窓から零れた月の光が白い刀身を照らしている。欠けた刃に指をあて記憶の奔流に目を閉じた。この季節になると頻繁に父の事を思い出す。温かかったはずの手の平と冷たくなった死に顔を。父の形見を鞘に戻し、窓辺にそっと置いた。左目に疼痛がはしり、目頭を抑える。いつもの幻痛だ。深い溜息を漏らす。 隣室の窓が開く音に続き、床が軋む音もした。こんな時間にベランダに出て何をしているのだろう。また風邪でもひかないといいが。 窓は開いたきりで閉じられる気配が無い。換気にしては長すぎる時間が経ち――耳を澄ませている自分に苦笑した。 顔を出して声を掛ければ彼女はきっと、いつもの穏やかな笑顔を浮かべてくれるだろう。それから、他愛もない話を聞かせてくれるだろうか。 ――胸の中に温かい火が灯った。 自分の中に生まれた感情に立ち竦む。しかし逡巡は長くは続かなかった。 床が軋む音がまた聞こえて、彼女が部屋に戻ってしまうと思ったとき、 『会いたい』という感情が抑えられなくなって、足が動いた。 慌てて窓をあける自分は、笑いたくなるほど滑稽で――ひとつ息をついて、無表情を貼り付けた。 ベランダの古い床が音を鳴らす。きんと冷えた夜気が頬を撫でた。 「――カカシ」 思った通りの声色で名前を呼ばれて頬が緩む。せっかく取り繕った無表情はすぐに崩されてしまった。覆面をしたままで良かった、と密かに安堵する。 「……そんな寒そうな格好で何やってんの」 隣のベランダに立つほしみは、ブランケットを羽織っているとはいえ、あまり暖かくなさそうな寝間着を身につけている。自然と眉を顰めてしまった。 「カカシこそ……」 むっとした口調で返されて、オレは自分の格好を見下ろした。薄着と言えば薄着かもしれない。いつもの黒い長袖は夏物よりは厚手だがこの寒さでは少々心許ない。 ほしみはベランダの木枠に凭れて夜空を見上げていた。冷たく澄んだ頭上に、無数の星が瞬いている。時折涙のように星が流れた。 「星見てたの?」 「うん。……星座とかはわかんないけど」 横顔はあどけなく、星空を映した瞳が輝いている。 「星座わからないんだ。……じゃあ、あれも?」 あれとあれとあれを繋いで……と指さすと、ほしみは真剣な表情でオレの示した方を見上げた。星座の名前を口にすると「すごい。カカシわかるの?」と弾んだ声で聞かれた。 「ま、忍たるもの星の位置ぐらいはね」 少しだけ良い気になって――こんな事で得意になる自分は単純すぎる――と思いつつ、いくつかの星座をほしみに教えた。際だって明るい星と、赤く光る星の名前も付け加える。彼女は感心した様子でオレの説明を聞いていた。 「鼓星ぐらいは覚えておいたら?」 「つづみぼし。うん、覚えた。今聞いたの全部忘れないよ」 ほしみがあまりに素直に言うから思わず笑いが零れた。この若さで薬屋として身を立てているぐらいだから、勤勉な性質の彼女は興味を持てばすぐに覚えてしまうだろう。 「ほしみは好奇心旺盛だよね」 「え?……そうかな。でも今まで知ろうともして来なかったよ」 ほしみはまた空を見上げる。 「綺麗だなと思うだけだったよ。星にも一つ一つ名前があるんだね」 ほしみの柔らかい声が耳を撫でる。 ただこうしているだけで、どうしてオレは――。 胸の内を何か温かい物が満たしていった。 このまま、ここに留めておけたら。 「カカシも眠れないの?」 「え?」 「カカシも星を見に出てきたのかと思った」 ほしみが不思議そうに首を傾げる。 眠れなかったのか。こんな静かな晩は、彼女も亡くなった父親のことを思い出してしまうのかもしれない。 「散歩にでも行こうかなあ」 返事をしないオレを気にした様子もなくほしみはそう言った。 「こんな時間に?」 「うん」 「それは独り言?」 「……うん」 ちょっと寂しそうに唇を尖らせる彼女の横顔が、あまりにかわいらしいので、オレはまた笑ってしまった。 「随分大きな独り言だね」 「……」 「お誘いだったら、乗ったんだけどな」 「え、ほんと?」 弾かれたようにこちらを見たほしみは、嬉しそうな表情を隠さなかった。――頭をぐしゃぐしゃに撫で回したくなる。距離が離れている事がもどかしい。 「ちゃんと厚着してきなよ」 「うん……!カカシもね!」 嬉々として部屋に戻りかけたほしみは、また窓から顔を出すと「あ、お茶を用意していくから、ちょっと待ってて。準備できたらそっち行くね!」と声を張った。オレはもう表情を取り繕う事を諦めて「わかったよ」と微笑んだ。 ――許されるだろうか。 許されるはずなど無い。胸の内に灯って消えない感情の正体はきっと、オレが手にして良いものではないはずだ。もう一度強く目を閉じて、外出の準備にとりかかった。 「ええとじゃあ、右!」 「ハイ右ね」 路地をまがるほしみの隣をついて歩く。 行くあての無い夜の散歩だった。 商店街は飲み屋を残して全ての店が閉まっていた。夜勤の忍がたまに屋根を伝って行くほかは出歩く人も居ない。火影岩の上の見晴台にでも行く?と言ったオレの提案に、ほしみは頷かなかった。いわく、見晴台は夜の散歩コースとしては定番なので、たまには違う道を歩いてみたいとの事だ。 定番と一蹴されてしまった事よりも、そんなに頻繁に彼女は夜中に出歩いているのかと思うと心配になり、「次からはまたオレも誘ってよ」と口を滑らした。 ほしみはちょっと驚いて「でもカカシ、夜いない事の方が多いじゃん」ともっともなことを言う。言葉に詰まっていると、「じゃあさ、曲がり角がくるごとに、右か左か言い合おう。順番こで」と彼女は笑った。 子どもみたいな提案に苦笑しつつ受け入れると、ほしみは無邪気な笑顔で「二人ならではの散歩方法だよね」などと言った。 彼女と二人でこんな風に散歩をした男が、これまでにいたんだろうか。そんな事を思って沈黙していると、何も気づかないほしみは「子どもの頃よく友達と、こんな風にして遊んだんだよね。もちろん昼間だったけどさ」と言い足した。 それはそれで、先日の薬屋の彼の事だろうかと、変に勘ぐってしまう。 「ずっとこの里で暮らしているのに、まだ通ったことの無い路地が沢山あるって、何だか不思議だよね」 「……まあ、これだけ入り組んでればね」 「カカシはどんな道も知っていそうだけど」 「そんな事もないと思うよ」 言いながら歩く道は一戸建ての住宅が多い地区になっていた。やはり、灯りのついている家の方が少ない。いい真夜中だ。 「じゃ、次は左で……」 「うん」 知りすぎているこの道に少し戸惑って、けれど表には出さなかったと思う。 それなのに。 「次は右」 「……」 「あれ、行き止まりだ」 戻ろうかとほしみが言う。 オレは黙って、目の前に現れた一軒の空き家を見つめた。 ここが空き家だと知っているのは、この家の所有者がオレの父親だったからだ。 そして今、この家を所有しているのはオレ自身だった。 縁側に並んで座り、ほしみが水筒で持ってきた熱いお茶を二人で飲んだ。 紙コップまである準備の良さに感心してしまう。この家にはたまに掃除に訪れていたが、食器の類は残していなかった。 ここを出たのは、暗部に所属する事が決まってすぐの頃だったと思う。 急に呼び出されることが多いので、生家を出て、里中枢に近い場所に部屋を借りる事にしたのだ。もともと一人で暮らすには、この家は広すぎて持て余していた。 ここがオレの生まれ育った家だと言うと、ほしみは目を見開いた。それから何かをいいかけて、また口を閉じた。 好奇心旺盛で、気になった事は素直になんでも聞いてくる、 そのくせ、ほしみはこういう事には勘が良すぎるくらい良かった。 こちらが踏み越えてほしくないラインには決して踏み込んでこない。人懐っこいが、無神経ではない。 彼女のそういう所をオレは気に入っていた。 何も知らずに、聞かずにいてくれることが居心地良かったはずだ。 それなのにオレは「ここで一休みしてく?」とほしみを家に誘った。 いいの?と目で訊いてくる彼女に、静かに微笑む。 ――オレは彼女に、知ってほしいんだろうか。 縁側に座って星を眺めながら、さまざまな話をした。 これまでもしてきた他愛も無い話、最近の事。 ほしみの薬屋の事はもちろん、オレの任務についても話せる範囲ではあったが話した。 話題はやがてこの家の事にうつりかわり、自然と幼少の頃の話に遡っていった。 ほしみは慎重にオレの過去に触れていった。 オレを産んですぐに母は亡くなり、物心ついた時には父と二人家族だった。 父の事を尊敬していたし、父のような忍になりたいと思っていた。 彼は優しい人だったが、仲間の命を救った事で重要な任務に失敗した。 その事で父は国や里に責められ、救ったはずの仲間からも中傷された。 ――心を病んだ彼は自ら命を絶った。 オレは父さんを、引き留められなかった。 家族だけが、救えたはずだ。 幼くても、父のしたことは間違っていないと信じていたのに。 オレは思い悩む父を元気づける事ができなかった。 大切だったのに。たった一人の家族だったのに。 自分自身が許せなかった。 けれど怒りの矛先を死んでしまった父にすり替えた。 そうでもしなければ、生きられなかったのだ。 ルールや掟を守ることが全てだと信じ、父の生き方に背くことに固執した。そうして何とか自分を保ってきた。 ――そのせいでまた、間違えた。 温くなったお茶に口づける。ほしみは黙ってオレの話を聞いてくれていた。 隣に座る彼女の顔を覗き込んで、息を呑んだ。 ほしみは声も出さずに泣いていた。 「……」 「ほしみ」 溢れる涙を拭いもせず、声も出さない彼女が心配になり「ごめん……」とオレは謝った。ほしみは首を横に振る。 「続きも聞いていい?」 「……」 真っ直ぐな目に見据えられる。 自分の過去をこんな風に、わざわざ誰かに話したことなど無かった。 忍の世界は狭いので、生い立ちも過去の事件も、仲間には知れていた。 あからさまに同情されたことも憐れまれた事もある。そこに悪意は無いにしても、全てが疎ましくて、面倒だった。 それなのに、ほしみにこうして泣かれることは、少しも嫌では無かった。 同情でも憐れみでもなく、彼女は素直に悲しんでいるのだとわかったから。 「……上忍に昇格してすぐの事だった。その頃は第三次世界大戦のただ中で――」 一頻り話し終えた頃には、月の位置が変わっていた。 長い息を吐き出す。 すっかり体は冷え切って黙りこんでいるほしみの事が今更心配になった。 「ほしみ」 涙の痕をまた細く涙が流れていく。 彼女はゆっくりと口を開いた。 「ずっとひとりで、抱えてきたの?」 「……」 父を亡くした後、オレは一人きりでは無かった。 側で支え、導いてくれる師がいた。 本当の忍のあり方を教えてくれた、命を犠牲にして里を守ってくれた友が居た。 「オレは生かされた。……いや、生きる事を選んできたんだ」 きっと質問の答えにはなっていない。 けれど、最近やっとそう思えるようになった。 それが自分によってだとは全く思っていないだろうほしみは、黙ってオレの事を見つめている。 「オレは幸運な方じゃない。けれど、最悪って訳でもない」 そう言って笑うと、ほしみは目を瞬いて、それからやっと微笑んでくれた。 ふいに彼女の腕が伸びてきて、その温もりに包まれた。 抱き締められるがままでいると、彼女の手に遠慮がちに髪を撫でられる。 冷え切っていたはずの体が、じわりと内側から溶けていった。 どこまでも温かくて、ひどく優しい。 鼓動の音を聞きながら、ほしみの背中に手をまわす。 抱き寄せて、しばらくその温かさを感じていた。 体を離してほしみの顔を見つめる。 「まだ泣いてるの?」 「……」 「いい加減泣き止んで」 ほしみの泣き顔は見慣れない。どうか笑っていてほしい。 彼女の髪に指をさしいれ、そっと顔を引き寄せた。 ぎこちなく口づけたほしみの唇は温かかった。 つかの間離れては、また唇を触れ合わせる。 言葉のないまま、口づけはそっと、深くなっていった。 オレの服を掴むほしみの手が時折きつく握りしめられる。けれど抵抗の色は無い。 受け入れられている事に安堵しながら、奥深くを舌でなぞった。 まるで最初から親密な間柄だったみたいだ。 ぴったりと唇から溶け合って、境目がわからなくなる。生きているもの同士の熱が絡み合う。 押し殺せずに漏れ聞こえた小さな声に、たまらなくなった。 ほしみの涙はすっかり止まっていたが、瞳は濡れている。 熱に浮かされたような表情に、寝込んでいた日のほしみを思い出した。 触れてしまえば、離れられなくなる。 失いたくないから、手に入れたくはなかった。 そのはずなのに。 ――離れたくない。 横たえたほしみの冷たい頬に唇を寄せる。 言葉もなく彼女に触れた。 そういえばいつの間にか、冬の星座に入れ替わっていた。 ゆっくりと、時は流れていく。 星の涙 |