追憶と制動白く長い指先がコーヒーカップをゆっくりと持ち上げる。カカシさんは顎を少し上げてから、カップの縁に唇をつけ、ごくりと一口に飲み干した。コーヒーはすっかりぬるくなってしまったようだ。私はカカシさんの横顔から目を離せずにいた。
客人から頂戴したコーヒーカップは上品な白さで、銀色の縁取りと、同色の控えめな模様が素敵だった。カカシさんが持っていると、何だかとても様になる。ぼーっと見とれてしまっていると、カップを皿に戻したカカシさんが、ふとこちらを向いた。 「ん……?」 優しく微笑まれたと言うのに、私は慌てて目を伏せて、自分のカップを取り上げた。一口だけコーヒーを啜ると、やっぱり大分ぬるくなっている。
「ハル」
声にどきりとした。コーヒーカップを口から離すと、執務机の前に座っていたはずのカカシさんが、いつの間にか目の前に立っている。カップを皿に戻す時、かちゃりと陶器がぶつかる品の無い音がした。挙動不審な私の様子をカカシさんはじっと見て、カップの中にその視線を落とした。
「ブラックコーヒー飲んでるの?」 「あ……はい」
最近、砂糖入りのコーヒーはやめたのだ。カカシさんと同じ様にブラックで飲んでいる。最初は苦くて、ミルクを入れたくなったけれど、今ではもう慣れた。
「ふーん……?」
瞳を覗き込まれて、びくりと身を引いた。
「や、あの……痩せたいとかじゃなくてですね」
健康のためにです、と私が言うと、カカシさんは一瞬疑うような目をしたけれど、「ま、いいか」と言ってまた、にこっと目を細めた。
その笑顔を見ていると、心臓が急に苦しくなって、私はまた目を逸らしてしまう。
次の瞬間、唐突にカカシさんの手が伸びてきて、顎に指を添えられてしまった。 驚いているうちに、優しく上を向かされてしまう。
「……どうしたの最近」 「え……?」 「あんまりオレと目を合わせてくれないね」
息がかかるほど顔が近づく。カカシさんの黒い瞳が真っ直ぐに私を見つめている。私の心臓はいま、壊れそうに高鳴っている。
「……そ、そんなこと」
ふと、こんな状況なのに、カカシさんの左目の傷に目がいった。瞼の上を縦に走る裂傷。けれど漆黒の瞳には、どこにも傷ついた様子が無い。かつて、この左目はいつも額あてによって隠されていた。そして、その頃は、燃えるような赤い色の左目だった。写輪眼のカカシと彼が呼ばれていた頃、私はその左目を、一度だけ見る機会があったのだ。
四年ほど前のことだ。 木ノ葉隠れの里は、壊滅しそうになるほどの危機を迎えていた。 ペインという六人組の忍による襲撃を受け、里全域に非常事態警報が出された。
忍ではない私達は誘導されるまま、岩山につくられたシェルターを目指していた。 道はどこを見ても避難する人々でごった返し、あちらこちらで押し合いが起きて、怒号が飛び交っていた。――まるで、地獄のようだった。
私は任務受付所の同僚と一緒に、周囲の老人や子どもに声をかけ、助け合いながら避難場所を目指した。無力な私達に出来ることはそれぐらいしかなくて、恐怖に震える足を何とか動かして、前に進んだ。
非常事態警報が出されるのは、私が七つの時、里が九尾の狐による襲撃を受けたとき以来の事だった。幼心にもはっきりと覚えていたあの時の恐怖を、また感じる事になるなんて。
地鳴りがしては足下が揺れて、その都度、何度も足をとめた。恐ろしい轟音が遠くで近くで聞こえては、激しい黒煙が上がり、土埃が舞う。
一体何が起きているのか、誰にもわからなかった。ただ、恐ろしい敵が里に侵入している事は確かだった。
逃げ惑う私達とは真逆の方向へ行く影がいくつも見えた。 忍の方達だ。避難する私達に時折声をかけながらも、彼等は勇敢に、爆発音の起きている方へ慌ただしく走って行く。
里を守る為に命をかけて戦地の中心へ向かっていく彼等を、私達はただ、見送ることしか出来なかった。
また大きな地響きがして、砕け散った窓ガラスが頭上からふってきた。
「頭を守れ!」
男の人の声がして、私達は頭を抱えてしゃがみ込んだ。鋭い痛みがいくつも腕を刺す。 揺れがおさまって立ち上がると、腕には切り傷がいくつもできていた。
このままここにいたら、建物が倒壊するのは時間の問題だ。 立ち上がってまた進もうとすると、道の脇で、うずくまっている少女が目に入った。
「大丈夫!?」 「……は、はい……びっくりして……」
少女は青白い顔でしゃがみこんでいた。かけよって彼女の身体を支える。
「立てそう?」 「……怖くて、腰が抜けてしまって……」 「ここにいたら危ないよ。一緒にいこう」
少女を支えて立ち上がらせた時、頭上で何かが崩れる音がした。ついに建物が崩れてきたんだと理解して、けれど身体が恐怖にこわばり動かない。悲鳴も出せずに、もう終わりだ、と思った。
ふいに脇腹に衝撃を感じて体が宙に浮いた。何が起きたのかわからないほどの速さで、地面と空が視界を流れていく。
凄まじい轟音がして、砂粒が風に流れてきた。目をぎゅっと閉じて音が止むのを待った。
「……危なかったね」
頭上から聞いたことのある声がした。私は信じられない気持ちで目を開き、顔を上げた。
銀髪の背の高い男の人が、私の事を見下ろしていた。
「か、カカシさん……」
私の隣にはあの少女がしゃがみこんでいる。 そして、カカシさんの背後、さっきまで私達がいた場所は、崩れた建物のガレキで埋め尽くされていた。その光景にぞっとして、息を吸い込んだ。
カカシさんが私と少女を抱えて、建物の側から離れてくれたのだと解った。カカシさんが通りかかってくれていなかったら、私達は今頃……。
「大丈夫?……どこも怪我は無い?」 「は、はい……ありがとうございます」
カカシさんはこんな状況なのに、にっこりと微笑んだ。 額あてをまっすぐに巻いている彼を見るのは初めてだった。
「送っていってやりたいけど、……オレももう行かなきゃならない。ハル、立てる?」
下の名前までちゃんと覚えていてくれたんだ、と思いながら、私はこくこくと肯いた。そうして立ち上がった私を、カカシさんは力強い眼差しで見つめた。
「彼女を連れて、はやくここから離れるんだ。……出来そうか?」
私はその時、カカシさんの赤い左目を初めて見た。燃える炎のような赤い瞳が、とても綺麗だと思った。 まだ足は震えていたけれど、私はカカシさんの言葉に肯いて、少女を助け起こした。道の向こうをみるけれど、しばらく大きな建物はなさそうだ。あと少し行けば、避難場所へ続く坂道が見えるはずだ。
「カカシさん……里を宜しくお願いします」 「ああ。気をつけてね」 「はい。行ってらっしゃい」 「行ってくるよ」
任務受付所で幾度となく、私はカカシさんの背中を見送ってきたけれど。 その時ほど、彼の背中がたくましく見えたことは無かった。
「おーいハル」 「……」 「ハルって」 「……はっ!」
カカシさんに見つめられたまま、私はぼーっとしていたらしい。 心配そうな色を浮かべている彼の両目は、今はもう、どちらも深い黒色をしている。 顎に手を添えられたままだと気づき、顔が熱くなった。
「あの、離してください……」
消え入りそうな声でなんとかそれだけ言うと、カカシさんの指がそっと離れていった。 気まずい沈黙が落ちる。
「カカシ先生、失礼します」
ノックの音と、シカマルくんの声がした。 ほっとして、詰めていた息を吐きだす。
「……すみません、私ちょっとお手洗いに行ってきます」
それだけ言って、私はカカシさんに背を向けて、早足に入り口へ向かった。
「お、ハル……うわっ、危ねぇな」
シカマルくんとぶつかりそうになって、ごめんと小さく謝ると、彼は私の顔をみて不思議そうに目を見開いた。 いま私はどんな顔をしているんだろう。自分でも解らなかった。
「カカシ先生……どーしたんすかアレ?」 「……うーん、ちょっと攻めすぎたかな」 「何ですかそれ……」
二人の会話が少しだけ聞こえたけれど、私は後ろ手にドアを閉めた。
中庭の椅子に座って、一人溜め息をついた。さっきまでカカシさんに触れられていた顎に手をあてる。それだけで、色々と思い出してしまい、また顔が熱くなった。
カカシさんは最近やたらとスキンシップが多い。 あの手に触れられてじっと見つめられると、私はいつも、どうしていいのかわからなくなる。
カカシさんが優しく微笑むたびに、自分の胸はつい弾んでしまう。
低くて穏やかな声で話しかけられるたび、心がじわりと温かくなって、時にはしめつけられるように痛くなる。
毎日終業時間が近づくと、はやく明日になればいいのになんて思ってしまう。
どうしてこんな風に思ってしまうのか、考えたくなくて、私はまた溜息をついた。
火影室勤務になる前から、私はカカシさんに憧れていた。
火影様に就任される前から彼は完璧な男性だった。すばらしい戦績を誇る上忍で、男らしくて、知的で、だけど口調は柔らかくて……彼に魅力を感じるなと言う方が無理だと思う。カカシさんに憧れているのは、何も私だけでは無かった。
あの日、ペイン襲撃の時に、私はカカシさんに命を救って頂いた。 あの時も、その背中はとても逞しくて大きく見えた。
今までだって格好良い人だと思っていたけれど、あの時の格好良さはもう、格別だった。 あんな場面であんな風に助けられたらもう、ヒーローにしか見えなかった。
あれから、暫く大変な日々が続いたけれど、私は何度もあの時のことを思い出した。 カカシさんはあの後もずっと、忍の中の忍で……今では火影の名前を背負っている。
とても、私が釣り合うような相手ではなかった。 私なんかが思いを寄せていいような人では……。
だから私は、カカシさんに対して憧れ以上の感情を持つわけにはいかなかった。
なんといってももう、いい年齢なのだ。 どんなに辛くても切なくてもいいなんて、ずっと片想いでもいいなんて、そんな風に軽率に恋をしようとは思えなかった。
この年では、転んだら痛いではすまない。 大ケガする未来しか見えてないのに、報われない片想いなんて絶対に出来ない。
火影室勤務になって、思いがけず憧れの人だったカカシさんとの距離が近づいたけれど、私達はあくまで上司と部下だ。 カカシさんは私をしょっちゅうからかうけれど……そしてその度、どきどきしたり、少しだけ勘違いしてしまいそうにもなるけれど。
でも、それだけだ。
それだけにしなきゃいけない。
あんな素敵な男性に優しくされたり微笑まれたり、ちょっとセクハラまがいのスキンシップをとられたりするのはもう、心臓に、大分悪いのだけれど。
カカシさんが私を本気で好きになるわけは無い。
もしかしたらちょっとは、私を気に入ってくれているのかも知れないけれど。カカシさんにとってみたら、私は七つも年下な訳で、 きっと、からかいやすい年の差なのだと思う。
カカシさんの真意は時々よくわからないけれど、みるからに危険で不毛な片想いをするつもりは、私にはさらさらなかった。
「……上ばっかり見てても足下掬われるだけだもんね」
平凡な恋で良い。 だから、どこかにいないかなあ。素敵な人……。
私も良い人が出来れば、カカシさんにちょっとからかわれても、動揺しないで笑って受け流せるようになるのかもしれない。
『……この年になると慎重になるよね、だって次に付き合う人とは結婚するかもしれないんだから』
先日久しぶりに会った女友達の言葉が頭をよぎる。
本当にそうなんだよね、と私は深く肯いたものだった。 はやく素敵な人に出会いたいけれど、焦っていても仕方が無い。
こうして私は、カカシさんに対して憧れ以上の感情が生まれそうになろうとも、きっちりブレーキをかけて行こうと決意したのだった。
まさかこの後、背中を思いっきり押されたように、転がり落ちていく事になるだなんて。 この時の私は、夢にも思っていなかった。
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