目が覚めてすぐケトルでお湯を沸かした。ポットもカップもきちんと温めておいて、ゆっくりと茶葉を選ぶ。昔からお茶を飲むのは好きだった。缶入りの紅茶、ティーバッグのハーブティー、抹茶入りの玄米緑茶……目移りするほど沢山ある中から、今朝は紅茶にしようと決めて、ちいさな袋を手に取った。

写真でしか見た事のない亡くなった母も、お茶が大好きだったらしい。父にお茶を運ぶ度、『母さんもこんな風によくお茶をいれてくれた』と聞かされたものだった。父が仕事の手を止めて、懐かしそうに母の話をしてくれるのは、とても嬉しかった。母のことを、本当に愛していたのだということが、いつも伝わってきたから。

茶葉が開くのをじっと待って、明るい赤みがかった色がしっかり出たのを確認してから、カップにそそいだ。ふわりと広がる格調高い香りに頬が緩む。

一人きりになってから、私は、何をするにもやたらと丁寧になった。お茶をいれて飲むこと、朝食をつくって食べること、洗濯物を一枚一枚干すこと。時間をかけて、日常の細々したことに、集中してみることが、私には不思議と心地よくて、何だか癒やされたのだ。

生まれ育ったあの家を出て、この部屋で暮らし始めてみて、良かったと思う。実家に一人きりでいるのは、どうしても寂しかった。父の不在を感じる度、涙が出て、弱い自分が嫌になった。
大好きだった父のことを忘れたいわけではない。けれど、あの家には思い出がありすぎて……静かな夜に、押しつぶされそうだった。

ベランダに鉢植えを出してから、きちんと戸締まりをして部屋を出た。真新しい銀色の鍵に、そろそろ何かストラップでも付けようか。そんなことを考えながら階段を降りた。まずは花屋に寄らなければ。



細くたなびく線香の煙が、ゆっくりと空気にとけていく。しゃんと背を伸ばした秋桜の花に水をやって、手を合わせた。目を閉じて、心の中で、父にここ最近の出来事を報告した。引っ越してみた部屋は日当たりも良くて、なかなか気に入っているということ。もしも虫が出たときには助けてくれると言ってくれる、優しいお隣さんができたこと。……その彼がこの間薬局に来たこと。彼が時折寂しそうに笑うのが、なぜか気になっていること。

ただの隣人である私が急に踏み込んだら、きっと不快に思うだろうな。もしかしたら友達になれるかもしれないのに、嫌われたらいやだ。

だんだん、父にむかって報告しているのか、ただ最近のことを思い返しているのか、自分でもよくわからなくなってきた。目を開けて、立ち上がろうとしたとき、急に背後から声を掛けられて、びっくりして尻餅をつきそうになった。

「ほしみ?」

振り向くとそこには、さっきまで思い浮かべていた銀髪のお隣さんが立っていた。片手に柄杓の入ったバケツを持って。
「カカシ……よく会うね」
少し驚きながら言う。
カカシも驚いていたけれど、すぐに落ち着いた様子で、
「本当だね。……今日は休み?」
と私に尋ねた。

私は頷きながら、立ち上がってカカシに向き合った。
今日の彼は暗部装束でもなければ、先日のように額あてとベストを身につけているわけでもなかった。紺色の上下で、相変わらず覆面をしている。

「カカシもお休みなの?」
「ああ。見ての通り、墓参りが終わったところ」

お墓まわりの掃除をしたのか、雑草がはみ出たゴミ袋をカカシが掲げた。結構な量だ。ものすごく大きいお墓を掃除したのか、何人かのお墓を掃除したのか。……たぶん、後者なんだろうな、と思った。

カカシの視線が私の背後に向けられた。

「……私も、父の墓参りが今終わったところなんだ」
「そっか。……オレもお線香を上げてもいいかな」
「え……?」
「オレのオヤジが、ほしみの薬局に良く行っていたみたいだから」

カカシは、この間うちの薬局に来たときに、薬袋をみて思い出したのだと教えてくれた。点と点が繋がるみたいに、私の頭の中で、あの銀髪の男の人と、目の前のカカシが繋がった。はっきりと顔を覚えているわけではないから、確かではないけれど。

父の墓にむかって手を合わせてくれたお隣さんの背中を見ながら、彼のお父さんも、もう亡くなっているのだろうな、と思った。その時、すいと目の端を蜻蛉が横切って、カカシの頭に止まった。

「……あ!」
「……ん?」

振り向いたカカシの頭の上で、水色の体をした蜻蛉が、まだじっと止まっている。

「と、とんぼが……」
「とんぼ?」

おろおろしていると、蜻蛉はまた急にとびたって、私の頬を掠めて飛んでいった。

「……っ!!」
「はは…虫が苦手って言ってたのは本当だったんだね。蜻蛉もダメなんだ?」

ダメってほどではないけど、苦手なのは事実だ。なんだか恥ずかしくなって黙りこんでしまった。
カカシは困ったように頬をかく。

「気に障ったならごめん。馬鹿にしてるわけじゃないんだけど」
「え!?いや、全然、バカにされてるなんて思ってないよ」
「……なんていうか、ほしみはやっぱり女の子なんだね?」
「……」

あれ?やっぱりバカにされているのかも。
眉間に皺を寄せた私を見て、カカシはくしゃりと笑った。


丁度昼時だったので、またご飯でも……という事になり、暫く並んで歩きながら、近所の定食屋の新メニューについてとか、大家さんのところに子犬が生まれたらしいだとか、とりとめない話をした。

「そういえば。この間ほしみが処方してくれた薬を飲み始めてから、眠りが深くなったような気がする」
「ほんとう?良かった」
「夢も、たまにしか見なくなったよ」
「そっか……」

彼の眠りを妨げるのは、どんな夢なのだろう。言葉を探してすこし、沈黙がおちた。茶色い猫がのんびりと目の前を横切っていく。

「この間、私、一度眠ったらぐっすり朝まで起きないタイプだって言ったけど……」
「うん?」
「……今の部屋に引っ越してくる前は、しばらくの間、なかなか寝付けなくなってたんだ」
「……そうなんだ」
「自分がたてる以外の物音が、一つもしない家にいるのが、寂しくて。一人ぼっちなんだなあと思うと、子供みたいに悲しくなった。なんでお父さんがこんなに早く死ななきゃならなかったんだろう、とか、ぐるぐる、考えても仕方ない事を考えてたら、眠れなくって」

こんなことを突然話されても反応に困るだろう、と思うのに、どうしてか、私の口は止まらなかった。

……本当は、ずっとこうして、誰かに聞いてほしかったんだと思う。
聞いてほしかった癖に、親戚の人や近所のおばさんに、優しくされる度に、泣いてしまいそうになるのが嫌で、いつもにこにこ笑い、慰められることを丁寧に拒否してきた。……我ながら面倒くさい。

「……わかるよ」

遠くを見たまま、カカシはそう言った。その言葉は正しい温度で、私の耳に響いた。
同情も慰めも含まれていない、本心からの言葉だと、何故か素直に信じることができた。それがなんだか、とても嬉しかった。

それから私達は、何も言わずにゆっくりと二人で歩いた。沈黙は少しも気詰まりではなくて、むしろ居心地がよかった。

金木犀の香りが、どこからか空気にとけだしている。静かに、秋が深まりはじめた。


優しい時間



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