「葵」 名前を呼ばれて意識が浮上する。 すっかり眠りこけていたらしい。 「ご飯できたよ。起きられる?」 「……はい」 瞼をこすりながら、体を起こす。ベッドの脇にカカシ先生がたっていた。着替えたのか、暗い色の上下を着ている。ベッドから立ち上がろうとしてよろめいたら、体を支えてくれた。「すみません」たっぷり寝たはずなのに、疲れが出たのか体が重たい。「大丈夫?」と心配げに聞かれて、申し訳なくなる。 テーブルに並ぶ料理はどれも美味しそうだった。お味噌汁と焼き魚、ほうれん草のおひたしとあんかけ豆腐。煮物まである。 「これ全部カカシ先生が?」 「うん。口に合うと良いんだけど」 「すごく美味しそうです」 「……お前の腕には及ばないよ」 祖母に教え込まれたから、料理は嫌いでは無い。でも、私の作った料理をカカシ先生は食べたことがあるのかという疑問がわく。 「「いただきます」」 手を合わせて、一緒に食べ始める。温かいお味噌汁はきちんと出汁の味がして美味しかった。里芋の煮物も、中まで味が染みている。 「美味しい……」 「俺に料理を教えてくれた先生が良かったからね」 カカシ先生が優しく微笑む。その笑顔は、どこか寂しそうだった。 「……あの」 「ん?」 「先生はここで一人暮らし、ですか?」 「そうだよ」 焼き魚に箸を挿し込みながらカカシ先生が言う。今は覆面をしていないけれど、その表情から何を考えているかは読めない。 その次の質問をしていいのか少しだけ迷って、でも、思い切って聞いてみることにした。 「あの、付き合っている方は?」 「……いるよ」 カカシ先生の箸が止まり、視線がこちらに向けられる。藍と赤の二色の目が、無表情に私を見つめる。途端に空気が張り詰めたような気がして、どくん、と心臓が音を立てた。そんなこと聞いてどうするの、と思われているのだろうか。背筋に嫌な汗をかく。 カカシ先生は少し黙った後「……気になるの?」と言って、ふっと笑みを浮かべた。 笑ってくれた事に、酷く安心する。 「すみません、変なこと聞いて……。でも、泊めて貰うのが申し訳ないなと思って……」 「なんで?」 「だって、十歳下でも他の女を泊めるなんて……彼女さんに申し訳が立たないというか」 「あいつはそういう事気にする奴じゃないから、大丈夫」 そういってカカシ先生は表情を綻ばせた。 その優しい笑顔を見ていると、なぜだか胸がざわざわした。 「そう、ですか……」 カカシ先生の彼女さんは、どんな方なんだろう。なんとなく、目の前の先生に聞く気にはなれず、箸を動かす。 そういう事気にする奴じゃないから、とカカシ先生は言ったけれど、十歳も年下の私はきっと先生の年齢からしたら子どもでしかなくて。彼女さんが何歳の方かはわからないけど、そう気にすることじゃないのかもしれない。 何故かもやもやしながら、夕食を咀嚼する私を、カカシ先生は時折じっと見ているような気配がした。 ……でも。 本当の私は。この時代の私は、二十七歳のはずだ。 やっぱり、カカシ先生の彼女が知ったら嫌な気持ちになるのでは? 実のところ、少しだけ。本当に少しだけ、期待していたことがある。 部屋に飾られていた写真とか、サクラちゃんや綱手さんの言葉とか。ナルトくんの気遣う視線とかに。 私は勘違いしてしまっていた。 もしかして、カカシ先生と二十七歳の私は、付き合っていたんじゃ無いかって。 でも、もし付き合っているとしたら、さっきみたいな言い方はするだろうか。あいつはそういう事気にする奴じゃないから、なんて。 それに、もし私が先生の彼女だったなら、とっくに私にそう言っている気がする。付き合っていることを隠す理由が思い浮かばないし。 「難しい顔してどうしたの」 「へっ……あ、いや……何でも無いです」 かっこいいし、優しいし、そりゃあ彼女ぐらいいるよね。別に、がっかりしてるってわけじゃあないけど……。この箸だって、お茶碗だって、彼女さんのものなんだろうか、と思ったら、他人の私が使ってしまっていることが申し訳なくなってくる。何だか気詰まりなまま、食卓を囲む時間は過ぎていった。 「お風呂わいたよ」とカカシ先生に言われて、忍術書にむけていた顔をあげる。カカシ先生の本棚には沢山の本が並べられていて、その中に絵本のような装丁のものがあって気になり聞いてみたら、「読んでみる?」と渡されたのだ。「忍術の初歩」というタイトルで、子ども向けにかかれた易しい内容だけれど、立派な忍術書らしい。所々すり切れていて、相当古い本だという事がわかった。ずっと昔、少年の頃のカカシ先生もこれを読んだんだろうか。内容は、チャクラとは……から始まる、忍のイロハが書かれた物で、知識ゼロの私にはとても興味深く読めた。 「その腕じゃ髪も洗えないね」 「がんばればなんとか……」 「無理に動かしたら治りが悪くなる。俺が洗ってあげるから」 「……!?」 どういう意味ですか、と聞くよりもはやく、先生にまた背中を押された。 「いやいやいや、ちょっと待ってください」 「ん?」 「まさか一緒にお風呂に入る気ですか?」 「だって片手じゃ洗えないでしょ」 「そういう問題じゃ無くて。そりゃ、私はカカシ先生に取ったら子どもに見えるかも知れないですけど!」 十七歳ってそんなに子どもじゃないんだから!と噛みつきたくなる。子どもでも犬でも無いんだから軽々しく洗ってあげるなんて言わないでほしい。 「……服着たままで、頭だけ洗ってあげるから。体はなんとかがんばって」 「……!!」 あ、私また勘違いしただけ!? 一気に顔が赤くなる。恥ずかしくてカカシ先生の顔が見れない。 髪を洗って貰うのだって申し訳ないけれど、もはや返す言葉もなく、私は風呂場に連行された。 肘まで袖を捲って、ズボンも膝までまくったけれど、多少は服が濡れてしまいそうだ。そういえば着替えはどうしよう……と思っていると、考えを読んだように「着替えの服はあるから大丈夫」とカカシ先生が言った。 お湯が入らないように耳を優しく塞がれる。温かい湯を丁寧にかけられながら、目を閉じた。綱手さんに治療してもらったとはいえ、右腕はほとんどあがらないから、片手でシャンプーはやっぱり厳しかったと思う。体は、何とかなると思うけれど。 シャンプーを出す音がして、ふわりと花の香りがした。うっすら目を開けると紫がかったピンクのボトルが見える。何となく女性向けっぽいシャンプーだな、と思って、胸の奥がぎゅっとつかまれるような変な感じがした。カカシ先生の両手が私の髪を優しく泡立ててくれた。美容師でもない他人に髪を洗われるなんてはじめての経験だけれど、カカシ先生の指の力は強すぎず弱すぎずで心地良かった。夕飯の料理を見たときに器用な人なんだろうな、とは思ったけれど、人の髪を洗うのも上手なんだな。恋人の髪もこうして洗ってあげたりするんだろうか。 泡を流すときにもまた、耳をそっと塞がれて、身につけている服も殆ど濡れないように丁寧に流してくれた。トリートメントまでしてくれて、また流し終えて、乾いた柔らかいタオルで優しく水気を拭われる。 「終わったよ」 「ありがとうございます」 「……本当に体は自分で洗える?」 「あ、洗えますよ……!」 「ま!何かあったら呼んでよ」 にこっと笑って、カカシ先生は部屋に戻っていった。 冗談なのか本気なのかわからないけれど、心臓に悪い。苦戦しつつも何とか片手で服を脱ぎ、脱衣所に置くと、私は体を流し始めた。 お風呂からあがると、いつの間にか着替えが用意されていた。私がお風呂に入っている間、音も立てずに脱衣所にきたんだろうか。さすが忍。 淡い紫色のパジャマは、どうみても女の人用で。綺麗に洗濯はされているけれど、きっとカカシ先生の恋人のものだ、と思うとかなり微妙な気持ちになりつつも、裸で部屋に戻るわけにもいかず着ることにした。……ていうか、パンツまである!!さすがにそれは嫌だ。 けれど、私がさっきまで身につけていた服はすでに持ち去られていた。もう洗濯されちゃってたり? とりあえず下着なしでパジャマだけ着るか……?いや、それもどうなんだろう。 悩んだ結果、「カカシ先生ー?」と先生を呼んでみる。ドアの向こうで足音がして、「どーしたの?」と先生の声がした。さすがにドアは開かなくてほっとする。 「あの、着替えを用意して頂けたのは嬉しいのですが……さすがに他人の下着を履くのは……。私がさっき着てたやつって、もう洗濯かけてくれてたりします?」 「ああ、」 カカシ先生は納得したように声をあげた。 「それ全部、葵のだから大丈夫だよ」 「え?」 「パジャマもパンツもお前のだから、安心して?」 「……」 それって。 「それだけ?」 「え、……あ、はい」 「はやく着替えてこっち来なさい。包帯巻き直してやるから」 カカシ先生の足音が遠ざかる。 何で私のパジャマやパンツがカカシ先生の家にあるんですか。そう聞けばよかったのに、驚きすぎて聞くタイミングを逃してしまい、私は手に持ったままのパジャマを見つめた。……やっぱりカカシ先生の彼女って。悶々としながら、片手で苦戦しつつも服を着て、脱衣所を出た。 カカシ先生は本を読みながらソファーに座って寛いでいた。脇にはドライヤーがある。手招きされて隣に座ると、頭に載せたままだったタオルで、くしゃくしゃと髪を拭かれる。「……」先生と私は、付き合ってたんですか。一言聞いてみればいいだけなのに、聞けずにうつむく私の顔は、きっと赤くなっている。私にとっては、今日であったばかりの人なのに。カカシ先生の優しくて、それでいて掴み所の無い雰囲気に、私はすでに惹かれはじめている。……もしこの人が私の恋人だったら。 先生は当たり前のように私の髪を乾かしてくれた。温風を吹きかけられながら、髪を梳く指は洗ってくれた時みたいに優しい。こんな風に丁寧に私に触れるのは、私が先生の……彼女だから? どうしてカカシ先生はなにも言わないんだろう。恋人が妙な術をかけられて、十歳も若返ったら、困惑はするだろうけれど。他人になったわけじゃないんだし。『俺はお前の恋人だよ』って、言わないものかなぁ? 「なーに膨れっ面してんの」 いつの間にか顔をのぞき込まれていた。膨れてたのか私。くすくすと笑うカカシ先生はとても優しい表情をしている。 「カカシ」 「え……?」 「って呼んでたんですか。私は」 「……ああ、そうだね」 ふ、と微笑む先生は、それ以上何も言わない。 「先生にとって私は」 「……うん?」 「何だったんですか」 真っ直ぐにカカシ先生の目を見つめてみる。その目は静かに私を見返している。 何も言わないカカシ先生に苛々して、さらに尋ねた。 「私のことどう思ってたんですか?……私はあなたのことを、どう思ってたんですか」 「……大切だった」 掠れた声で先生が言った。 「俺はお前が大切だったよ。葵。……何よりも」 不意に抱き締められた。 心臓がどきどきと脈を打つ。 先生が呼吸をする度に、温かい息が耳を掠めた。 優しく抱擁されたまま、静かな時間がすぎる。 やがて、そっと離れた熱に、寂しさがこみ上げた。 「……質問の答えになったかな」 そう言って笑うカカシ先生は、やっぱり酷く寂しそうで。 どうしてそんな泣きそうな顔で笑うの……? 『大切だったよ』 過去形で言われた意味も、二十七歳の私がカカシ先生をどう思っていたのかも。それ以上、聞き出せなくて。 「包帯取ってくるね」 逃げるように立ち上がった先生に、私は何も言えなかった。 |