ちいさな光カカシさんの寝室は、少し大きめのベッドの他には本棚が二つ並んでいるだけで、やっぱり物が少ない印象だった。それでも何となく部屋全体が、カカシさんらしい雰囲気というか空気のようなもので満たされているような感じがした。落ち着いた深緑色の布団カバーには大柄の手裏剣模様が躍っていて、すこしお茶目な感じだけれど、カカシさんが自分で選んだのだろうか。ちらりと隣を見上げると、目が合って、カカシさんは小さく首をかしげて微笑んだ。
「布団カバー、かわいいですね」 「……そう?」
カカシさんはちょっと照れくさそうに頬をかいた。 そんな仕草や表情も、一々かわいいなぁ、と思ってしまう。
カカシさんはいつもこの部屋で寝起きをしているんだな。そう思ったら急にどきどきしてきた。何だか居たたまれなくなって、壁際の本棚に目を移す。そこには、信じられないほど沢山の本が並んでいた。
やっぱり忍術に関する本が多いんだろうか。難しそうな書名の背表紙が並ぶ中、急にポップな感じの文庫本の背が見えて、近寄ってみると、それは火影室でたまにカカシさんが読んでいる、あの怪しいシリーズなのだった。今まで深く聞いてこなかったけれど、これを機に尋ねてみようかと口を開きかけたら、急に後ろから腕が伸びてきて、私はすっぽりと腕の中に抱き締められていた。
「……やっと二人きりになれた」
頭の上でカカシさんの声がする。背中にカカシさんの温もりを感じて、その熱は徐々に首を辿って頬に伝播して、やがて、顔中が熱くなった。私は自分のお腹の前にまわされた、カカシさんの大きな手に目を落として、抱き締められているのだとまた思って、頭がぼうっとして、小さく、息を吸ったり吐いたりして、呼吸を整えた。
「……いつも二人きりじゃないですか」
どきどきしながら、何とかそう返した。 事実、私達は毎日のように二人きりで仕事をしているのだ。
「厳密には二人きりじゃないんだよね。ハルは気づいてないだろうけど、実は執務室には暗部がいつも……」 「えっ……」
さぁっと血の気が引くようだった。 どうして今まで考えもしなかったんだろう。里の長である火影様に護衛がつかない訳がない。 それってつまり、今までいつも二人きりだと思っていたけれど、あの時も、あの時も……誰かに見られていたって事だ。
「カカシさん、離してください!」 「流石に自宅まではついてきてないよ」 「……って事はやっぱり……今まで、執務室にいる時はずっと、暗部の方々に見られてたって事ですか!?」 「見られてたというか、見せつけてたというか……」
カカシさんはくくくと喉を鳴らして笑った。耳元を吐息が擽って、私は身を捩った。 今までのあれこれを思い返しただけで、恥ずかしくて顔から湯気がでそうに熱い。
カカシさんの腕の中から脱出しようとするけれど、しっかりと両腕に抱き締められてしまっていて、もがいても全然抜け出せやしない。
「暴れないの。まあまあ、キス以上の事は我慢してたんだからいいじゃない」 「当たり前です!!」
小さな溜息が聞こえて、カカシさんの腕の力がふいに緩んだ。 私の体はくるりと回転させられて、カカシさんと正面から向き合わされる。
「そんなに怒らないでよ」 「……だって、恥ずかしくて、もうお嫁に……」
行けません、と言おうとして、カカシさんにプロポーズされたという事を思い出して、私は口をつぐんだ。
「オレが貰うんだから問題ないでしょ」
カカシさんは私の心を読んだように、にっこりと微笑んだ。
「カカシさん、本当に私の事……」 「まだ疑ってるの?」 「だって、信じられなくて……どうして私の事が好きなんですか」
こんな質問はうざいに決まっているのに、ついに聞いてしまった。口に出したそばからもう後悔して、けれど、カカシさんに告白されたあの日からずっと、私はこのことばかり考えてしまう。
「理由がないけど好きなんだよ。それじゃダメかな」
カカシさんは静かな声でそう言った。両頬を手で包まれて、瞳の奥を覗きこむように見つめられる。
「理由がないけど、好き……」
カカシさんの言葉を繰り返してみる。心のもやもやは晴れるどころか、深まったようにすら感じる。 理由がないなら、私じゃなくてもいいって事?
「微妙だった?……口下手でごめんね」
カカシさんは困ったように眉を下げ、しょんぼりした表情でそう言った。何でも器用にこなせそうなカカシさんが、口下手だなんて、そんな事あるだろうか、と思ったけれど、不安そうな表情は、嘘をついているようには見えない。あの日のレストランで、自信満々に指輪を差し出してきた人と、本当に同一人物なんだろうか。そんな事を思ってしまって、私は少しだけ笑ってしまった。
「微妙ってわけじゃないですが……」 「……理由がないっていうのは、少し乱暴に聞こえるかな」 「……いえ、そんな事は」
私の顔を見て、カカシさんは焦った様子で頭を掻いた。それから少し頬を染めて、やがて、覚悟をきめたように口を開いた。
「何て言ったらいいか……オレは、ハルの笑った顔が大好きだけど、だからと言って、オレの前ではいつも笑っていてよなんて言えないし、第一、ハルが怒ってようが泣いてようが、やっぱり好きなのは変わらないから……。笑顔が可愛いから好きっていうのは、理由にならないと思う。……もちろん、笑顔のハルが特に好きだから、できれば、オレの側でずっと笑っていてくれたらいいなって思ってるし、ハルの事をずっと笑わせられるような、ただ一人の男になりたいとか思っちゃってるんだけど」
「……」
「つまり、ハルの全部が好きって事なんだ。そこに理由なんて無いし、……好きなもんは好きなんだよ。理屈じゃない」
念押しするようにカカシさんはそう言って、それから、真剣な表情を柔らかく崩して、照れくさそうに笑った。
もう、顔が燃えてしまうんじゃないかってくらいに熱くなり、どきどきと、自分の心音が早鐘を打っているのが聞こえた。 カカシさんからの真っ直ぐな愛の告白に、胸がときめいて嬉しくてたまらないのに、今の気持ちをなんて言えば伝わるのか、なんにもいい言葉が浮かばなくて、ただ、目の前にある彼の瞳を見つめた。
カカシさんの瞳の奥に、熱の籠もった光が揺らめいているのが見える。彼の大きな手が、私の髪を優しく梳いた。急に、この間のことを思い出してしまった。カカシさんに組敷かれて、体中、あちらこちらにキスをされた日の事を。
今、吐息を感じるほど近づいたカカシさんの唇から、目が離せなくなる。 ゆっくりと唇が重ねられて、柔らかい感触に、何だか、泣きたいような気持ちになって、そっと目を閉じた。
身に余るほどの幸せが、こんなに怖いなんて。
「まだ寒いね」
三月になっても、夜の室内はしんと冷えている。カカシさんが私の肩を隠すように布団を引き上げてくれた。そうしてまたゆっくりと抱き寄せられる。とくとくと、緩やかなリズムで鳴るのはカカシさんの心臓の音だろうか。
「カカシさん……」 「んー……?」 「さっきは疑ってごめんなさい」
カカシさんが私の事を好きだと言ってくれたのだから、信じる以外に選択肢なんて無かった。平凡たる自分に自信が無いのは私自身の問題で、カカシさんを疑うなんて失礼にもほどがある。 それに、何よりも。
「私も、カカシさんの事が好きです」 「……うん」 「カカシさんの笑っているところが好きです」 「うん」 「ちょっと意地悪な顔をするところも、寝不足でぐったりしてるときも、全部全部好きです」 「……ありがと」
カカシさんは私の唇に、ちゅっと優しく口づけた。お返しに頬にキスをすると、今度は首に返される。ぞくりと体が震えて、カカシさんの手がまた肌をなぞり始めるのを感じた。
「帰れなくなっちゃう……」 「帰らなくていいよ」 「でも、明日、今日と同じ服で出勤するのはイヤです……いかにも朝帰りじゃないですか」 「シカマルにそう思われるのが嫌なの?」
カカシさんは拗ねた目をした。シカマルくんに限らず執務室に気配を隠して控えているという、お会いしたことの無い暗部の方に色々思われるのも恥ずかしい。黙っていると、カカシさんはますます不機嫌そうな表情をした。……あれ、もしかして。カカシさん、焼きもちを妬いてたりするんだろうか。
「カカシさんって、焼きもちやきなんですか?」 「……気づいてなかったの?」
くくく、とカカシさんは笑った。喉を鳴らすようなその笑い方が、私は特に好きだった。私も、カカシさんの笑っている顔を、これからも側で見ていたい。できればずっと、お側に置いていてほしいなあ、なんて思って。 ……けれど今更、やっぱり今すぐにプロポーズを受けたいですなんて、とても言えそうにない。
「この前だってお前、オレがせっかく休みの日に誘ったのに断って、一体何の予定があったの」
カカシさんの目が据わっている。全然気にしていない風に見えたけど、本当は気にしていたらしい。笑って誤魔化したら、カカシさんは拗ねた表情で私をじっと見て、それから急に、肩に軽く噛みついてきた。
「あっ!」 「……ねえ、ハル」 「はい」 「ちょっと早いけど、ホワイトデーのプレゼントを用意してある」 「えっ……!?」
この前のあのお食事がバレンタインのお返しじゃ無かったんだろうか。 驚いていると、カカシさんはごそごそと片腕で、ベッドのヘッドボードを漁った。
「ラッピングもしてなくて申し訳無いんだけど、ハルに貰って欲しくて作ったんだ」 「……!」
目の前に差し出された小さな銀色を見つめた。
「……合鍵ですか?」 「そう。……来たい日も来たくない日も、この部屋にいつでもおいで」 「それって、毎日来いって事じゃ無いですか」
そういいながら、私はその鍵を受け取って、しっかりと握りしめた。ぎざぎざの一つ一つを、確かめるように指の腹でなぞる。嬉しくて、信じられなくて、胸が苦しくなる。カカシさんはさっきまでの不機嫌が嘘のように、にこにこと微笑んでいる。ふと、この家の入り口には結界忍術が施されていた事を思い出した。
「カカシさん、私結界とか解けません……」 「ハルの事は弾かないように調節しとくから大丈夫だよ」 「そんな器用な事ができるんですね。って、そんなに私の事を信用しちゃって大丈夫なんですか?」 「お前まさか悪い女なの?……そうは見えないけど」
くすくすとカカシさんが笑う。カカシさんの言うとおり、私にカカシさんを騙す気なんて、これっぽっちも無いけれど。むしろ、私みたいな女はきっと騙される側だ。
けれど、カカシさんになら、もし騙されていたとしても、それでもいいと思った。
騙されたって大けがしたって、もうなんだっていいやと思ってしまう。これってキケンな思考だろうか。けれど、この腕のなかに閉じ込められてしまったらもう、抜け出す事なんて考えられない。
この間までぐるぐる悩んでいたはずなのに、自分でも呆れてしまうけれど。
この恋はまだ始まったばかりで、私はきっと浮かれているのだと思う。 やっぱり結婚とかはもうちょっと冷静になるまで……少なくとも、一年くらいお付き合いをしてからの方が良いような気がする。
「で、今日はどうするの。まさか本当に帰るつもり?」
目の前でカカシさんが意地悪な笑みを浮かべる。 意地悪な笑み、なんてありがちな言葉でしか言いあらわせないのが残念だけれど、その笑い方も、どきどきするほど素敵だった。 黙っていると、カカシさんは私の事をぎゅっと抱き締めた。
「帰らないで」
耳元で囁かれたその言葉に、うなずかずには居られなかったのは、別にそれを言ったのが火影様だからという訳じゃ無い。 心の中をじわじわと幸福感が満たしていって、同じだけ、やっぱりまだ怖くもあった。カカシさんの胸に顔を埋めて、その鼓動の音を聞きながら、私はしずかに目を閉じた。 そうしているうちに段々、不安な気持ちは、ちいさくとけて、みえなくなってしまった。
あとにはただ、恋に落ちてしまったという事だけが残っている。
それは温かくて、眩しくて、この先もずっと消えそうに無い、ちいさな光だった。
(おわり)
20180309 →後書き
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