長編小説 | ナノ



 Type de Agneau de dieu


T

遺灰にも似た真砂は僅かな風に乗って宙を揺蕩い、月を目指すように空を流れ行く。
私に残されたものは何もないのだと示すように、一粒も残らず消えていった。唯一残った衣服を手繰り寄せ、茫漠と夜空を仰ぎ見る。

アジュールは、人間ではなかった。町の失踪事件を引き起こし、パトリック達やシモンの命を奪った悪魔だった。それが何時からだったのか。何故彼だったのか。何年も同じ時を過ごしておきながら、私は異変に何一つ気付いていなかった。
けれど、例え知り得た所で私に何が出来ただろうか。それが遅くても早くても、私が無力であることに変わりはない。どう足掻いてもアジュール達を救うことなど出来なかったのだ。
自身を論う内心の声と、押し寄せんとする悔恨から目を逸らすように、振り返った。
ラビの怪我の処置、ブックマン達との合流を直ちにする為に考え、動くべきだ。

「ラビ。怪我は……」
「大した事ないさ。気にしなくていい」
彼は立ち上がり膝の砂を払うと、酷く穏やかに答え「それより…」と語尾を濁して、眉尻を下げた。
これ以上自分が打ち拉がれている様子を見せては、彼に罪悪感を抱かせてしまうかも知れない。私に力が無いばかりに頼りきった挙句、傷を負ってまで私を守り、アジュールを破壊してくれたというのに、これ以上理不尽な仕打ちを彼に与えてはいけない。
辛い仕打ちを受けていた頃の母の笑顔を、強く脳裏に思い描きながら、自身の表情で模る。私がそうであったように、彼が安心してくれるようにと願いながら、自分には笑顔を作る心の余裕があるのだと示した。
「心配しないで。アジュールを、……この町を助けてくれて、ありがとう」
しかし、同じように笑顔を返して欲しいという願望は叶わなかった。

――お母さん。私は貴女みたいに上手に笑えないみたいだよ。
そうでなければ、目の前の彼は悲痛そうに表情を歪めたりはしない。

彼の陰る面持ちから逃れようと視線を落とした先に、切り裂かれた厚手の黒い革履が視界に映る。
脹脛辺り、頑強そうなそれを深々と抉った一線は、はっきりとは見えないものの間違いなく彼の身体にも届いているだろう。想像していた以上の大怪我をしている可能性がある。
「ごめんね、私のせいで……、すぐに手当てを……!」
私は跳ねるように腰を上げたが、行動が繋がらずその場で当惑した。
処置に必要なものは持ち合わせていない。洞口は塞がってしまい帰路を失っている。周囲を見渡すが町へ戻るにはどの方向へ向かえばいいのかが解らない。闇雲に歩き回れば彼の傷が悪化してしまう。
自身に出来る最善の行動を模索するが、思いつくものはどれも大した役には立ちそうにない。己の足手纏いのせいで大事になってしまった。

「アリス」
宥めるような語気で呼び掛けられ思考を止めた矢先、鼻先に黒い浮遊物が現れた。機械と思われる蝙蝠だ。
微かな羽音を纏い、単眼で私をまじまじと見つめ、ラビの傍へ戻っていく。
「こいつも繋がりそうだし。場所は、そうだなー。火柱でも立てて知らせれば何とかなるさ」
私の憂慮を汲み取ったのか、柔らかに口角を上げて彼は緩慢に話す。
「歩くのがしんどくなったら、ユウに負ぶってもらおうかなー」
彼は蝙蝠を掌に乗せ、冗談めかして告げるが、それはブックマン達が無傷であればという仮定に過ぎない。アジュールは二人と交戦していたにも関わらず私達の前に現れた。それが二人の隙を突いて逃げたのか、身動きが取れなくなる程の傷を負わせたのかまでは、解らないのだ。
楽観な彼に反するように暗く淀む思考に、我ながら嫌気を覚えた折柄。

「その調子なら隣の町まで走らせても良いだろう」
俄かに木立の闇間から独特の錆声が飛んできた。次いで踏みしめる葉音と共に、二人の人影が明るみに現れる。
「少しは労ってくれてもいいのに。あのパンダじじい」
ラビは私に同意を求める口振りで言い、近付いてくる彼等を見遣る。
同じように視線をブックマン達に戻した。二人の挙措からは負傷している素振りは窺えない。アジュールが彼等を手に掛けずに済んだと改めて認識し、小さく息を吐いた。

U

「迷惑かけてごめんね。二人共、無事で良かった」
歩み寄る彼等に声を掛けると、二人共ほぼ同時に眼を見開く。選んだ言葉が良くなかったのだろうか。再度謝るべきか他に掛ける言葉は無いかと逡巡する。
「少し前から声が出せるようになったんさ」
ブックマンとユウは私が当然のように喋り掛けた事に驚いていたらしい。しかし、ラビの何気ない語気の発言に対し、探るような声音でブックマンは問う。
「何の前触れも無く、か?」
対してラビは「……あの時、何か変わった事はあったか、覚えてる?」と気遣わしげな眼差しを向けた。

声を取り戻した間際、余裕が無く焦燥していた感情は覚えている。そして憤りを覚えつつあった。記憶を急いで辿る内、初めて感じたあの不思議な応答を想起しながら言葉に出す。
「声を返してって思っていたら、何処かから反応が返ってきた。気が、する」
我ながら超自然的で信憑性の無い発言だと、言い終わらない内に猜疑が横溢し始めた為、自信を失った語尾は揺らぎ朧朧となる。
しかし意外にも「嘘をつくな」と咎められはせず、寧ろ彼等は私の発言に耳を傾けてくれていたようで、ほんの一瞬互いに眼を合わせ、意思を送りあう動作をしていた。
何を意図しているのかを問い掛けても良いか迷っていると、荒々しく森の中を駆けながら此方に近付く音が俄かに立つ。
思わず身構えたが、何故かブックマンとユウは緊迫の気配を示さず、一瞥するのみだ。

程無くして、白い外套に身を包み大きな荷物を背負った一人の青年が姿を現した。
その表情には殺意のような強い感情は見受けられないが、必死といった形相が浮かんでいる。

「ずっと呼び掛けてるのに、なんで無視してどんどん行っちゃうんすか!」
「……あれ。お前、隣の町で待機してたんじゃ」
息を切らしてブックマンとユウに訴える青年に向かってラビが声を上げると、彼は安堵したように強張る眉間を柔らかにして歩み寄って来た。
「本部から通達があったんだ。適合者の可能性がある人間と接触している者は、早急に報告するようにって」
説明をしながら背負っている荷物を降ろし、手際良く操作を始める。不意にその手が止まり、勢い良く立ち上がって私と向き合った。視線を合わせて彼は眼を細める。

「俺はエマティット。この人達の仲間だよ。ええと、アリス。ちゃん?」
首を傾げて確認の瞳を向ける彼におずおずと頷く。そして、彼は私が抱える衣服に視線を落とし三人の聖職者を見回す。その眼差しは私に向けた朗らかなものと打って変わって鋭く変わった。
「……。室長に繋いでも良いっすね?」低い声音で告げられた言葉に、誰も異論は無いようで、頷きながらラビが蝙蝠を手渡した。
するとどういう仕組みかは解らないが蝙蝠の背に電線を繋げた。蝙蝠は、繋がれている背を気にせず羽を動かし、宙に浮いている。

間も無くして、「通信班」と名乗る声が蝙蝠から発せられ、エマティットが「室長」への取り次ぎを依頼する。どうやら彼が背負っていたのは電話機だったようだ。
しかし、本体らしき大きな四角い箱には電話線が見当たらない。持ち運べる電話機など聞いたことが無い。会話を伝達する蝙蝠や、戦闘の最中ラビが起こした特異な力も、世間で知っている者はまずいないだろう。
彼等は一般人には理解の及ばない、高度な技術や能力を持ち得ているらしい。

少し間を置き「室長」らしき男性に繋がったようだ。蝙蝠から伝わる声は穏やかだが少し焦りを感じる声調だ。
エマティットに代わり応対するブックマンは対照的で、冷静沈着且つ簡潔に町で起きた出来事の報告を始める。
それを聞く中で、アジュールが手に掛けた人々についての話が淡々とブックマンの口から出る。宿と、周囲の民家の中にいた人間、その全てが息を引き取っていたということだ。
望みは限りなく薄いだろうと思っていた。しかし、淡い期待を抱いていなかった訳ではない。湧き上がる落胆を飲み込んで、続く内容に耳を傾ける。
話の終わりに「町人失踪の原因であった悪魔を破壊したところだ」と告げた後、もう一言付け足した。

「此処に居る少女が適合者の可能性がある」
「本当ですか!」と、男性の声は期待を孕んだ語気で反応する。ブックマンは手綱を引き締めるように、淡々と会話を続けた。
「しかし、確証が無い。何か確認する手立てはあるか?」

「先程、ヘブラスカが保持しているイノセンスが突如呼応し、適合者無しで発動しました。今も発動状態にあります。なので、当人の身体に何らかの影響が出ている筈だと……」
視線が一斉に集中する。だが生憎、一目で判別付きそうな大きな要素は見受けられず、身体に異変も感じられない。
強いて言えば、声を出せるようになったのは、イノセンスと呼ばれる物の影響かも知れない。だとしたら、失声したと同時に現れたあの十字の痕に、変化が現れているかも知れない。
襟を開き、首に巻いた包帯を取り去る。自身では全く確認できないが、彼等の反応で直ぐに解った。

V

「……彼女で間違いなさそうだ」
その一言の後、安堵に近い一息が蝙蝠から漏れる。しかし、次に話し出した声の調子はやや低く、体面せずとも粛然とした気配が伝わる。
「わかりました。その少女と、話をさせて貰えますか?」
黒く縁取られた眼に促され、おずおずと蝙蝠に近づく。私が口を開くよりも先に、優しげな声が耳に届く。

「はじめまして。僕はコムイ・リーと言います」
「私は……アリス。はじめ、まして」
何故彼は私と対話しようとするのか。疑念と緊張で上手く言葉が出ない。コムイは執拗に緊張を解そうとはせず、穏やかに一言挨拶を返した。
そして、ほんの一呼吸の沈黙を置き、子供と接する際のような強くは無くも柔らかな、一種の諭しにも似た声調で、彼は会話を続けた。
「アリス、突然で申し訳ないね。君には、そこにいる彼等と一緒に僕らの許へ来て欲しい」
「それは、今すぐに……?」と呟きながら、貴方がいる場所は何処?一体何故?此処に戻って来られる?と次々に彼に投げたい疑問が浮かぶ。コムイは短く肯定を返した。
「本当は事情をしっかり話して、君が納得した上で迎えたかった。けれど、事を急ぐ事態だから今ここで全てを説明できない。今の君は、とても危険な状況にあるんだ」
全てを問わずとも、たった一言で心情を汲み取ったのか、私の心持ちとは真逆に緩徐を崩さず彼は続けた。
「悪魔……、君は人では無いものに襲われたそうだね?」
「うん…」
「僕達は彼等と敵対し戦っている。そして、君もまた彼等に敵と認識されるようになってしまった」
その理由は、私が「適合者」だから、なのだろう。
適合者である事の具体的な意味は知れないが、彼の口振りから、安全な場所に保護して貰える訳ではなさそうだ。
何故か不意に、まるで他人事のように冷淡に、コムイの言葉やこれまでの状況から、自身の置かれた立場を理解し始めた。

「私も、貴方達と一緒に悪魔と戦う事になるんだね」
彼は、先程とは打って変わって、歯切れ悪く言いづらそうに言葉を噤んだ。
抵抗が無駄なことも、私の存在によって多くの人の命を危険に晒すことも、理解した。
私がこの町に留まれば、またあの惨劇が起こる。それを防ぐ為に、私は傷つく必要のない人々から離れなければならないのだ。
こんな非力が戦場に立った所で何が出来るのか解らないが、そこにしか私の居場所がないのなら、従う。
「解った。それでこの町が安全になるのなら、町を出るよ」
「……。この町を後にしたら、二度と帰ることは出来ない。君は、それでも……」
私が原因で、何人もの無関係な人々が犠牲となった。最早、今後此処で暮らす資格は既に消え失せている。コムイが負い目を感じる必要はどこにも無い。
「それも、覚悟してる」
表情は伝わらないだろうが、口角を上げて、目尻を細めると自然に声音が明るくなった。
蝙蝠は少しだけ沈黙し「ありがとう」と酷く優しい音を発する。それが訳もなく物悲しく、胸の奥が締まるような心地を覚えた。

コムイとの通話を終え、早々に出発する事となったが、一度町へ戻る必要があるらしい。私とラビが洞窟を抜けて辿り着いたこの場所は、進むべき道とは反対方向の山脈付近に位置しているのだそうだ。
しかし、町を通るとはいえ身支度をする余裕は無いのだと告げられた。
せめてアジュールや、家族達を、葬儀は出来ずとも自身の手で葬らせて貰えないかと願い出たが、組織の者達が代わって丁重に弔う、と断られてしまった。
何もかもを捨て、逃げるように去る。身が引き裂けそうな心地だ。二度と足を踏み入れる事が叶わずとも、この地で過ごした繋がりを自身の手の内に残したかった。

――繋がり。お母さんの懐中時計。あれだけは、手放したくない。
はたと思い出し、半ば縋るような心緒で、自室にある懐中時計だけでも取りに行かせて欲しい。と頼み込んだ。
事を急ぐのだと言われたにも関わらず、身勝手な願いだとは承知している。
決心を揺るがし出発を渋る事も、時計以外の物を持ち出そうとして時間を取るつもりも無い。
そう伝えたものの、エマティットとブックマンは、どうやって私を説得しようかと考えあぐねた様子で押し黙ってしまった。
彼らからしてみれば、出会って間もない人間の口先だけでは少しの説得力も無いのだ。母の遺品も諦めなければならない。迫り上がる喪失を抑え込み、我儘を取り消そうと口を開きかけた時。

「オレが取ってくれば問題ないだろ?時計一つなら時間なんて対して変わんねぇさ」
明朗に言い放つラビを、すかさずブックマンが睨みつけた。
しかし、エマティットが「あの宿なら、町の中心辺りにあるから、遠回りにもならないし……ラビが行ってくれるならいいんじゃないっすか?」と加勢した為、渋々と言った様子だがブックマンが折れてくれた。
全く会話に入ろうとしないユウの溜息が聞こえ、慌てて謝ろうとしたが「本気で怒ってたら怒鳴ってどっか行っちまうから、大丈夫さ」とラビが気遣ってくれたのだった。

W

岩壁に沿って森を暫く歩くと、聖母像の置かれた洞穴がある場所に戻ってきた。明かりを灯す蝋燭は全て溶けて、辺りは深更の謐けさに包まれている。

「怪我をしているのは、ラビだけ?」
四人を見遣ると「そうみたいだ」とラビが答えた。私は彼の手を取って「我儘ばかり言ってごめん。直ぐに済むから、待ってて」と他の三人に告げ、少々強引に聖母像に向かって進んだ。
「アリス、急にどうしたんさ?」
「此処なら治せるかもしれないから……」
身勝手な願いを聞き入れてもらった代わりに、
「でも、泉はそっちじゃないぜ」
「……あの泉は、やめておこう。もう一つ、水が流れている場所があるの」

奇跡の泉は、岩壁に大きく空いた空洞の際端にある。私はそちらではなく聖母像の真下に行き、白い岩肌に手を触れ、そのまま滑らせながら探る。明かりが無いので記憶ではこの辺りだったと屈んで手探りするうちに掌に湿りを感じ、行き当たった。人の腰よりも低い位置から、岩の中を通りほんの僅かに一筋流れる湧き水。
それに気付いたのは、認知が高まり利用者が増えた泉を直視出来ないと落胆した日の事だった。
遠巻きに泉に救いを求める人々を眺めていた最中、間近の岩壁から音が鳴り、見下ろすと小さな割れ目から水が流れ出してたのだった。
確かめなくても、気配……のようなものですぐに分かった。この流水は治癒の泉と同じだと。
この存在に気付いている人もいる筈だが、手を当てて溜めたところで一口飲む程度の量しか流れ出ていないので、殆ど手を付けられていない。
確かにこの微量の水では傷口を洗うに随分時間がかかるだろうが、実際のところ水の量は関係ない事に多くの人は気付いていない。それがこの小さな湧水にとっては幸いだった。

片膝をついて屈む彼に向き合った時、ふと膝下に布が巻かれていた。どうやら止血の為にいつの間にか縛っていたようだが、かなりきつく締められている。血管を止める必要がある程の深傷ということだ。

布を解いて傷口を見せるよう促すと、ラビは躊躇いがちだったが、黙って応じてくれた。
革靴の内側に入っていた裾は血で染まりきっており、傷口が何処にあるのかわからない。それをたくし上げ「無理に見なくてもいいからな」と裂傷を外気に晒した。目にした瞬間、思わずたじろいだ。
暗所の所為で鮮明には見えないが、それでも間違いなく皮膚を越え肉を裂いていることは容易に解る。こんな怪我を負い、十分止血もしないままに、彼は笑顔を見せ、文句も言わずここまで歩んだとは信じ難い。それ程の状態だった。

直ぐ様岩肌を流れる水を両手に乗せる。
――……。お母さん、お願い。
そして、掌から溢れる位に溜まった水を彼の傷口にゆっくりと注いだ。
それまで落ち着き払っていた彼が、短く呻きを零す。
――少し治りが遅い。やっぱり、かなり力が弱くなってる。

俄かに、苦悩を抱えて耐えていた二人の人の姿を思い出す。
「貴方も、苦しいのを上手に隠しすぎだよ。気付かなくて、ごめんね」
「アリスは、何も……悪く、ない」
痛みに彼の整った顔立ちが歪む。
呻吟しながらも労わる言葉を紡ぐ優しさに、心を委ねてしまいたい衝動が心を揺さぶる。
殉情を心の奥に仕舞い込み、直後掌の水が最後の一滴を落とした刹那だった。深々と皮表を陣取っていた傷が、絵の具が洗い落とされるように流水と共に消えた。

泉の力はまだ消えずに残っていた。弱まりつつある所為で中途半端にしか癒えなかったら、と憂慮していたが、ラビがあの時、治癒の力の根源らしき結晶を残しておいてくれたお陰だったのかも知れない。
そして、弱々しくなりながらも私の願いを聞き届けてくれた母に「ありがとう」と心中で呟いた。
胸を撫で下ろしながら、彼に眼を向ける。
「痛みはまだある?」と問い掛けようとして、交わる視線に胚胎する彼の追想めいた感情に心付いた。
此方に向かって伸ばされる彼の手が頬に触れようとした時、背後から大声が響く。

「ラビ!傷の具合はどうだ?」
振り返って見ると、心配して来てくれたのだろう。エマティットが神妙な面持ちで駆け寄って来た。
「たった今完治しました!」
一瞬の間に素早く靴を履いたのか、既に準備万端といった具合にラビは立ち上がって片足を上げて見せている。秘めた情を浮かべたような憂いの表情は、人懐っこい満面の笑みに移り変わっていた。

「凄……。本当に奇跡だな。イノセンスは見つからなかったけど、もう暫く調査が必要かも知れないなぁ」
傷跡も残らず完全に癒えたラビの足元を眺めながら、エマティットが感嘆する。
ラビは否定も肯定もせず、口を閉ざして笑い掛けていた。
彼等にとって、イノセンスとは相当重要な物なのではないか。その可能性があったあの結晶を手に取ろうとしたラビを止めてしまったのは間違いだったと後悔が浮かび上がる。

いつまでも屈んだままの私に、ラビは再び視線の高さを合わせ、手を差し出した。
「この傷を治せたのは、アリスのお陰さ。ありがとう」
元はと言えば、怪我の原因は私を庇ったからだ。それに、傷を癒したのは私ではない。首を振って卑屈な言葉を返しそうになるが、彼が差し出してくれた優しさを否定するのは、更に愚かな行為だろう。
素直に手を取り「ありがとう」と真似するように告げると、彼は嬉しそうに眦を綻ばせた。
泉を後にして、足早に私達は宿へと足を進めた。

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