14


背嚢をしょってアパートを出た。激しい雨が地面を叩きつけ、辺りは白く煙っている。軒下で傘を差そうとしていると、「どこに行くの」と声をかけられた。

「カカシ先生!」

いつの間にか目の前に、ずぶ濡れのカカシ先生が傘も差さずに立っている。
「先生、家に帰らなかったんですか?」
「帰ったよ」
先生は一歩こちらに近づいて、暗い目で私を見下ろしている。急に緊迫した空気を感じて、唾を飲み込んだ。
「……どこ行くの」
感情の乗らない静かな声で、問われる。それでいて先生の目だけは何だか鋭くて、見つめ合ったまま逸らすことが出来ない。
背負っている荷物のせいで先生はそんな事を聞くのだ、と思い至る。
「夏服を取りに家に寄っただけで……すぐ先生のとこに帰るつもりだったんです」
「……」
「心配掛けてごめんなさい……」

大きな溜息をついて、カカシ先生が目を閉じる。
「なんだ。……帰ったら葵がいないからびっくりしたよ」
そう言って先生は、力なく笑った。
緊張した空気がとけて、ほっと息をつく。
がばり、と音を立てそうな勢いで、先生に抱き締められた。
持っていた傘が地面に落ちる。

「カカシ先生……」
「どこにも行くな」

言葉と裏腹に、私を抱き締める先生の腕の力は、ひどく弱々しかった。
濡れた先生の体は冷たくて、抱き締め返しても温かくならない。
一度家に帰ったのに、傘も持たずに私を探してくれたんだ。
きっとものすごく心配をかけた。

「先生……ごめん」
「……」
「私は、どこにも行きません」

ぎゅっと先生を抱き締める腕に力を込める。先生は何も言わず黙っている。
私の頭の中には、あの四つ折りの紙の内容が浮かんでいた。

カカシ先生はいつも、二十七歳の私を思い出すとき、どこか寂しそうだった。

『俺はお前が大切だったよ。葵。……何よりも』

はじめて先生に抱き締められたとき、先生に言われた言葉を思い出す。あの時も、先生は酷く寂しそうに微笑んでいた。見ているだけで悲しくなるような笑顔で。

「カカシ先生……」
「ん?」
「未来の私は……先生を置いてこの里を出て行こうとしていたんですか?」
「……」
「部屋で、長期任務の募集要項を見つけました」

体を離して、カカシ先生の顔を見上げた。先生の右目に、動揺が浮かんでいる。

「……そうだよ」

絞り出すように、先生は言った。

「お前は、紛争地帯の監視任務に志願すると言っていた。無事に帰れる保証も無い任務だから……別れてくれてもいいと、言われた」


焼けるような胸の痛みが瞬間的にわいて、ああ、私は物凄く怒っているんだ、と自覚した。
もちろん、未来の自分に対してだ。

未来の私はカカシ先生を傷つけた。


「先生、ごめんなさい」
「……お前が謝ることじゃない」
「私は何でそんな事を……」
「ごめんね。……お前が何を考えていたのか、俺はわかってやれなかった。気づいてやれなかった」

懺悔する先生の言葉が痛い。耳を塞いでしまいたくなる。

「謝らないでください」
「……」
「先生にそんな顔させて、私は……私が許せません」
「葵」

泣いている場合じゃ無いのに、怒りで涙が出てきた。
先生が困った顔をしているのに。泣きたいのは、傷ついているのは、私じゃ無いのに。

「黙ってて悪かった。そういうわけだから、俺とお前が付き合っていて、別れてないというのは、半分嘘みたいなものだったんだ」
「そんなこと言わないでください……」

先生から感じる愛情は、嘘なんかじゃ無かった。私はいつも、ちゃんと先生に愛されているって感じることができていた。

「先生、私、元になんか戻りたくない……」
ぼろぼろと涙が出てきて、悔しくて、みっともないけれど、先生の目を真っ直ぐ見ながら私は正直に言ってしまった。先生はやっぱり困った顔をしている。

「私はカカシ先生をひとりになんかしない。先生が好きです。私がずっと先生の側に居ます」

ほとんど体当たりするような勢いで、カカシ先生を抱き締める。
少し間を置いて、先生が私の背中をなだめるように撫でた。
どこまでも子どもな自分が嫌になるけれど、それでも。
大人の私なんかより、今の私の方が絶対に先生の事を大切にできる。
根拠も無いのに、この時の私はそう思っていた。未来の自分が何を考えていたのかなんて、わからないままで。





















三日後に戻るといって先生が任務に出てから、今日でもう六日目だ。
忍の世界では、想定されていた日数ぴったりに任務が終わらないことも多々あるという。
「カカシ先生は何だかんだしぶとい人だから、大丈夫ですよ」
サクラちゃんは、引きこもる私を心配してよく顔を出してくれた。
ここ数日、雨ばかり降っている事もあって、修行はお休みしている。
病院勤務も、一昨日から休みにして貰った。
『俺の部屋で待ってて』と言って先生は出かけていった。だから私は自分の部屋には帰らず、カカシ先生の部屋で帰りを待っている。
先生は絶対に帰ってくる、と信じているけれど、雨の音を聞きながら一人で部屋に籠もっていると、どうしても気分は鬱々としてしまった。

温かいお茶でも飲もう、と立ち上がったとき、地面がぐらりと揺れた。
えっと思っていると、カタカタと家鳴りがするほど、大きく揺れている。……地震だ。
幸い立っていられない程の大きさでは無かったけれど、棚から何冊か本が落ちてしまった。

揺れが収まってから、本を拾って棚に戻す。他にも落ちた物はないだろうかと、部屋を見渡していると、カカシ先生の机の引き出しが半分開いてしまっている事に気づいた。引き出しを閉じようとして中を見て、……包装された四角い箱に目がとまる。
青いシルクのリボンが掛けられた小さな箱が、むき出しで引き出しの中に収まっていた。ドクンと心臓が音をたてる。

勝手に触ってはいけない、と頭では思うけれど、どうしても気になって、箱をそっと持ち上げてみる。リボンの様子を見る限り、一度も開けられた形跡が無い。よく見ると、リボンと箱の間に小さなメッセージカードが挟まれていた。

『葵へ』

カードにはそれだけしか書かれていない。続きを書こうとして辞めたのか、これだけ書いてわたすつもりだったのかは、わからない。確かなことは、この箱は、カカシ先生から未来の私へ渡される物だったという事だけだった。箱の大きさからして中身はきっと……。

「……っ」

わかっていたはずだった。
カカシ先生が未来の『私』をどれほど大切に思ってくれていたのかを。
それなのに、涙が出てきて、止まらなかった。

先生が、どんな気持ちでこれを選んで、渡そうとしてくれたのか、私にはわからないし、知る権利も無い事だ。
この箱を受け取る事ができたのは、未来の『私』だけだった。
それなのに、この箱はここにある。『私』は先生の気持ちを受け取らなかったんだろうか。

この箱を、未来の私が見たかどうかもわからない。
もし見ていたら、先生に『別れてくれてもいい』なんて、言わなかったのかもしれない。


コンコン、とドアを叩く音がする。誰だろう、と思って涙を拭って、玄関に向かった。
ノックするくらいだからカカシ先生ではないという事はわかっていた。
ドアを開けると、ナルトくんが青ざめた顔で立っていた。

「葵ねーちゃん、カカシ先生が……」

激しい雨の音がノイズのように響き渡る。




















病室は薄暗く、相変わらず窓を雨が叩いていた。ベッドに横たわるカカシ先生は蒼白な顔色をして眠っている。呼吸が穏やかな事だけが救いだった。

長引いた任務で、カカシ先生は左目を……写輪眼と呼ばれる赤い目を使いすぎて、チャクラ切れを起こしたらしい。加えて仲間を庇って胸に傷を負い、結構危ない状態で病院に運ばれてきたという事だった。今日私が救急室に詰めていれば、運ばれてきたカカシ先生の処置ができたかもしれない。けれど私は、冷静に先生の治療が出来ただろうか。

手術は無事に終わって、カカシ先生は昏昏と眠っていた。こうして先生が寝込むことは初めてでは無いらしい。カカシ先生の左目は、本来先生が持つはずの無い特殊な眼だそうで、先生の体で使いこなす事が出来るのが、そもそも奇跡みたいなもので、体には大きな負担がかかり、チャクラの消費も激しいのだそうだ。

『あんまり心配するな。すぐにまた起き上がれるようになるさ』

先ほどまで部屋にいた綱手さんは、そう言って私の頭を撫でてくれた。ナルトくんとサクラちゃんもさっきまで病室にいてくれたのだけれど、私に気を遣ってか、「また明日きます」と綱手さんと一緒に帰って行った。

カカシ先生の頬に手を当ててみる。少し硬い皮膚はざらついて、温度を感じなかった。胸の奥がつきりと痛む。
突然、背後でドアが開く音がした。

「葵か?」

はっとして振り返る。白髪の大柄な男が立っていた。五十代くらいだろうか、両目の下の赤いペイントと全体的な雰囲気が、どことなく歌舞伎役者を思わせる。

「……んん?ちょっと前に見た時より、痩せたか?」
「あの……あなたは……」
どうやら知り合いらしい、と思いつつ、困惑していると、その人は私に近づいてきて、じーっと上から下まで舐めるように見てきた。
「もっとこう……むちっと……ぼいんとしてたはずだったがのォ……」
「なっ……」
身振り手振りまじえながら『ぼいん』を表現されて、顔が赤くなる。なんなんだこの人は、と身を竦めている私にかまわず、その人の視線はカカシ先生に移動した。

「ナルトの事で用があったんだが、コイツは本当に良くぶっ倒れとるな……」
まだまだだのォ……と言いながら、その人は溜息をついた。

「それにしても……」
いきなりずずっと顔を近づけられて、びっくりして後ずさりする。
「随分と妙な術をかけられておるようだが、記憶はあるのか?」
私が術を受けて若返っているという事に、この人はちゃんと気づいていたんだ……。私はぶんぶんと首を横に振った。
「そうか……ならワシの事も覚えとらんのだろうのォ」
「は、はい……あなたは一体」
「よくぞ聞いた!怒りに溢れた血の涙ァ!三忍語りて仙人に!妙木山の蝦蟇妖怪!!自来也様たァ〜、このワシのことよ!!」
「……は、はぁ」
いきなり歌舞伎役者のように大見得をきられて困惑する私をみて、自来也様、はカッカッカと大笑いをした。


「ほォ……綱手が解術に手こずっとるのか……」
顎に手を当てながら、自来也様はうんうんと考える表情をしている。
火影である綱手さんを呼び捨てだし、さっき三忍と言っていたような気もする。たしか三忍って綱手さんを含む、すっごい忍の事だったはず。

「そういえば、さっき、ちょっと前に私を見たっておっしゃってましたよね」
「ん?あぁ。何日前だったかのう……。火影岩の前をふらついてたら、同じようにふらふらしとるお前に会った」
「……その時私とは、どんな話を?」
何となく聞いてみると、自来也様は、「こいつの話だ」とカカシ先生を顎で指す。

「コイツは仲間を守る為に、大分無茶をするところがあるからの……お前にも心配ばっかりかけてたんだろうのォ」

青ざめた顔色のまま、眠り続けているカカシ先生を見つめる。

「カカシ先生がこんな風になるのは……今までにも何度も、あったんですね」
「ぶはっ…!お前、カカシ先生なんて呼んどるのか。恋人同士だったってのに!」
「……」
笑われて憮然とする私に、自来也様はすまんすまん…と言いながら、続きを話した。

「カカシは昔……戦争で仲間を亡くしてるからのォ。そいつはカカシの命を守って死んだ。カカシの左目は、その親友の忘れ形見だ」
絶句していると、自来也様は更に続けた。
「カカシが少年だった頃に所属していた班のチームメイトは、全員もう死んでいる。友も、師も、全員な……。この忍の世界じゃ、そんな境遇は珍しくもないが、カカシの子供の頃は特に、時代が悪かった……」
話を聞きながら、私の脳裏には、カカシ先生の部屋にある写真が浮かんでいた。
金髪の先生と、ゴーグルをした男の子と、聡明そうな女の子。先生も戦争で大切な人たちを失ったんだ。

『……ひとりになんかしないよ』
『え……』
『いや。ひとりになりたくないのは俺の方か』

星月夜の屋上で、先生とした会話を思い出す。


「カカシは、過去の経験から、仲間を大切にする事を何よりも大切にしてるんだろうのォ。……だが、惚れた女を泣かせてるようじゃ、まだまだこいつもヒヨッコだ」
「……私は。二十七歳の私は、カカシ先生を隣で支え続けたかったんじゃ、ないんでしょうか」
「ん?……何故そう思うのか事情は知らんが……ワシの知る限り、お前はいつも、カカシの事を大切に思っていた。……カカシには勿体ないくらい健気にな」
「……」
「側に居るだけが支えることじゃ無い、って事かのォ」
「……!」

自来也様は、私が何を考えていたのか知っているんじゃないだろうか。

「この前葵に会った時、ワシはお前に言った。カカシは……将来火影になる器の男だと」
「……火影」
「こいつは四代目火影の弟子であり、三代目火影を長年にわたって第一線で支えた。ワシや綱手が留守の間もずっとな……。綱手も一目置いているだろうし。……まぁ、このワシの孫弟子でもあるしのォ。
それに、カカシは火影になる者が必ず持ちあわせている、一番大事な資質を持っている。……ま、綱手があの席を譲るのは、まだまだ先の事だろうがの!」
自来也様はまた、カカカッと豪快に笑った。

カカシ先生は将来火影になる器……。

火影は里の長。木ノ葉隠れで一番の忍。
皆から実力と人望を認められた忍だけが、火影になれる。


『オレってばぜってー火影になるんだ!そんで、皆にオレの事を認めさせてやるんだってばよ!』


目をキラキラさせて、火影への憧れを語っていたナルトくんを思い出した。



いつかカカシ先生は火影になる可能性がある人で。
そんな先生を、側で支え続けるためには、どうすればいいんだろう。
その時私は、どうなっていたらいいのだろう。


そこまで考えたとき、
二十七歳の私が何を考えていたのか、ふっとわかった気がした。


同時に私は、いつまでもこのままじゃいられないって事にも、気づいてしまった。

カカシ先生を側で支える『忍』になるためには、
……十七歳からやり直してる場合じゃないんだって事に。




『先生の隣で、先生を助けられるような忍びに、なりたかったのかも』


私の推測は正しかった。先生の隣に立ち続けるために、私は……。




その夜、綱手さんに呼び出された私は、
二十七歳の私へ戻る術が完成したことを知らされたんだ。


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