頭が割れそうに痛い。眠りに落ちては魘されてを繰り返し、何度も目が覚めた。気がつけば窓の外は明るくなっている。額の汗を拭いながら、ぼうっと天井を見上げた。喉に焼けるような不快感がある。水が飲みたいけれど、布団から這い出るばかりか、寝返りを打つのさえ億劫だ。熱があるだろうことは測らなくてもわかった。

そのまま目を閉じたけれど今度は全然眠れない。いっそ気絶してしまいたいぐらいなのに。悪い夢ばかり見たような気がするけれど、はっきりとは思い出せない。予防接種を打ったのは一ヶ月以上前だから、抗体がつくられていないという事は無いだろう。けれど、あれは打てば感染を100%防げるというものではない。仕事中はもちろんマスクをして予防に努めていたけれど……ただの風邪だと信じたい。

じわりと涙が滲んで視界がぼやけた。身動き一つ取れない自分がふがいなくてなのか、頭の痛みのせいなのか。――それとも、寂しいのかも知れなかった。涙が耳の脇を流れ落ちていく。鼻を啜る音だけが響き、孤独感を強めた。

一人暮らしの人は皆、具合が悪いときはこんな風に孤独な気持ちになるんだろうか。あまりに静かすぎて、世界から私の部屋だけが切り離されてしまったみたいだ。咳がでるたび胸が痛むけれど、声をかけてくれる人もいない。ふいにお腹のあたりがもやもやと気持ち悪くなって……こみあげる嘔気に耐えられず、転がるように床に落ちた。立とうとして、四つん這いになったまま吐き気をやりすごす。ぼたぼたと涙が床を濡らした。ねじ曲がる視界に、何だこれ、ほんとに、地獄だ……と思いながら目を閉じる。



水洗のレバーをなんどもひいて、もう立ち上がる気力も無くて、トイレの床にうずくまっていた。ふと、軽快なドアチャイムの音がした。宅配便か何かだろうか。返事をしようにも大きな声は出せそうに無い。壁づたいに立ち上がり、洗面台で口をゆすいだ。顔も洗って鏡を見上げると、青ざめてひどい顔をしている自分が写りこんだ。そうしている間にも、チャイムの音は諦める様子がなく何度も鳴っている。

ふらふらと玄関へ向かい、裸足で靴を踏みながら、内鍵に手をかけた。その時ふと、マスクをしてくるべきだったと思った。感染させてしまうかもしれない。けれど、部屋に戻って取ってくるのも億劫で、短い時間ならば大丈夫だろう……と思い、結局そのまま鍵を開けた。私がドアノブを掴んだ途端、向こう側の人物の力でノブがまわされて、ドアが勢いよく開いた。突然のことに驚いて、そのまま外にむかって空足を踏む。ドアの外にたっていた人物の腕が私を抱きとめた。

「ほしみ大丈夫……じゃなさそうだね」

その声を聞いた途端、体の力が抜けてしまった。お隣さんの……カカシの声を聞いただけで、なぜこんなに、ほっとしてしまうのだろう。甘えていいような間柄ではないのに。病気で弱っているせいだろうか。

――そうだ、このままではうつしてしまう。
慌てて彼の体を押しのけた。

「カカシ……うつしちゃうから……」

今日はじめて出した声は、自分じゃ無いみたいに掠れていた。今の今まで、こんな酷い声になっているなんて気がつかなかった。恥ずかしさを誤魔化して笑おうとしたら、見上げたカカシが心配そうな顔をしていて驚いた。少しも笑わず、気遣わしげな表情で私の腕を支えてくれている。

「無理して喋るな。……熱は測ったの?」

私は首を横に振り「……もしかしたらインフルエンザかも」と小声で言った。カカシは驚かずに「有り得るね」とだけいって、私の頬に手をあてた。冷たい手が気持ち良くてつい目を閉じてしまう。

「……すごく熱い」

カカシが呟いた。なんだか叱られたような気持ちになって、恐る恐る目を開ける。カカシは怒っているわけではなさそうで、ただ、心配そうな眼で私を見ている。

「とりあえず上がらせて貰うよ」
「え……駄目だよ……うつしちゃうから帰って」
「うつんないよ」

押し込まれるように部屋へ入れられて、カカシが後ろ手にドアと鍵を閉めた。

「予防接種なら打ったし大丈夫」
「私だって打ったもん」

子ども染みた口調になってしまう。困惑している私の様子を見て、カカシはふっと笑った。急に咳がこみ上げてきて、慌てて彼に背を向ける。口を抑えるけれど止まらない。カカシの温かい手が、私の背中をゆっくり擦ってくれた。こんな風に優しくされたら、また泣いてしまいそうになる。

「……病人が強がるんじゃ無いよ」

カカシの声は、言葉の強さと裏腹に優しかった。彼は颯爽と靴を脱ぎ、私の部屋の床を踏む。そうして、おろおろしている私の肩に躊躇なく手を回して支えた。

「注射打ってもかかるときはかかるって言うしね……少ししたら病院へ行こう。付き添うよ」
「そんな……悪いよ」
「この前オレの事看病してくれたでしょ。お互い様だよ」

そう言って微笑むカカシは、ものすごく頼もしくて、正直なところ、私は涙が出そうなほどほっとしてしまった。カカシが来てくれて助かった。大げさかも知れないけれど、このまま一人で部屋で動けなくなって、誰にも気づかれずに脱水症状でもおこして、死んじゃったりして、なんて、思っていたのだ。吐くほど具合が悪くなったのは随分と久しぶりで、らしくなく弱気になっているのかもしれない。

「とりあえず熱測ろうか。体温計ある?」
「うん……ありがとう」

半分ぐらいはまだ、迷惑をかけるわけにはいかない、と思っていたけれど。孤独に押しつぶされそうになっていた私にとって、今のカカシは救世主のようだった。


ベッドに座らされて熱を測った。体温計を差し入れた時、脇の下にあの独特の冷たさを感じて物悲しくなった。少し時間がたって、取り出して見てみるとやはり、暫く見なかったような数値が出ている。隠す暇も無く、隣に座っていたカカシに覗きこまれた。

「やっぱり9度近くあるな……」
「うん……」
「夜中に急に具合が悪くなったの?」

カカシの声があんまり優しいから、私は親に報告する子どものように素直に「うん。昨日帰ってから寒気がして……あんまり寝られなくて……さっき起きてからちょっと吐いた……」と経過を話した。

「辛かったね……」

こうしてカカシが隣にいてくれるだけで、心細さはすっかり消えていた。かわりに、薬屋である自分が情けなく体調を崩していることが、急に恥ずかしくなって、「ほんと、薬剤師のくせにふがいないよね……今日から連休で良かった」そういいながら、笑ってカカシを見たら、彼は少しも茶化さずに、「疲れが溜まってたんじゃない?たまにはゆっくり休めって事だよ」と、あくまで優しいことばかり言う。

インフルエンザだとしたら、発症から十二時間以上、二十四時間以内には診察を受けた方が良い。昨夜から少し、風邪気味のような症状はあったけれど、花粉症だと思い込んでいたので正確なところはわからない。急激に具合が悪くなったのは夜遅くだったから、カカシに相談して、午後の診療にあわせて内科へ行くことにした。「少しでも寝られると良いけど」と、家族のように優しくカカシが言って、私は布団に寝かされた。食欲なんてまったくわかないけれど、喉は渇いていて、頼むより先にカカシが水を持ってきてくれた。少しずつグラスを傾けて飲んでいると、カカシはベッドに片肘をついて顎をのせ、眼を細めるようにして私を見ている。

「今日は、任務はお休みなんだっけ」

昨日の会話を思い出しながら私が聞くと、カカシは一つ頷いて、「オレが朝来て良かったね」と笑った。空になったグラスを私の手からそっと回収する。

「そういえば、どうして私の部屋に?」
「昨日お前、オレんちにパン忘れてったでしょ」
「……ああ!」

それまで少しも気がつかなかったのが不思議だけれど、カカシは、自分の横からくしゃくしゃになったパンの袋を持ち上げて、私に見せた。

「で、届けに来たけど、中に気配があるのに出てこないから嫌な予感がしたもんで。昨日具合悪そうにしてたから」
「気配とかわかるんだね。さすが忍」
「……気持ち悪い?」
「え?全然。カカシがきてくれなかったら私、誰にも発見されずに死んでたかも」
「この年で孤独死は可哀相すぎるな」

軽口をたたき合いながら、けれど死ぬんじゃないかと思ったのは本当に、本心でもあったから、私は、今後もうこの人には頭があがらないなあ、なんてことを思っていた。


「どうやらパンを食べられる体調では無さそうだね」
「……うん。良かったらカカシが食べてくれる」
「じゃあ、遠慮無く……」

カカシが袋から取り出したのはグラタンドッグというパンだった。温めた方が美味しいだろうな、と思って、「オーブントースターつかってね」と言ったら、「わかったよ」と言って、カカシはにっこり笑った。そんなやりとりでさえも、嬉しかった。

誰かが側にいるというだけで、安心したようで、思い出したように強い眠気に襲われた。けれど、眠りに落ちてはまた魘されて、その度、カカシは私をゆすって「ほしみ」と名前を呼んで起こしてくれた。「はあ…もうやだ…しんどい……」朦朧とするまま、取り繕う余裕もなく弱音が零れた。カカシは私の手を励ますように握って、ずっと撫でてくれていた。辛いのと、隣にいてくれることの感謝で、また涙がでて、それを拭うことも出来ず、浅い眠りをくりかえし、変な夢を沢山見た。そして、気づけばすっかり寝入っていたらしい。

次に目覚めた時には、もう午後の診療がはじまっている時間だった。

「起きられそう?」

カカシに聞かれて頷きながら「カカシ、お昼ごはんは……」と聞くと、彼は首を横に振って、「まだ減ってないから大丈夫。とりあえずお前を病院に連れて行かないと」という。私の額に手をあてて、「んー、まだ熱が上がりそうだな」と続けた。

部屋着の上から、適当に厚手の服を着て、上着も重ねてもこもこになった私を見て、カカシは吹き出した。ちょっとむっとしながら、使い捨ての白いマスクをつける。
靴をはいて立ち上がり、まだふらついている私をみかねたカカシはしゃがんで、「ほら乗って」と背中を示した。

「いや無理だよ……子どもじゃ無いんだから」
「女の子一人ぐらい余裕で背負えるよ。オレの職業忘れたの?」
「……大男も普通に背負えたりするのかな」
「不気味な妄想しないでくれる?……いいから早く乗って」

躊躇う気持ちは消えなかったけれど、その広い背中に乗っかってみたいとも思って、素直にカカシの背中にもたれると、彼は満足そうに「ほら軽い」と笑いながら言って、私を持ち上げた。膝の下に、がっしりとした腕がまわされる。おんぶなんて、本当に幼い子どもだった頃、父にされて以来だ。

長身だけれど細身な人、という印象だったけれど、こうして背負われていると、カカシはやっぱり木ノ葉の忍で、私なんかとは全然体のつくりも違って頑丈で、頼りになる男の人なのだと感じた。揺らさないように配慮されながら、ゆっくりと、背負われて進むマンションの廊下は、いつもと全然違って見えた。

「ね、やっぱり、ちょっと恥ずかしくないかな……」
「人に見られるの嫌か。じゃあちょっと揺れるけど屋根伝いにいく?」
「屋根伝い……!?」

たまに忍の人が、道ではなく、建物の屋根をぴょんぴょんと移動していくのをみかける事がある。でも、すっごく速いので、全然目で追えない。カカシもあんなふうに格好よく、あちこちの屋根を飛ぶように移動しているんだろうか。

「魅力的だけど……揺らされたらまた吐いちゃうかも」
「それは困るな……」

カカシがくつくつと笑って、しがみついている体が小さく揺れた。あたたかいその背の温もりに安心しきって、瞼を閉じて、顔を預けた。


幸運なことに、インフルエンザの検査結果は陰性だった。最近流行っているらしいウイルス性の胃腸風邪だろうと診断されて、いくつか薬を処方された。クリニックのすぐ隣にある薬局へ行ったのだけれど、同業者なので、当然のごとく知り合いがやっているわけで、かなり、いたたまれなかった。

「ほしみ、随分情けない面してんじゃん」
「うるさい……」

顔馴染みの男に笑われたので睨みつけると、「でもインフルエンザじゃないみたいで良かったな。もしそうだったらもっと大笑いしてたわ」とさらなる憎まれ口が返ってきて、溜息が出てしまう。

「説明……はいらないよな」
「どんな客にも省略しちゃ駄目だよ」
「はいはい」

おざなりな対応になるのもまあ、仕方ないか。形式上の説明を受けていると、薬剤師の知人は、ちらちらと私の後ろを気にしているようだった。付き添って入ってきた、カカシが椅子に座って本を読んでいるのを見ているのだ。

「随分良い男だな。忍か?」

小声で聞かれて、「……邪推されるような事は何にも無いよ。彼はお隣さんで…ええと、最近できた友達なんだ」と私は答えた。「ふーん……?」わざとらしささえ感じる、疑いの眼差しを向けられた。

「何……」
「いや、別に。ほしみにもようやく男が出来たかと安心したんだけどな……」
「大きなお世話だよ」



カカシと並んで薬局を出る。動いたのでまた頭痛が起きていたけれど、インフルエンザではないとわかっただけで気分的にはかなり楽になったので、帰りのおんぶは辞退した。

「やっぱり知り合いなんだね」
「同じ里で薬屋やってるからね。あそこも先祖代々、あの家系だから……。お互いの親を先生にして、一緒に薬学を学んだりもした仲間で」
「へえ、薬剤師にもアカデミーみたいな繋がりがあるのか」
「ううん、アカデミーってほどじゃないよ」

この里の中枢たる場所でもある、忍者学校を頭に思い浮かべた。縁の無い私は、足を踏み入れたことも無い場所だけれど。

「仲良いの?」
「んー、腐れ縁のようなものかな?……あれで私より七つか八つは上だからね。兄みたい、と思ったことも……無いけど」

やけに気にするな、と不思議に思いながら隣を歩くカカシの顔を見る。マスクをしている彼の表情は、その両目からしか読み取れない。けれど、今は何を考えているのかよくわからない、いつもの静かな目をしていた。

ただの風邪だったのだし、あとは適当にレトルトのお粥でも買って一人でなんとかするよ、と言ったのだけれど、カカシは頑として譲らず、病人は寝てなさいといって、私を部屋に押込みベッドにおさまるのを見届けた。それから、買い物に行くと言って出て行ってしまい、そう時間をかけずにまた戻ってきて、私に水分を与え氷枕をとりかえ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたあと、台所を借りるといって、手早くうどんを作ってくれた。

その頃には私もすこし、食欲が戻ってきていた。「食べさせてあげようか?」とカカシに冗談を言われたけれど丁重にお断りして、柔らかく煮込まれたうどんを隣に並んで一緒に食べて、食べきれはしなかったけれど、体はぽかぽかと温まって、食後に薬をちゃんと飲んで、今度は悪夢も見ないで、ぐっすりと眠った。

次に目を覚ましたとき、部屋は少し薄暗くなっていて、カカシは相変わらずベッドに凭れて、そこに座ってくれていた。猫をしょってるみたいに丸まった大きな背中をみていると心が安らいだ。

「目が悪くなるよ」

私が言うと、彼は文庫本を閉じて振り向いて、「大分顔色良くなったんじゃない?」と微笑んだ。

「どうしてこんなに優しくしてくれるの?」

呟くように聞いてみた。カカシは不思議そうに首を傾げて、「じゃあほしみは、どうしてオレを助けてくれたの」と言った。

あの雨の夜の事を言っているのかな。その次の日に、風邪を引いたカカシにお粥をつくってあげたりと、おせっかいかもしれないけれど、世話をやいた事を言っているのかも。それとも、はじめてカカシに出会った日の事だろうか。

「ほっとけなくて……」
「でしょ。……オレも同じだよ」

にこっと笑われて、胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。なぜ、苦しくなるのかは、わからなかったけれど。

「ありがとう……」

それ以上に適切な言葉がうかばなくて、けれど本当に心の底から感謝して私が言うと、カカシは黙って微笑んで、私の頭を、子どもをあやすみたいに優しく撫でた。

父のようで、けれど、父とは違う、骨張った大きな手が、私の髪を何度も撫でるたび、心地よくて安心して、何だかまた眠たくなってきて、大きな欠伸をもらした。カカシの笑う気配を感じながら、重たくてたまらない瞼を閉じると、すぐに、穏やかな眠りに落ちていった。


大きな背中



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