風が窓を揺らす音がしたような気がして、重い瞼を上げた。見覚えのある無機質な天井が視界にうつる。いつもの病院だ。室内の暗さからすると今は夜だろう。 酷い痛みを感じる。胸と肋骨と左足が鉛のように重く痺れ、鈍い熱を帯びている。呼吸をする度に、締め付けられるような不快感を胸に感じ、少し深く切られたな、と任務の事を思い出した。寝返りを打つことも出来ない倦怠感に、舌打ちをしたくなる。 左手だけが、柔らかな温もりに包まれていた。いつまでも触れていたいと思う、その温かな手が、誰のものなのかは見なくてもわかる。握り返そうと指先に力をこめた。 苦労して首を動かし、左側に視線をやると、葵がいつかのように、傍らの椅子に座って、俺の手を握ったまま布団に突っ伏していた。その姿を見ただけで、体に力が戻るような気がする。名前を呼ぼうと口を開くが、掠れた息が漏れるだけだった。 チャクラ切れはいつもの事だが、今回は大分血を流しすぎた。致命傷は避けたつもりでも、全身の神経は無事繋がったままだろうかと少し不安になる。 両手の指先、左足のつま先、右足のつま先と、順に動かしていった。四肢は無事のようだ。ぼんやりと視線を巡らす。ぽたぽたと落ちる点滴の雫に、月の光が反射している。 「……葵」 もう一度名前を呼んでみると、大分掠れてはいるが今度はちゃんと声が出た。けほけほと何度か咳をして、大きく息を吸う。眠る彼女を起こしてでも、帰ってきたよ、と伝えたかった。その目に俺を映して、名前を呼んでほしかった。 想いが通じたのか、葵が小さな声を漏らしながら、ゆっくりと頭を起こす。眠たげに何度か瞬きをしたあと、起きている俺に気がついて、はっとした様子でこちらを向いた。 「カカシ先生……!!」 「ただいま」 微笑む俺とは対照的に、葵は瞬時に顔を歪ませた。怒るときのように唇を固く引き結んで、眉根を寄せたかと思うと、みるみる大きな目に涙が溜まり、肩が震える。葵、ともう一度呼ぶよりも先に、大粒の涙が零れ出した。拭うこともせず、ぼろぼろと涙を流している彼女を見て、堪らなくなる。 「心配掛けてごめん……」 声を掛ければ、葵はしゃくりあげるように声をあげて泣き出した。いますぐ抱き締めたいのに、役立たずの体は動かない。両手で顔を覆う葵をただ見つめるしか出来なくて、もどかしかった。 「葵、こっちきて。お願い」 涙を拭いながら、葵は素直にこちらへ近寄ってくれた。なんとか腕を持ち上げて、葵の頭をそっと撫でる。 「ごめんね。……許してくれる?」 不安になってそんな事を聞いてしまう情けない俺に、葵は黙って頷いた。 「せんせい……おかえりなさい」 葵の頭を引き寄せて、涙で濡れた唇にキスをする。少しだけしょっぱくて熱い小さな唇。 いつも、葵は笑って俺を許してくれた。 俺はずっとそれに甘え続けていた。心配ばかりかけて、葵が俺に見えないところで泣いていたことも知っていたのに。そうして甘え続けた結果、俺は彼女に愛想を尽かされた。 「いつも、許してくれてありがとう」 「……」 「……葵。ずっと俺の側に居てほしい」 「……!」 葵が辛そうに顔をゆがめた。途端に不安になって、心臓がどきりと嫌な音をたてる。 「先生、言う相手を間違えてます……」 「間違えてないよ?」 「それは……本当に、カカシ先生が好きだった私に言ってあげてください。二十七歳の私に」 「いくつになっても葵は葵だって、前にも言ったでしょ」 葵は力なく首をふるだけだった。それ以上何も言わずに、俺を静かに見つめる。 「そばにいてくれないの?」 「いいえ。……私はずっとそばにいますよ」 葵は小さく微笑んで、俺の頭を優しく撫でる。まるで幼子にするように。 そのうちに、抗いがたい眠気に襲われた。閉じようとする瞼の向こうで、葵は微笑んでくれていたのに、どうしようもなく、不安になって。 「葵……」 「大丈夫。目が覚めるまでは側にいますから」 目が覚めるまでは……。 ちりちりとした不安は消えない。 痛みと眠気で、混濁した意識のなかで、葵の言葉の意味を考えていた。 カカシ先生の退院の日、通い慣れた病室へ迎えに行くと、もう先生はいつもの忍服に着替えていた。 「思ったより早く退院できて良かったよ」 「まだ本調子じゃないんですから、無理はしないでくださいね」 「……うん」 カカシ先生は微笑んで、私の頭をくしゃりと撫でる。 先生が元気になって良かった。けれど頭の中では、嬉しさと寂しさがない交ぜになって、複雑だった。 「今日の服、可愛い」 「ありがとうございます」 二十七歳の私は、この服を着て先生に会った事が無かったのかな。確かにまだ、真新しい感じがした。海の青をそのまま染め抜いたみたいな色の、シンプルなワンピース。目が覚めるような青が、今のもやもやした気持ちを払拭してくれるような気がして、これを選んだ。 荷物を一緒に持って、並んでカカシ先生の家へと向かう。先生が入院している間も、私は相変わらず先生の部屋で暮らしていた。『俺んちの方が慣れてるでしょ』と先生に言って貰えたので、一人でいる間は、部屋をきちんと掃除して、綺麗に保っていた。 「ただいまー」 勝手知ったるカカシ先生の部屋に、先に上がり込んで靴を脱ぎながら、いつものくせでそう言ってしまった。私がただいまっていうのはおかしいのだけれど、一人の時も言ってしまっている。カカシ先生を見上げたら、先生は笑って「ただいま」と言った。 「カカシ先生おかえりなさい」 笑い返してそう言うと、カカシ先生の顔が近づいてきた。先生は口布を下ろして、私にキスをする。カカシ先生にキスをされると私はいつも、とても幸せな気持ちになれる。同時に今は、少し切ない。 先生のためにブラックコーヒーを、自分のためにカフェラテを入れて部屋へ戻る。ピンクとブルーのマグカップは、十年後の私が選んだものらしい。道理で私の好きなデザインだった。 「せんせ、コーヒー入れましたよ」 「うん、ありがとう」 テーブルにカップを置いて、寝室にいるカカシ先生に声をかけた。 カカシ先生はすぐにこっちの部屋にきて、椅子に座るのかと思ったら、そのまま私の背後に回って、いきなり私を抱き締めた。 「……葵。ただいま」 耳元でただいまをもう一度言われて、胸がきゅうと痛くなる。 「おかえりなさい、カカシ先生」 私ももう一度、先生におかえりを言った。おかえりなさい、と言えることの幸せをかみしめながら。お腹にまわされたカカシ先生の腕にそっと触れる。 「葵、目ー閉じて」 「……え?」 「いいから」 素直に目を閉じると、先生に左手をとられた。 左の薬指に、するりと何かが填められる。 びっくりして、目を開けた。 銀色に光り輝く、細身の指輪がはめられた自分の手を、信じられない想いで見つめる。 「俺と結婚してください」 「……!」 驚いて振り向く。私を見つめるカカシ先生の眼が、とても優しくて。 これ以上の幸せはもう、望めないなぁと思った。 「カカシ先生……ありがとう」 泣いたらだめだ。 泣いたら先生は困る。 そう思って、笑おうとする。私は上手く、笑えているだろうか。 「葵……?」 カカシ先生が困った顔をする。 ああだめだ。視界がぼやけてきた。 「カカシ先生、好きです」 もうそれしか、言えなかった。それ以外に今、浮かんでくる言葉なんてない。 「好きだよ、葵」 先生の言葉も、表情も全て、忘れたくないから、心に焼き付ける。 「先生。これ……ぶかぶかです」 銀色の指輪はゆるゆるで、左手をかざして私は、泣きながら笑った。 カカシ先生もつられて困り笑いをする。 「ありがとう……」 最後にとても幸せな記憶をくれて、 十七歳の私に、大切な思い出をくれて、ありがとう。 「この指輪、もう一度私にくれますか?」 「……え?」 「黙っててごめんなさい。私が元に戻る術は、もう完成しているんです」 「……!」 先生が退院するまでは黙っていてほしいと、綱手さんに願い出たのは私だった。 カカシ先生が元気になってから、きちんとお別れが言いたかった。 それに、先生にどうしても聞きたかった事がある。 「カカシ先生は、二十七歳の私が長期任務に志願するつもりだと聞いた時、私を止めなかったんですか?」 「……止めたつもりだったけど、はっきりとは、言わなかったかな」 「……どこにも行くなって。言わなかったんですか?」 先生は少しだけ狼狽えた。やがて、決心したように口を開く。 「……言わなかった。いや、言えなかったんだ」 「……どうして?」 「みっともなく縋り付いて、葵に嫌われるのが怖かった」 「……私がカカシ先生を嫌いになる訳、無いじゃないですか」 先生の両手を、包み込むように握る。 「カカシ先生。私は、元に戻ります」 はっとしたように目を見開く先生を、真っ直ぐに見つめた。 「カカシ先生が愛してくれた私を、先生に返します……だから」 名残惜しいけれど、そっと指輪を外した。小さな石のついた銀の指輪を、先生の掌に返して、握らせる。 「……本当の私に戻ったら、もう一度これを渡してください」 これで最後と決めて、つま先立ちになって、カカシ先生にキスをした。 一瞬だけ触れあった唇と唇が、離れる。 目を開けるとカカシ先生は、涙を堪えるように眉を寄せていた。 「悲しそうな顔しないで」 私が笑っても、先生は複雑な表情のまま、何も言わない。 「私……消えて無くなるわけじゃ無いんですよね?」 本当言うと、少しだけ怖かった。 綱手さんは『今のお前の記憶は一時的にしまいこまれても、二十七歳のお前の中から、完全に消えて無くなるわけじゃない……はずだ。わからない事が多い術だが……以前似たような術にかかったヤツがいてな。そいつは結局、若返っていたときの記憶を思い出したようだ』と言っていた。 今回の術もそうだといいな、と思うけれど、どうなるのかはわからない。 「……ああ。消えないよ。例えお前が全てを忘れても……俺は絶対に忘れない」 カカシ先生はそう言って、私の事を包み込むように抱き締めた。 それだけで、充分だった。 未来の私がどんな選択をしたとしても。私がカカシ先生を愛しているという事は、きっと変わらないはずだ。 「でもどうして……元に戻ると決めたんだ?」 先生からしたら、元になんか戻りたくないと泣いていた私が、どうして元に戻ると決めたのか、不思議なのだろう。 「カカシ先生の隣に立ち続ける忍になりたいからです」 きっぱりと言って、私は笑った。もう、迷わない。 |