
「あいつ口煩い割に口下手だからさ。許してやって」と此方を見ないままに彼は笑う。彼の耳には届かないかも知れないが、枯れて掠れかけの小さな声で答える。
「うん。……ありがとう」
彼は私の涙が乾くまで、一つも外灯の無い漆黒の景色を、穏やかな眼差しでずっと見つめていた。

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