8



ベッドもソファも本棚も。葵の部屋を形作っていた物という物が無くなったそこは、がらりと殺風景で。部屋の隅に積まれた段ボールは、いつでも運び出せるように封をされていた。葵の言葉を疑っていたわけでは無い。だが、部屋の様子を見て改めて、彼女の決意の固さを思い知った。

「カカシ先生……?」

心配そうにこちらの様子を伺う十七歳の葵によって現実に引き戻される。取り繕うように「何でもないよ」と言いながらも、嫌な動悸は収まらなかった。ふいに葵に左手を握られる。小さくて柔らかくて、暖かな葵の手は、冷え切った俺の手とは対照的で、その手から伝わる温もりが酷く優しかった。沈んでいきそうになる自分を繋ぎ止めてくれている。


布団と共にまだ部屋にあるままの小さなテーブルに、写真立てと本が一冊残されている。葵が俺の誕生日を祝ってくれた時に撮った写真だ。

一緒に居るだけで、幸せだった。このままずっと隣にいれたらと思っていた。
今朝、十七歳の葵に『別れたんですか』と聞かれた時。つい先日、二十七歳の葵に言われた言葉を思い出した。
『別れてくれてもいい』
言われた瞬間は頭を殴られたみたいな衝撃と怒りが沸いて、冷静ではいられなかった。葵を手放すつもりも、行かせるつもりも無かった。だが、この部屋を見る限り葵は本気で、決意を固めた上で俺に話したのだと気づいた。彼女はこの里を出て行こうとしている。

色違いの栞を持っていることは知らなかった。付き合う前に彼女から貰った和柄の栞を今でも大切に使っている事に気づかれて、「カカシは物持ちが良いねぇ」と、半分呆れながら、でも嬉しそうに笑っていた葵を思い出す。葵はこの栞と写真は、捨てずに持って行くつもりだったんだろうか。それとも、捨てるつもりだったのか。不思議そうに本を眺めている今の葵には、それを聞くことは出来ない。







出会った時から葵は真面目な性格で、任務に対しても誠実に取り組むタイプだった。木ノ葉で生まれ育ったわけでもなければ、親が忍だったわけでもなく、成人してから忍として生きていく事を決めたのだから、その覚悟は相当な物だったのだろう。元々の資質もあったのだろうけれど、そのひたむきさで彼女は一足飛びに特上にのぼりつめ、医療忍者として日々の任務に邁進していた。
それを差し引いても、最近の葵の様子は異常だった。まさに身を粉にする勢いで任務をこなしていた。たまに数名の任務で顔を合わせる事もあったがほとんど任務外のことは話せず、最近ではそれすらもなくなり、彼女と会えないすれ違いの生活が続いた。待機所にもそうそう顔を出さないし、家にいってみても気配を感じることが無く、俺の部屋にもめっきり顔を出さなくなった。

「はーーーーー……」
「なんだ、溜息ついて鬱陶しいな」

返事をするのも面倒くさく、椅子に沈み込む俺を、アスマは笑った。二人で居酒屋に来ている。

「葵の事か?最近あいつ、随分と任務に打ち込んでるらしいが……」
「恋人の存在も忘れるほどにね……」
「その様子だと大分会ってないみたいだな」

葵の動向を人づてに聞くくらいで、顔も見れない日々が続いていた。俺もだてに上忍をやっているわけではないので、それなりに忙しく働いては居るのだが、それにしても、以前は週に1〜2日は共に過ごす時間がとれていたし、どちらかが里外任務に出ていなければ毎日のように里内で顔を合わせていたし、どちらかの家で夕飯を摂ることも多かった。こんなにも葵に会えない日が続くのは付き合ってから初めての事で……顔も見られず声も聞けず、当然任務に打ち込む理由を聞く事もできないまま、気づけば数週間が経過していた。

「やっぱり俺、避けられてるのかな……」
「今頃気づいたのか?」
「……!アスマは何か知ってるのか?」
「いいや、知らねーけど。俺はこの前あいつとすれ違ったぞ」
「!?」

掴みかかる勢いでアスマに、葵の様子はどうだったかと詰め寄る。

「忙しいのは本当だろう。大分消耗した顔をしていたしな。何でそんなに任務に打ち込んでるんだ、カカシとは会ってるのか?って聞いたら、しばらく会えてない、とだけ言ってたが」
「それだけ?」
「それだけだ。……またすぐに別の任務に招集されて、出てっちまったからな」
「……」

氷が溶けて薄まった酒を飲み下す。不味い。葵は今夜も任務だろうか。

綱手様には先日、「随分と葵に仕事を振りすぎなんじゃないですか」と噛みついて、「こちらから振り分けている任務の量は以前と変わってないよ。あいつが自分で受ける事を決めた任務が多くなっているんだろう。葵が忙しくしているのは、あいつの意思さ」ときっぱり言い返された。言われなくてもわかっていたが、綱手様なら何か知っているのではと探りを入れたのだ。

「私もあいつの様子は気になっていた。あんまり無理をして詰め込んでも、ひとつひとつの任務がおざなりになって、命取りのミスを引き起こしかねないとも言ったさ。そこは葵も理解しているようで、自分の限界ギリギリを見定めて、仕事を組んでる様ではあった。もちろん、適度に休めとも言ったが。あいつも馬鹿じゃ無い、ちゃんと休むべき時には休んでいるよ。……お前が任務に出てる時なのかもしれないが」

呆然としていると、綱手様が労るような表情を浮かべて続ける。

「喧嘩したってわけじゃないのかい。……あいつも色々悩んでるんだろう」

葵は何を悩んでいるんですかとは、情けなくてさすがに聞けず、黙って頭を下げて火影室を辞した。


「……情けないことに何にも心当たりが無いんだよね」
冷めてしまった魚の塩焼きを箸で突きながら言う。
アスマは白煙を吐きながら、「紅も何も聞いてないみたいだからな……」と唯一の頼みの可能性を消し去った。

合鍵もあるし、その気になれば葵を捕まえることはいつでも出来た。結局の所、彼女に拒絶されるのが怖かったのだ。葵が何かを思って任務に打ち込んでいるのなら、それを邪魔する権利など、俺には無いんじゃないだろうか。会えなくて寂しいなどという理由で。……葵は別に俺に会えなくても大丈夫なのだろうという事実が、臆病をさらに加速させた。

「……ぶつかっちまえよ」
「え?」
「男ならうじうじ悩んでねーで、あいつとっ捕まえて、どうしたんだって一言聞きゃあいい」
「……そう、なんだけど」
なおも味のしない酒をちびちび飲んでいると、アスマに力強く背中を叩かれて、激しくむせる。
「一緒に住まないのか?」
「……」
それはずっと考えていた。こんなに葵に会えなくなる前は、お互いに相手の部屋に泊まったりもしていて、ほとんど同棲状態ではあったのだが。
一緒に住むのなら、それだけではなく、葵とちゃんと一緒になりたいと思っていた。実はもう、渡したい物も選んである。

「明日買いに行こうかな」
「お?何をだ?」
「アスマついてきてよ。そのままだと微妙だから葵に変化してちょーだい」
「は?」
「サイズは指示するから、指の先まで正確に宜しく」

酔っていたからなのか、アスマに背中を叩かれたからなのか、葵に会えないストレスがそうさせたのか……。今となってはわからないが、臆病ものであるはずの俺は、その時一歩を踏み出す決意をした。そうして、翌朝約束を覚えていたアスマによって家のドアを叩かれて、二日酔いの頭を抱えながら、もう逃げないことを再び決意したのだ。






久しぶりに葵に会うことが出来たのは、翌日に七班の任務を控えた晩だった。明日になれば任務で会えることはわかっていたが、その前に二人で話したいと思い、葵を探していると、待機所の前でようやくその姿をみつけた。「話があるから、今夜カカシの家に行っていい?」と言われた時、あんな事を言われるとは全く思っていなかった。その時の俺は、どうやってあれを渡すか、そればかり考えていて、彼女の表情を読むことを忘れていたのだ。





「無事に帰れる保証は無いから、別れてくれてもいい」

葵は表情も声色もほとんど崩さず、何でも無いことのようにそう言った。言われた瞬間、頭を殴られたみたいな衝撃と怒りが沸いて、冷静ではいられなかった。

「本気で言ってんの?」

葵に向かってこんな不機嫌極まりない声を出したことはそれまでなかった。それでも彼女は全く動じず、俺を静かに見ている。その態度が余計に気に障り、苛々したどす黒い感情で胸中が染まった。葵に対してこんな感情が沸くこと自体、初めてだった。




火の国と隣国の境で長い紛争が起きていることは、忍ならば誰でも知っている事だった。第三次忍界大戦の終結後も、武闘派の集落が隣り合わせていたその地では怨みの連鎖が止まらずにいる。長引く戦いはいずれ、戦火を広げ、先の大戦を繰り返すことになりかねない。火の国の大名に問題を処理する統治能力は無く、木ノ葉の忍による監視任務が依頼された。止めても止めても終わることの無い戦いだが、せめて戦火が広がらぬように監視を続け、いずれは鎮圧を目指すという内容だ。だが、紛争の激しさは近年増すばかりで、その地では子どもも老人も関係が無く、多くの人々が血を流している。

俺自身も暗部に所属していた頃に数ヶ月の間、増援としてその地に送り込まれた。血で血を洗うような戦争がまだ終わっていない事をまざまざと感じさせられる数ヶ月だった。紛争の監視任務はその性質上長期になるうえ、木ノ葉の里から三日はかかる国境を拠点としている。進んで志願する忍は少ないが、中忍以上の忍が年単位で上層部から任命をされる他、状況によって暗部が短期的に派遣されていた。

「お前が志願しなくても、いずれはまわってくる」

葵がその任務に志願すると言った時、なぜと聞くよりも先にその言葉が口をついて出たのは、彼女に行ってほしくなかったからだ。俺の言葉に、葵は黙って首を横に振った。俺が嘘をついたことに葵は気づいたのだ。里ではまだ少ない医療忍者が、おいそれと長期任務に駆り出されるはずはなかった。しかし、本人の強い意志があれば話は別だ。医療忍者は紛争地帯にとどまっている忍達には強く必要とされているはずだから。

「綱手様には、明日からの任務が終わったら話そうと思ってる」
「……なぜだ?二年は戻れない上に、紛争地帯の最前線だ。命の危険に朝も夜もさらされて、休みだって無に等しい。そんな場所に、どうして好んで行く必要がある」
「紛争地帯で医療忍者が必要とされているのは確かだよ。私の故郷の村も似たような国境にあったからわかるんだ。でも、そんなきれい事だけじゃ無くて、行きたい理由がある」
そう言って葵は押し黙る。待っても、その先を話すつもりは無いようだった。
「俺には言えない理由なの?」
「……いつか、戻ってきたら話す」
「二年待てって?」
どうしても刺々しくなる口調で言い返せば、
「待たなくてもいい」と葵はきっぱり言った。
そして続けた。
「無事に帰れる保証は無いから、別れてくれてもいい」




怒りと、何も話して貰えない悔しさと……離ればなれになることが辛いのはどうやら俺だけらしいという事実に、頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱された。

別れてくれてもいいと簡単に言ってのける葵が信じられず、動揺する俺と対照的に、葵はほとんど表情を変えず「とにかく、もう決めたことだから」と言った。それは他人の声のように、部屋に冷たく響く。

「別れてやるわけないでしょ」

悔し紛れに何とか言った言葉は、どうしようもなく情けなく響いて。
はじめて葵は表情を崩した。痛みを堪えるみたいに。

「ごめん、カカシ……」

謝られても、何を言えば良いかわからず部屋に沈黙が落ちる。何を言っても、彼女はもう決めてしまったのだろう。

「今日はもう、帰るね。また明日」

立ち上がり、葵が部屋を出て行く。ドアがしまり、鍵がかかる音がしてもまだ、俺は椅子に座ったまま動けずにいた。

机の引き出しの中、彼女に渡すはずだった物がしまわれている。これを渡して、俺と一緒になってほしいと言うはずだったのに。


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