真冬のように寒い日が続き、薬屋は多忙を極めていた。調剤の必要の無い風邪薬や頭痛薬を買い求めるお客さんも、ひっきりなしに訪れる。昼休憩にはいろうと思った時間は昨日より半刻ほど遅くなった。休憩はお隣の医院の診療時間にあわせて取っていて、最後の患者さんの診療が終わるといつも、隣の受付のおばちゃんが知らせに来てくれるのだ。

父が体調を崩して店に立てなくなってからは一人で店を切り盛りしてきた。昼休憩を交代でとることができないので、昼食の間は店を一旦閉めている。父娘二人でやっていた頃より不便になってしまったから、一般薬の売り上げは若干落ちた。とはいえ、隣の医院の患者さんや、この辺りに住む方々は以前と変わりなく利用してくれている。

また少し疲れが溜まりつつあるな、と思いながらひとつ伸びをする。先日は薬剤師のくせに体調を崩すという失態を犯し、連休を風邪で寝潰してしまった。今日のお昼は食べに出てゆっくりしようと決め、白衣を脱ぎかけたとき、からからと引き戸が開いた。

烏の濡羽色をした長い髪の女性が、俯き加減に入ってくる。私と目があうと、「あ……もう終わりですか?」と不安そうに聞いた。

「いいえ、大丈夫ですよ。何をお求めですか?」

白衣を羽織り直し、微笑みながら問いかける。女性は頭を抑えながら、「頭痛薬を……」と言った。勘定台の内側から出て、頭痛薬のある棚の前へ案内する。使い慣れた薬がすぐに見つかったようで、彼女は安堵に頬を緩めた。綺麗な人だ。背が高く、肌の色はぬけるように白い。歩き方からなんとなく、忍の人だろうな、と感じた。――カカシも知っているだろうか。

薬の説明をしていると、彼女は数度、首を横に傾けるような動きをした。

「首とか肩の凝りが酷いときはビタミンB1をとると少し良くなったりしますよ」

私が声をかけると彼女は少し驚いた顔をした。

「仕草でわかったんですか?よく見ていますね」
「凝りが頭痛の原因になることもありますから…」

会計を終えた彼女を見送って、今度こそ白衣を脱いだ。財布を手に薬局店を出ようとしたら、私の目の前で引き戸が開いた。

「いらっしゃいま……」
「よ。これからお昼?」

額あてを斜めに巻いて、片目だけで微笑むカカシがそこに立っていた。

「カカシ……!この間はありがとう」

頭を下げながら、頬が熱くなるのを感じた。休日の間中、カカシには随分と世話になったというのにまだお礼も出来ていなかった。今週に入ってから顔を見るのははじめてだ。

「ん。具合はどう?」
「もうすっかり良くなったよ」
「……そう?ちょっと顔が疲れてるけど」
「え……」

目の下を抑えながらカカシを見上げる。クマでも出来ていただろうか。

「飯、まだなら一緒にどうかと思って」

頭の後ろを掻きながらカカシが言う。私は頷いて「うん。奢る奢る!」と力強く言った。彼はびっくりした顔をした。

「や、そういうつもりで顔出したわけじゃないんだけど……」
「この前は本当にお世話になったから。カカシは私の命の恩人だよ」

にこりと笑い、まだ困った様子のカカシの腕を掴むと店を出た。別にカカシが昼飯をたかるために来たわけじゃないという事ぐらい解っている。たぶん、私の様子を見に来てくれたのだろう。どこまでも優しいお隣さんに胸の奥がぽかぽかと暖かくなった。

何度か一緒に入った、商店街の定食屋で昼食を食べ終えた。アパートの近所の定食屋も美味しいけれど、ここもなかなか美味しくて安い。先に食べ終えたカカシはいつものように本を読んでいる。

食後に運ばれてきた焙じ茶を飲みながら、今日もちらちら周囲の視線を感じるなあ、と思った。不快になるほどあからさまではないけれど、カカシといるとこうして、男女問わず店内の客に見られていると感じることがあった。この定食屋の客層は忍が多いみたいで、カカシに視線を向けてくる人は大体、忍服を着ていた。

カカシは会釈を返すこともあれば、無視をしている事もある。忍ではない私でさえ視線に気づくのだから、無視をする相手のことも気づいていないはずはないだろうけれど。態度の差は親しいかどうかなのだろうか。親しくない相手からも視線を向けられるという事は、カカシは忍の中では知られた存在なのかもしれない。どういう意味で有名なのかはわからないけれど、傍目に見て、羨望の眼差しだと感じる事もあれば、嫌な感じの目配せをされていると感じる事もあった。自然、一緒に居る私も注目の対象になるのだけれど、大抵は好奇心による目を向けられているようだった。『あのカカシが女と飯を食っている』『忍びではないな』という小声が聞こえてくることもあれば、女性に睨みつけられたこともある。カカシは女の人からモテそうだから、何か勘違いをされているのだと思う。嫉妬をむけられるような間柄では無いのに、と思いながら、なるべく気にしないように努めた。カカシが無反応を貫いているから、私も同じようにしたほうが良いだろうと思ったのだ。

「その本面白いの?」
「え?」

前々から気になっていたので尋ねると、カカシは面食らった顔をした。『イチャイチャパラダイス』――書名からして怪しさ満点だけれど、カカシはいつもいつもそれを熱心に読んでいる。今まで突っ込まずにいたけれど、いい加減気になって仕方が無かったのだ。

「面白いよ。すごく」
「へえ……何度も同じの読んでるよね」
「いや、上・中・下とあってだな……」
「じゃあ貸してよ」
「えっ?」
「読んでみたい」
「……ホントに?興味あるの?」
「うん。最近本読んでないなーと思って」
「……」

カカシは黙って頭をかいている。目に見えて焦った様子なので、私はおかしくなってつい吹き出してしまった。貸すのを躊躇するって事はやっぱり、タイトルからして怪しいとは思ってたけど、……とても女子には貸せない内容なんだろうか。

「まあ、ほしみならいいか」
「え?」
「はい」

たった今読んでいたものが上巻だったようで、カカシはそれを閉じるとあっさり私に手渡してきた。

「……ほしみならいいかってどういう意味?」
「別に?そのままの意味だけど」

カカシは含み笑いをした。……なんとなく、意地悪な笑みに感じるのは気のせいだろうか。引き下がれず、受け取った本の表紙をまじまじと見る。何にせよ、興味があったのは本当だ。今夜早速読んでみよう。

別れ際カカシは「ま、病み上がりなんだからあんまり無理するなよ」といって、私の方に手を伸ばし、――少しだけ躊躇した後で、私の頭をくしゃりと撫でた。

「……!」
「それじゃまた」

振り向きもせず去って行くカカシの背中を、私は暫く見つめていた。頭を撫でられるなんて、まるで子ども扱いだ。けれど、少しも不快じゃ無いのが不思議だった。
カカシの手が触れた髪を撫でて、この間の事を思い出した。カカシに看病して貰った時の事。あの時もカカシは、私の頭を大きな手で何度も撫でた。

冷たい空気が頬を撫で、ひとつくしゃみをして、また風邪をひいては大変だと慌てて薬局店に戻った。



それから三日ぐらいして、私はまた、帰宅途中にカカシを見かけた。月の明るい晩で、銀髪の後ろ姿をみかけた途端、カカシだとわかった。人通りの少ない路地でいつかのように立ち話をしている。けれど、話している相手はあの後輩くんでは無いようだった。

なんとなく少し離れたところで立ち止まってしまったのは、カカシが話している相手に見覚えがあったからだ。濡羽色の黒髪が、月の光に艶めいている。――この前、頭痛薬を買いに来た女性だ。あの人、暗部の忍だったのか。黒いノースリーブに胸あてをして、背中には長刀を背負っている。白い腕に赤い入れ墨がはっきりと見えた。

月明かりの下、長身痩躯のカカシと、やはり背の高い彼女が向き合って話をしている姿は、何だか絵になる美しさだった。任務の話をしているのか彼女は真剣な表情をしている。ふと、艶やかな紅を刷いた唇が、笑みを浮かべた。それから彼女は笑って口元を抑えている。カカシが何か面白い事でも言ったんだろうか。後ろ姿しか見えないカカシも、きっと笑みを浮かべている。

私は立ち止まっていた足を動かし、前に進んだ。会話の詳しい内容までは聞こえないけれど、カカシの声と女性の声が次第に近づいてくる。ふとまた、その女性の顔が視界に入り、――彼女が顔を真っ赤に染めている事に気づいた。どきり、と心臓が音を立てる。

「それじゃカカシ先輩、また」
「ああ。――明日も宜しく」
「はい」

彼女は長い髪を翻して、いきなり姿を消した。忍の人が高速で移動する瞬間を目撃するのははじめてのことでは無いけれど、どういう原理なんだろう。

「……こんばんは」

声を掛けないのも不自然な距離まできていた。私の声にカカシは振り向いて、「ほしみ。お疲れ様」と目を瞬いた。

「よく会うね」
「ほんとにね……」

言いながら私はまた歩き始める。カカシも何も言わず、横を歩いた。帰る建物が同じなのだから当然だ。

「……」
「……ほしみ?」
「ん?」
「なんか今日、元気ない?」

カカシに問われて、隣を見上げた。色違いの両目が私を映している。その目に何かを見透かされてしまいそうで、私はまた前を向いた。

「いや……体調もすっかり元通りだよ」
「そう。……ならいいけど」

不自然な沈黙が落ちた。
私は、自分の中に沸いている得体の知れない感情に戸惑っていた。

さっきの人は、口ぶりからしてカカシの後輩なんだろうか。薬屋でも思ったけれど、本当に綺麗な人だ。切れ長の瞳に長い睫毛、憂いを帯びた表情。忍の制度には詳しくないけれど、暗部が火影直轄の精鋭部隊である事は知っている。カカシも彼女も、忍としての能力が高いからこそ抜擢されているのだろう。

ただの先輩後輩ではなくて、恋人同士なのかもしれない。並んで話している姿を見て、お似合いだな、と咄嗟に思った。そういえば今まで、カカシに彼女がいるのかどうかなんて気にしたことが無かった。彼の部屋に出入りする人を見かけた事は男女問わず無かったけれど、思えば、殆ど家を空けている事の方が多い。カカシがどんな忍で、任務ではどんな働きをするのか、友達や恋人はいるのか。知らない事ばかりだ。

ただの隣人なのだから知らなくても当たり前なのかも知れない。いや、ごはん友達ではあるけれど……。こんなに知らなすぎるのに、友達と言えるだろうか。

「……ねえほしみ」
「あ、うん」

話しかけられていたのだろうか。慌ててまたカカシの顔を見ると、彼は心配そうな表情をしていた。

「どうしたの。何か考え事してるみたいだけど」
「……別に、何でも無いよ」
「何でも無いって様子じゃ無いでしょ。悩み事?」

カカシの追求は緩まなかった。誤魔化すことは出来なそうで、私は少し考えた後、意を決して聞いてみることした。

「……さっきの人って、カカシの彼女?」
「え?」

カカシは面食らった顔をした。私の質問はそんなに意外だったのだろうか。
カカシが口を開くまでに少し間があって、私はその間、処刑を待つ人のようにドキドキと緊張していた。
なぜこんな気持ちになるのかはわからないまま。

「……夕顔は彼女じゃ無いよ。どうしてそう思ったの?」
「さっきなんか……顔を赤くしてたから」

あの人は夕顔さんっていうのか。彼女では無いんだ。夕顔は、ってことは、彼女は別にいるって事なのかな。

「ああ。あいつの彼氏のことでね、ちょっとからかっただけ」

カカシはそう言ってくすくすと笑った。それからふと真剣な表情になって「それが気になってたの?」と私に聞いた。

私は一瞬言葉に詰まって、自分でもうまく説明の出来ないもやもやについてまた、改めて考えた。この気持ちは、カカシに話してもいい類のものなんだろうか。

「……なんかね、その」
「うん……?」
「カカシに恋人がいるのかとか、何にも知らないなあと思って……」
「……」
「……ちょっと寂しい、のかな。たぶん」

言いながら顔が熱くなってきて、私はもうカカシの顔が見られなかった。
こんなことを言ってしまって、カカシがどんな反応を返すのかが解らなくて、怖かった。

「……」

いい加減に長すぎる沈黙に焦れてカカシの顔を見た。心臓がまた、ぎゅっと痛くなった。
彼は何を言おうか考えている様子で――目に見えて戸惑っていた。
私は慌てて「ご、ごめん……変なこと言って」と取り繕った。

「いや……」
「忘れて!」

言いながらずきずきと胸が痛んで、鼻の頭がつんとした。何だこれ、何でこんな気持ちになるんだろう。

「その……何て言うか、嬉しくて」

カカシが頭をかきながらこぼした。

「え……?」
「うん。……嬉しいんだと、思う」

口にしているカカシ自身、戸惑っている様子があった。
嬉しい?一体何が?立ち止まってこちらを見たカカシは、何故か頬を染めていた。

「彼女はいないよ」
「……そう、なんだ」
「ほしみは?」
「え?」
「付き合っている男とか、いるの?」

聞かれてはじめて、そういえば私も、こんな話をカカシにしたことは今まで無かったのだと気づいた。知らない事に拗ねていたというのに、自分も話したことが無かったのか。

「私もいないよ」
「そう……」
「あ、いま、やっぱりって思ったでしょ」
「え?別に思ってないよ」

ははは、と笑うカカシをジト目で睨む。彼は頭をかきながら、歩き始めた。

「そういえば本、どうだった?」
「あ……」

その話を振られて、私はまた顔が熱くなった。

カカシに借りた本は面白かった。ものすごく。恋愛初心者の主人公とヒロインが、次第に大人の愛に目覚めていく純情物語で、男女の心の機微が繊細な筆致で描かれている。単なる恋愛ものではなく、サスペンス的な要素もあって、読めば読むほど続きが気になって深みにはまっていった。あっという間に読み終えてしまった上巻は、怒濤の展開で終わったので、この後どうなるのか、物凄く気になる。はやく続きが読みたい。……読みたいのだけれど。

「えっと……すごく面白かった」
「……でしょ?」

顔を赤くしている私を、カカシは笑って見ている。その顔にはからかいの色が浮かんでいた。
あの本は本当に面白い。面白いのだけれど、あの熱い抱擁のシーンは……読んでいて赤面せずにはいられなかった。なんていうか……大分過激だった。あれをいつも人前で、静かな表情で読んでいたカカシの事が信じられない。

「……続きも読みたいです」

恥ずかしさよりも読みたさの方が勝った結果、私がそう言うと、カカシはくすくす笑って「喜んで貸すよ」と返事した。

小さく溜息をついて、私は囁くように言った。

「恋っていいな……」
「……え?」

本当に聞こえなかったようで、カカシは目を瞬いていた。「なんでもない」と言って私は彼の前を歩く。空を瞬く星がひとつ、視界を流れていった。


月に零れる



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