先の見えない暗闇の中を彷徨っていた。血の匂いが辺りに強く立ちこめている。ここは一体何処なのだろう。終わり無い闇が続き、自分が前へ進んでいるのか後ろへ戻っているのかもわからない。

酷い耳鳴りがしていた。意味をなさない何かの音が耳の中で蠢いている。虫の羽音にも岩が崩れる音にも聞こえた。大きくなったかと思えば小さくなるその音が、人の声だと気づいた時、はっとして立ちすくんだ。

「カカシ……リンを……頼むぜ」

はっきりとそう聞こえた途端、自分の手の内に、何かを握りしめていたことに気づいた。ひんやりした指の感触。なぜ今まで忘れていたんだろう。

繋いだ手の先に、リンが立っていた。

「カカシ…?」

そうだった。オレはこれから彼女を里まで連れて帰るところだったのに。不思議そうな顔をしているリンの手を、もう一度強く握り直す。

「オレはオビトにお前を頼まれたんだ。……だからお前は死んでも守る」

リンは目を見開いた後、瞳に涙を浮かべた。

「カカシ……すぐに私を殺して」
「……!?何を言って……」

突然目の前が暗くなり、リンの表情が見えなくなる。

そして、自分の右手には既に、慣れた感触があった。

肉を貫く柔らかい手応え。肘の下まで生温かく血に濡れていた。もう何度となくこの右手で感じてきた、命を奪った瞬間のあの感触。

信じられず、もう一度目を凝らしてリンの顔を見た。

見開いた彼女の目から、涙が一筋流れ落ちる。

「……カカシ……」

リンの唇からどろりと、どす黒い赤が零れる。

この手で死なせた。

守れなかった。親友との約束も、大切な仲間も。









「……っ!」

跳ね起きてすぐは、いつもの悪夢を見たのだという事がわからなかった。一瞬、今がいつでここがどこなのかもわからなくなり、小さく混乱した。

虫の声すらしない静寂の中、月明かりが細く窓から差し込んでいる。真夜中の、自室のベッドの上だった。

汗で濡れた額を拭いながら、息を整える。心臓はまだばくばくと音を立てていた。

自分の右手に目を落とす。
青白い手のひらは夢の中より一回り大きい。

この手はオビトとした約束を守れなかった。
それどころか、リンの命を奪ったのもこの手だった。

まだ震えている右手を強く握りしめ、目を閉じる。
オレには苦しむ資格など無いのだ。

それなのに、なぜ。

オビトとの約束を守れなかった自分が、自分だけが、なぜ生きているのだろう。






その薬屋は、商店街のある大通りの中程にあった。周囲の雰囲気に調和したやや古びた佇まいで、一見住居のようにも見えた。だが、入り口には青い大きな看板がしっかりとかかっていて、『星海薬局』という文字が整然と並んでいた。生真面目な印象の白くて細い字は、いかにも薬屋らしかった。きっとこの看板は先代の頃から、いや、もっと前の代から受け継がれてきたものなのだろう。薬局という場所には充分似つかわしいが、現在の薬屋の主人が持つ雰囲気には似合っていないような気がした。

入り口の引き戸は少しだけ開けてあり、覗くと客は誰もいないようだった。古めかしい外観に反して、中は意外に新しく整然としており、木棚にきっちりと市販薬が並んでいた。勘定台の奥で何やら忙しく立ち働くほしみの後ろ姿が見える。彼女が白衣を着ているところは初めて見た。
このまま覗いている訳にもいかず、引き戸に手をかけて中に入る。がらがらという音に反応して振り向いたほしみは、オレを認めて目を丸くした後、愛想の良い笑みを浮かべた。

「いらっしゃい。約束どおり来てくれたんだね」
「……どうも」

何となく気恥ずかしくなりながら頬を掻く。約束をしてから、そう日にちは経っていなかった。勘定台の前に回り込んできたほしみは、白衣の裾を払いながら、「今日の仕事は終わったの?」と聞いてくる。見上げてくる真っ直ぐな目につられて「いや、夜からまた任務が入ってる」と素直に答えてしまう。ほしみは「忙しいんだね」と言い、オレに椅子を勧めた。小さな丸テーブルと、揃いの椅子が三脚置かれている。

「お茶を淹れてくるね」
「そんな、お構いなく」
「遠慮しないで。よっぽど忙しい時以外、お客さんにはいつも出してるんだ。それともあまり時間無い?」
「いや…そんな事は無いけど」
「だったらちょっと待ってて。この間美味しいお茶を貰ったんだよね」

一度奥へ引っ込んだほしみは、少しして、お茶を二つのせたおぼんを持って戻ってきた。テーブルに湯飲みを置くと、ほしみは斜め向かいに腰を降ろした。

どうぞ、と勧められるまま湯飲みに口を付ける。新緑のような色をした茶は、熱すぎない温度で飲みやすかった。爽やかな茶葉の香りの中に柑橘系の後味がする。

「……美味いね」
「柚子が入ってるの。常連のおばあちゃんに貰ったんだよね」

ほしみも自分の湯飲みに口をつけ、ほっこりした顔で笑った。ほしみの表情を見ていると時々、この子は温かそうだな、という不思議な感想がわいてくる。

森の中で出会った薬屋のほしみが、オレの隣の部屋に越してきてから半月以上が経った。任務で部屋を開けることが多いオレは、不規則な生活を送っていたが、隣の彼女はどうやら、規則正しい生活をしているらしい。たまに廊下で顔を合わせる事があったが、それは決まって早朝か、宵の口だった。その時間帯に薬屋へ出勤し、マンションに帰ってくるのだろう。

同じマンションに顔を見れば声を掛け合う程度の知り合いが出来たことを、意外にも自分は好ましく思っていた。ほしみは同年代の女にしては珍しく、どこかさっぱりとした性格をしていて、隣人として理想的だったのだと思う。忍では無い一般人と会話をすること自体これまであまり無かったのだが、不思議な縁もあるものだと思う。

彼女が引っ越してきた初日、近所の定食屋で、あの晩の礼を兼ねて夕飯を奢った。向かい合って焼き魚の定食をつつきながらのんびりと会話をしたが、それは不思議と居心地が良い時間だった。たぶん、ほしみが、あれこれと詮索をしてこなかった為だと思う。薬屋という仕事柄、忍に接することにも慣れているのだろうか。それでいて、彼女から冷たい感じはまったくしないのが不思議だった。飾り気の無い言葉づかいや笑い方は、壁を感じさせないところがあって、人として好感を持てた。

だからこの間、たまたま薬屋の前を通りかかったときに、彼女とまた食事がしたいと思った。その日の昼食は、久々に落ち着いた時間となった。誰かと食事をしている時間を、名残惜しく感じるなんて。そんな感情がわいたことに、少しだけ戸惑った。


「眠りが浅くて、何度も目が覚めてしまうんだったっけ」
「……うん」

ほしみにいくつか簡単な質問をされて、それに一つ一つ答えた。悪夢を良く見るという事は話したが、夢の内容までは聞かれなかったのでほっとした。彼女の手元には白いノートがあって、さらさらと何かを書きとっていく。それを見るとも無しに見て、彼女らしい字だな、と思った。そしてすぐに、そんな事を思った自分に苦笑いした。ほしみとはまだ知り合って間もないというのに、彼女らしいだなんて。

「それじゃ、右手を出してくれるかな」
「え?」
「ちょっと触るけど、いい?」

言いながらほしみはこちらに向かって両手を差し出している。桃色がかった彼女の手のひらを見て、まばたきをした。

おずおずと右手を差し出すと、ぱっといきなり腕をとられて驚いた。

ほしみは無言で、オレの黒い長袖を肘の上まで捲り上げてしまった。彼女の温かい親指が、肘の内側をぎゅっと押した。思わず身を引いてしまう。

「じっとして」

静かに言われて仕方なく、そのまま動かないでいると、ほしみの指が確かめるようにオレの腕の上を這っていった。その手の温かさに、体温の違いに驚きながら、息をつめて彼女の指先を見ていた。

ふと、今朝見た夢を思い出す。
あれは夢などではなく、ほぼ現実にあった記憶そのままなのだが。

あの日リンの血で真っ赤に濡れた右腕を、ほしみの手がなぞっている。
何人もの命を奪ってきたこの手を、何も知らないほしみが触れて診ている事に、気が遠くなるような思いがした。
彼女の真剣な眼差しは揺らぐことなく、腕の内側、血管の上を指が移動する。

「左手も」

そう言われて、今度は自分で袖をたくしあげて彼女に差し出した。
ほしみの指が先程と同じ真剣さでオレの左腕を這うのを見ながら、静かに息を吐いた。
時折目を閉じて何かを考えている彼女の睫毛を、何となく見てしまう。
自分の脈が速くなっている事を感じながら、触診が終わるのを待った。


「少し血液の流れが悪くなっているみたい。疲れが溜まりやすくなっているから、長く眠れないのかもね」

乳鉢の中で何かを擦りあわせながらほしみが言う。薄緑色の粉末は綺麗な色をしていて、さっき飲んだお茶を思い起こさせた。オレには想像もつかないような色々な物が混ぜ合わされているのだろうけれど。

「病気って程じゃ無いけれど、放っておくとどんどんひどくなるかもしれない。だからその悪循環を断つ薬を処方するね。そんなに強い成分はいれないから、安心して」
「……ありがとう」

眠れないからと言って、病院に行くほどの事では無いと思っていたが。近頃どんどん酷くなっている自覚はあったので、ほしみに相談してみて良かったのかもしれないと思った。

できあがった薬をほしみが薬包紙に包んでいく。三角形に折られた包みがいくつもテーブルに並んでいき、その手際の良さに見とれてしまった。

『とんぷく』と書かれた薬袋に、ほしみがオレの名前を記入した。病院でよく見るような無機質な袋では無く、薄いクリーム色をしていて控えめな草花の絵柄が印刷されていた。その袋になんとなく既視感があり記憶を辿る。幼い頃にこの袋を見た事があるような……。

癖の少ないさらりとした字体で、オレの名前が記入された。なんとなく新鮮な気持ちでそれを眺めていると、ほしみが薬包紙につつまれた薬を静かにその袋の中にいれていく。

最後に残った一包みをオレに差し出して、「これはここで飲んでみて」と言われたので、大人しく受け取った。

「いきなり眠くなったりはしないから安心して。水を持ってくるね」

にこりと微笑まれてつい頷いてしまったが、夜から任務だというのに本当に大丈夫だろうか。

すぐにほしみが水を持って戻ってきたので、促されるまま薬を飲み込んだ。
薬なのだから苦いのはあたりまえだが、顔をしかめる程では無かった。

「夕食後に飲めばいいんだけれど、空腹時に飲んでも問題ないよ。疲れていると感じたら飲んでみて。初めて飲むときは、すぐに効いてくるかもしれない。何となく体の中が温かくなってこない?」

確かに、体の中がじわりと温かくなってきていた。しかし不快な熱さでは無い。

「眠くなる薬では無くて、元気になる薬、とでも思ってくれればいいから」
「……そう言われると、なんとも胡散臭いね」
「ええ!?胡散臭くないよ!この薬にはちゃんと歴史があって…」

慌てるほしみが可笑しくて、オレはくすくすと笑ってしまった。
ぽかぽかと体の奥から温まってきて、自然と自分の表情が緩むのを感じた。
やはり彼女の薬は、本当に良く効くらしい。

その時ふっと、この薬袋を自分がいつ何処で見たのか思い出した。幼い頃の自分は風邪を引きがちで、けれど母は既に他界していたし、父は任務に忙しかった。
寝込んでいると、忙しい任務の合間を縫って帰ってきてくれた父が、いつもあの薬袋を枕元に置いてくれていた。『これを飲んでおけばすぐに元気になるから、苦くても飲むんだぞ』父に心配をかけたくはなかったのに、そう言って頭を撫でられると、なんだか心がぽかぽかしたものだった。

『カカシ…側にいてやれなくてすまない』

ずっと側にいてくれなくても、構わなかった。生きていてさえくれれば、それで。

「カカシ?」

気がつけばぼんやりしていたらしい。ほしみが心配そうな顔でオレを覗き込んでいる。

「大丈夫?……まさか眠くなっちゃった?合わなかったかな…」
「いや、大丈夫だよ。ちょっと昔のことを思い出して」

首を傾げるほしみは、オレの父の事をしっていただろうか。
あの薬を処方してくれたのは、彼女の亡くなった父なのだろうけれど……。


この時のオレは、彼女も父親を亡くしているという事を、そこまで深く気にしていなかった。
父親を亡くしたばかりだというのに一人で店を継いで、気丈にふるまっているということに、まるで思いが及ばなかった。それほどに、ほしみはいつも明るくて、日だまりのように自然に笑っていたから。



温かい手



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