安心できる場所に
ここ何十年かは、個人貿易で主な生計を立てている。
何となく生きていたら世界に取り残される感じがして始めた仕事。愛顧してくれている取引先の一つに、今日訪れた工房も含まれている。
てんこくんが無邪気な顔で寝ているのを確認して、そっと家を出た。別に借りている倉庫に赴いて明日の出荷発送と荷受けの準備を整える。
作業を終えて、しんと静まり返った帰りの夜道。
月のない晴れた夜空には星がまばらに散りばめられていた。
そういえば昨日はあの路地から声がして、覗いたら人が砂になっていったんだった。てんこくんを連れて帰ってからまだ1日ほどしか経っていないのよね。なんだかそんな感じがしないわね……
ちら、と路地を見ると、大柄な人の影が揺らめいた。
また人がいる? あそこには何かあるのかしら。
なに食わぬ顔で、気配を少し薄めて本通りを通りすぎた。
『ッひっ!!』
帰宅して鍵を開けると、中から幼い少年の声がした。
あ……今ので起こしてしまったかしら。
ドアを開けるとてんこくんが毛布を握ったまま立ち尽くしていた。そしてこっちを見て、表情が弛んだ。
「あ、起きちゃってたの、てんこ君。ごめんね外の倉庫に行ってて、……寂しい思いをさせたみたいね」
私を探し回っていたのだろうか。可哀想なことをしてしまった。ふわりと包むように抱き締めると、私に頬をぴったりとくっつけてくれた。
信頼してくれてる、と思っていいのかしら。
「週何度かこの時間に外に出るの。そのお陰でてんこ君に会えたんだけどね。ビックリさせたね、ごめんね……もう一度寝られるかな。今度は一緒のお布団で寝よっか?」
「そんなことしたら、」
「あ、そうだね。指に包帯巻いてみよう」
てんこくんを抱っこしたまま、昨晩も使った救急箱を取り出した。寝室のベッドに少年を降ろして両手の指にランダムで三本ずつ包帯を巻いていく。
蒸れるかもしれないけど許してほしい。
「これだけ巻いたら大丈夫でしょう。少し待ってて。ホットミルク作ってあげる」
「うん……」
ドアを開けたまま台所へ戻り、今日買ったばかりのてんこくんのマグカップに牛乳を注いで、温める。蜂蜜をとろりと入れて、よく混ぜて、……飲みたくなってきたから自分の分も作ろう。
ほわほわと控えめな湯気の立つ二つのカップを持っていく。
はい、と渡すと、やっぱりてんこくんは人差し指を浮かせるように受け取った。指に包帯をしてるから崩壊しないだろうに、癖になっているのか、癖にしているのか……
ふぅふぅずび、とちょっとずつ飲んでいる少年の姿に、そしてホットミルクの優しい甘さに、頬が緩む。
特に言葉を交わさなくても沈黙が痛くない。そう思っているのは私だけじゃないといい。
「……寝れそう?」
「……うん」
飲み終わった二人分のカップを片付けて戻ってきて、寝間着を取り出す。
一緒にお風呂に入ってはいるけれど配慮すべきかな?
リビングで着替えるとしよう。
「着替えてくるから、てんこくんも着替えてて?」
帰り道で寝てしまった彼の服装はそのままだった。今日買ってきたばかりのシンプルな寝間着を渡し、パタンとドアを閉めて着替える。
お風呂……また朝でいいか。
着替え終わって寝室のドアをノックをして、もういい?と声を掛ける。カチャ、と内側から開けられたドアにはてんこくんが立っていた。
「トイレ行ってくる……」
「ん、いってらっしゃい。あー、ごめんお風呂明日ね」
「うん」
時計を見ればそろそろ日付の変わる頃。
ふぅ、と息をついてベッドに腰かけ、てんこくんの帰りを待つ。しばらくすると戸惑い気味にこちらを窺う影が寝室の入り口にあらわれた。
「大丈夫だよ、おいで?」
手招きすると、恐る恐るといった感じでセミダブルのベッドに潜り込んで、もこもことした山ができた。
可愛くて可笑しくて、小さく笑いながら出ておいで、と声をかける。自分でも少し驚くぐらいそれは優しい声だった。
小さな山は私の方に向かってもぞもぞと移動してきて、ぷはっと顔を出し、久しぶりに新鮮な空気を吸う。
「おやすみ、てんこ君」
「おやすみ……なまえ」
てんこくんは照れくさそうな顔をして、おやすみを返してくれた。
この家と私が、この子にとって安心できる場所になることができれば良い。
小さな温もりを隣に感じながら瞼を閉じた。
prev / next