秋を通り越して冬のような寒さだ。
共有玄関のポストに郵便物を取りに出ると、ガラス戸を雨が叩いていた。あちこち水たまりの残る床から冷気が立ち上り、震えが走って肩を抱く。せっかくお風呂に入って温まったのに、これでは風邪を引いてしまいそうだ。

ポストの鍵をあけて、溜まってしまった広告類と郵便物を取り出す。不要なチラシをゴミ箱に押し込んで、宛名が書いてあるハガキと封書だけを回収した。部屋であらためて確認した後は、殆どがゴミ箱行きになるのだけど。今日も、さして重要な手紙は来ていないようだった。

サンダルの中で足の指を縮めて、はやく部屋に戻ろうと踵を返したとき、背後でガラス戸の開く音がした。雨の音が一瞬大きくなる。振り向くと、重たげにドアを押してお隣さんが入ってくるところだった。

「あ、カカシ……」

声を掛けながらも、言葉を失くしてしまった。カカシは青白い顔をしていて、酷く疲れている様子だった。いつもの暗部装束が血でべっとりと汚れている。頭から雨に濡れていて、銀色の髪がくすんで見えた。

「……ただいま」

カカシは私を一瞥して、覇気の無い声でそう言った。一瞬遅れて、「おかえり」と慌てて返す。

「……それじゃ」

カカシは足を引きずるようにして、私の横を通り過ぎていった。彼が階段に足をかけたところで、私は金縛りが解けたように、自分を取り戻した。「ちょっと待って」見るからにいつもと様子が違うカカシを、引き留めずにはいられなかった。足を止めたカカシが、気怠げに私を見下ろす。暗い眼差しに気圧されながらも、かけよって隣に立った。濡れた前髪が貼り付いた額に、そっと手をのばして触れた。

「……熱があるみたい」

私がそう言い終わるか終わらないかのうちに、彼の体が急に凭れかかってきた。咄嗟に、両腕の下に手をさしいれて支えた。まるで抱擁するみたいな恰好だ。ぐったりと力の抜けたカカシの体は重たくて、雨に濡れているというのにひどく熱い。

「大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃ無いかも……」

耳元で掠れた声がした。ぼたぼたと雫が肩に落ちる濡れた感触がする。

「しっかりして。私が支えるから、部屋まで歩こう」

なんとか体を捻って肩に手を回しながら、私はあの、星の降る夜を思い出していた。落葉松の森のなかで、カカシにはじめて出会った夜を。

あの時と違って、今はカカシに意識があるからまだよかった。よろめきながら、ゆっくりと、一歩ずつ階段をのぼる。カカシの体の熱を感じながら、静かすぎる呼吸の音を聞いていた。足下に、血の混じった水たまりが出来ていく。今はそれに構っていられる余裕も無い。

カカシの部屋の前にようやくたどり着いて、
「私の部屋にくる?」
と聞くと、彼は弱々しく首を横に振った。
……とても一人にはしておけない。
緩慢とした動作で鍵をとりだし、カカシが部屋のドアを開ける。

「……私も入っていい?」
「……」
「心配なの」

目をあわせてそう言うと、カカシは逡巡した様子で私を見かえした。……引き下がる気はまるでなくて、ほとんど睨むような目で見てしまった。カカシは根負けしたように、一拍おいて小さく頷いた。

それが彼の血では無い事は、何となくわかっていた。そしてやはり、それは誰かの返り血らしかった。夥しい量からして、相手が絶命していることは間違い無いだろう。……そう思うと、胸の奥がぞくりと冷えるのに、今はただ、目の前で弱っている隣人の事だけが心配だった。

部屋に入るなり床に座り込んでしまったカカシに、何か拭くものを……と思ってまわりを見渡すと、室内に干したままのバスタオルが目にはいった。乾いている様子だったのでそれをとりこみ、カカシの頭に被せる。そのまま動く気配が無いので、目の前に座り、両手でカカシの体を拭いた。髪を、顔を、肩を、背中を。彼の右腕を拭こうとしたとき、ふいに強い力で手を掴まれた。はっとしてカカシの顔を見ると、その目が――深い黒と、血のような赤の、不思議な双眼が――じっと私を見つめていた。怒っているようにも、悲しそうにも見える、射貫くような眼差しで。

急に息が苦しくなった。

はりつめた緊張感に、ごくりと唾を飲み込む。金縛りに遭ったように、カカシから目がそらせなかった。

私の手を捕まえていた大きな左手がふいに離れて、その次に、私の両頬は、カカシの両手に包まれていた。

熱い指に冷えた頬をなぞられる。そのまま指が移動して、目尻を、鼻を、唇の上を、順に触れていった。まるで、此処に存在していることを確かめるみたいな、ゆっくりした動作。

永遠にも思えるような沈黙の後、カカシはふと俯いた。そのまま、私の顔を見ずに「すまない」と小さくこぼす。彼の両手が離れていって、空気に晒された頬がひやりと冷たくなった。

何があったの、と聞くのは簡単だった。
けれど、聞いたところできっと、カカシは何も話してくれないだろう。

それでも、何かに酷く傷ついている様子のカカシを放ってはおけなかった。

その時の私は、自分とカカシを重ねていたのだと思う。彼が喪失の苦しみの中にいることを、何も言わなくても、直感的に感じていた。

カカシに何があったのかはわからないけれど、彼を苦しめている原因は、きっと今日の出来事ではなくて、もっと、ずっと過去にあるんじゃないだろうか。……ふとみせる寂しそうな笑顔の理由も。

私は片手を伸ばして、カカシの濡れた髪をかき上げた。その目が戸惑うように見開かれる。

カカシの耳を撫で、覆面に覆われた顎をなぞり、首を通って、鎖骨の出っ張りに触れた。――そうして、ゆっくりと彼を抱きしめた。

だらりと伸びていたカカシの腕が、遠慮がちに私の背中にまわされたかとおもうと、すぐに、強い力で抱き返される。
触れ合った側から、彼の高い体温が、私のそれとまじって溶け合っていく。

そのまま暫く、そうして抱き締め合っていた。雨の音がする他は、何も聞こえない部屋の中で。


心を濡らす雨



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