小さな告白と勇気


バレンタインデーに好きな人に告白したことを、私は猛烈に後悔している。


         ***


二月十四日。
同じ部署のみんなに義理チョコを渡すことは、毎年の恒例行事だった。もちろん、上司の塚内さんも例外ではない。

彼の部下になって数年、彼を好きになって数年。
そしてこれからも、塚内さんの部下でいる限り、私はずっと彼に義理チョコしか渡せないだろう。

そう思うと、無性に悲しくなった。だから今年は少しだけ勇気を出して、チョコレート専門店で美味しそうな高級チョコを買ってみた。

ただ買っただけ。でも、もしも渡せるタイミングがあったら。手作りには自信がないけれど、これなら、と。勇気を出して、買ったのだ。

けれどバレンタインデー当日。塚内さんは別の署から呼び出しがあった為、朝からずっと席を外しており、結局そのまま直行直帰になった。

初めて塚内さんの為に用意したチョコがなんだか可哀想で、ホッとしたのも事実。でも、せっかく準備したのだから、やっぱり本人に渡したい気持ちもあって。

だから、塚内さんのデスクにチョコを置いて帰ることにした。

誰もいないフロアで彼のデスクの上にチョコを置き、これだと誰からか分からないと思って、付箋に「いつもお世話になっているお礼です。お返し不要です」という一言と、自分の名前を書いて貼った。

……それで、終われば良かったのに。

あの時の私は何を思ったのか、最後に小さく「ずっと好きでした」なんてことを書いてしまったのだ。

バレンタインだからと浮かれていたのか、直接渡さないから気が大きくなっていたのか。
分からない、分からないけど、なぜか書いてしまった。


そうして翌日から、今日までの一ヶ月間。
私は塚内さんを、避けている。

仕事上、必要最低限の会話はするが、目を合わさないように気をつけ、二人きりにならないよう細心の注意を払った。
つい癖で塚内さんの横顔を盗み見しそうになっても我慢し、とにかく視界に入らないよう心がけた。

何度か塚内さんに呼び止められたことはあるが、その度に何かと理由をつけて逃げた。たまに痛いほどの視線も感じたが、目が合ったら大変なので相手が塚内さんかどうかは分からない。


……やってしまった。
なんであんなこと書いたんだろう。
そう自己嫌悪し、後悔し、恥ずかしくて死にそうになり……

そしてふと、怖くなる。

直接、塚内さんの口から「ごめん」と言われることが怖い。
振られることは分かりきっているから。

これまでの数年、ずっと塚内さんを見ていたから分かるのだ。私達は上司と部下、ただそれだけの関係であることを。
彼は、私のことを部下以上には思っていないことを。

そう、分かっていたんだ。
初めから、これは叶わぬ恋だった。

なのに、どうして私は勇気なんて出してしまったんだろう。
今以上を望んでしまったんだろう。

塚内さんの側にいられるなら、部下でもなんでも良かったのに。塚内さんの背中を追いかけて、一緒にいるだけで幸せだったのに。

なのに私が告白したせいで、きっと、これまで通りの関係ではいられない。というか現に今、すでに今までとは明らかに違う。

塚内さんに合わせる顔がなかった。
最悪だ。
公私混同してしまう自分も、自分の気持ちだけ伝えて逃げている自分も、何もかも最低で最悪。

塚内さんはさぞ困っているだろう。バレンタインの翌日、出勤したらチョコと一緒に部下から突然の告白(しかも付箋に書いただけ)……私にどう接したらいいか、分からないに違いない。

どうして好きだなんて書いてしまったんだ。勇気なんて出すんじゃなかった。時を戻せるならバレンタインデーに戻りたい。前までの関係に戻りたい。朝一番に挨拶をして、塚内さんの寝癖をみんなで笑って、仕事が片付いたら塚内さん行きつけの居酒屋に行って……
そんな毎日が、ただただ恋しかった。

私の身勝手な行動を、きっと塚内さんは変に思っている。もしかしたら嫌われたかもしれない。

「ミョウジがいると仕事がやりづらい」なんて人事課に報告され、私が異動になったらどうしよう。塚内さんと顔を合わせなくて済むけれど、近くにいられないのは寂しい。いや、そんなこと言える立場じゃないけど、でも……


「ああ……もう、どうしよう……」


……そんなことを考えながら、私は警察署の駐車場に停めた公用車の中で溜め息を吐き、冷たいハンドルに額をぶつけ、唸った。

今日は三月十四日。
迎えたくなかった、ホワイトデー。
逃げまくっている私が振られるには、絶好の日。

不幸中の幸いか、私は朝から捜査の関係で外に出ていた。仕事をしている時は集中できるからいい。気付けば、とっくに定時を過ぎた夜。もう塚内さんも帰っているだろうが、もし、まだ残っていたら。そう考えると怖くて公用車から降りられず、すでに数分が経過していた。

このままじゃ車中泊をしてしまうと思い、重い足取りで車に鍵をかけて、フロアに向かう。

職場のドアの小窓からは光が漏れていて、誰かが残業していることが分かった。

恐る恐る小窓を覗くが、誰もいない。塚内さんのデスクにあるノートパソコンも閉じられていた。

良かった、と安心し、ドアを開ける。でもまだ油断はできない。最後の人が電気を消し忘れただけかもしれないが、もしかしたらまだ誰かいるかもしれないから。

急いで公用車のキーを返却し、今日の捜査資料のファイリングだけして、即帰ろう。

そう思い、慌てて鞄の中の資料を取り出そうとしたした、その時。


「あ、おかえり」


静かなフロアに響く、大好きな人の声。咄嗟に顔を上げると、片手にマグカップを持った塚内さんがいた。


「……お、お、お疲れ様です」


驚きのあまり声が裏返りそうになる。なんということだ、まだ塚内さんがいただなんて。せめて他にも誰か残業しててくれと願ったが、塚内さんがパタンとドアを閉めたので、フロアには二人きりになってしまった。


「お疲れ。随分と遅かったね」


久しぶりに目が合った塚内さんは、いつもと同じ穏やかな表情をしている。いたたまれなくて慌てて目を逸らすと、手元がもたついて、あろうことか鞄をひっくり返してしまった。

床に散らばる、大量の資料。ドア付近にいた塚内さんの足元にまで紙が飛んでいく。


「おっと、大丈夫かい?」


そう言って、塚内さんは湯気が立っているマグカップを近くの棚に置き、資料を拾ってくれた。私もすぐに膝をつき、散乱した資料をかき集めるように手繰り寄せる。


「す、すみません、大丈夫、です」


どうしよう、泣きそうだ。
なんで私は、こんな間抜けなことをしてしまうんだろう。
せめて塚内さんの前では、しっかりした人間で在りたいのに。
恥ずかしくて悲しくて悔しくて、奥歯を噛み締める。


「はい。これで全部かな」


ふと、近くで聞こえた声。
俯く先の床に影が落ち、少し汚れた革靴と、差し出された資料の束が見えた。
塚内さんが資料を拾い集めてくれて、私の目の前まで来てくれたのだ。
座り込む私に合わせて、片膝をついている。


「……あ、りがとう、ございます」


僅かな声しか出せない。控えめに手を伸ばし、資料を受け取る。
塚内さんは、その場から動かないまま、


「……あと、コレも」


そう言って、今度は資料とは別の物を取り出した。


「……え、」


それは、淡い水色のリボンに包まれた、手のひらサイズの綺麗な箱。

驚いて、顔を上げる。
思ったよりも至近距離にいた塚内さんは、どこか困ったような微笑みを浮かべていた。


「バレンタインデー、ありがとうな。これ……お返し」


差し出された箱と塚内さんを、何度も交互に見る。

私に?
これを?
バレンタインのお返し?
お返しは不要ですって書いたのに、気を遣わせてしまった?
どうして、なんで?

頭が混乱する。言葉がでない。ただ驚いている私を見て、塚内さんは少しだけ笑った。


「ちゃんと渡せて良かったよ。君が俺のこと避けるから……今日も会えないかと思った」
「それ、は……」


言葉に詰まる。だって怖かったのだ。というか今も怖い。次の瞬間には「ごめん」と言われるかもしれないのだから。

もしかして、貰いっぱなしは嫌だから、ただお返しを用意してくれたのだろうか。なら今ここで、私はついに振られてしまう。

そう思うと、視界がだんだんとぼやけてきて。


「……え!? ど、どうした!?」


突然泣き出した私に、塚内さんがギョッとする。四角い目をまん丸にして、狼狽えている。


「す、すみません…っ、」


溢れる涙が頬を伝っていき、慌てて両手で顔を隠した。こんなのってない。今まで、どんなに辛い仕事でも泣いた事なんてなかったのに、なんで、こんな時に限って。

どうしたって流れ出す涙。塚内さんが困ってる。そりゃそうだ、いきなり部下に泣かれたら焦るだろう。それにもし、こんな場面を他の人に見られたら、変に思われるのは塚内さんの方だ。

困らせたい訳じゃない。
これ以上、好きな人に迷惑はかけられない。

もう、逃げるのはダメだ。
だから、ちゃんと言わなきゃ。


「ずっと、避けてて、……う、……すみませんでした……私、……っ、」
「お、おお、落ち着いて、大丈夫だから」


塚内さんがオロオロしている。私は止まらない涙を乱暴に袖で拭って、恐る恐る顔を上げた。塚内さんは困っているのに、やっぱり優しい表情だった。

いつだって、塚内さんは優しい。
どんなに忙しくても気にかけてくれた。
落ち込んでいる時も、悩んでいる時も、いつも前向きな言葉を掛けてくれた。
そっと背中を押してくれた。

頼りになる横顔を、ずっと見てきた。
たまに向けてくれる笑顔が、なによりも大切だった。
落ち着いた声も、どんな時も頑張る姿も、全部が眩しくて。

そんな人だから、
そんな塚内さんのことが、


「…………ずっと、好きでした」


大好きだった。
尊敬とか憧れとか、そういうのも全部含めて大好きだった。

いつから恋をしていたかなんて、もう分からない。それほどの長い年月、塚内さんを想ってきた。

本当は“部下”じゃなくて、“恋人”として側にいたいと願った。
願うだけでは、何も始まらない。
そして、叶わなくても……この気持ちだけは知ってほしい。


「……大好き、なんです」


ぼやけた視界に映る塚内さんが、どんな表情をしているのかは分からない。溢れる涙が床に落ちていくのと一緒に、また俯く。


「……告白なんて、迷惑なことをして……すみませんでした」
「……、」
「しかも言い逃げ、というか……書き逃げ、して……押し付けるようなことして、本当にすみません」
「……ミョウジ、」
「でも、…………異動は、したくありません」
「え?」
「い、異動は、っ、ひっく、……うっ……嫌です……!」


我慢していた嗚咽が漏れる。私はついに、声を上げながら号泣した。


「ちゃんと、……うぅ、ちゃんとします、だから、これからも、塚内さんの部下でいさせてください」


と、そう言ったと思う。でも信じられないくらい泣いているので、ちゃんと言葉になっていたかは分からない。

床に座り込んで、泣きじゃくりながら告白して、身勝手なことを言って……情けないにも程がある。
でも、


「一緒に、いたいんです……っ」


涙でぐちゃぐちゃになりながら、私は初めて、自分の気持ちを全部言った。こんな意味不明な告白になってしまったけれど、口にしたら幾分か心が軽くなったような気がするから不思議だ。


「…………ミョウジ」


少しの沈黙の後、塚内さんの優しい声が響く。私が俯いたまま小さく「……はい」と返事をした、次の瞬間。


「くっ、ふふ、ハハッ!」


笑い声が聞こえて、思わず顔を上げた。


「……?」
「アッハッハ! くくっ、ふっ、ハハハッ!」
「……」


笑っている。
しかも爆笑だ。
私は呆然としながら爆笑している塚内さんを見た。


「アハハ! く、ぶふっ、ハッハッハッ!」
「……え、……な、何笑ってるんですか!」


人が一世一代の告白をしているというのに、なんで笑っているんだ、この人は。しかも笑いすぎだろ。涙が引っ込んで、代わりに恥ずかしさが込み上がってきた。


「ごめん、ごめん……ハハッ、いやー、君がそこまで言ってくれるなんて思わなかったから、なんだか恥ずかしくって……嬉しくて」
「……へ?」


ポカンと口を開けた私を見ながら、塚内さんが続ける。


「あのね、君はなにか色々と勘違いしてるみたいだけど、」
「……」
「俺は、とても嬉しかったよ」
「え……」
「君からのチョコレートと、付箋の告白」
「……」
「すごく嬉しくて、夢かと思った」


塚内さんが、真っ直ぐに私を見つめる。穏やかで、それでいて照れたような表情は、私が初めて見るものだった。


「だからちゃんと話したかったのに、君がものすごく避けるから……ただ揶揄われただけなのか、よく分からなくて。ちょっとだけ傷ついた」


塚内さんが、少し拗ねたように私を睨む。そんな子どもっぽい表情も知らない私は、ただ塚内さんを見返すことしかできない。


「……俺も、ずっと好きだった」


信じられない言葉に、息が止まる。


「ずっと、ミョウジのことが好きだった」


引っ込んでいた涙が、溢れ出す。


「でも君は俺のことを、上司以上には見てないだろうって思ってた。だから……必死で隠してたんだ」


塚内さんも、私と同じことを考えていたというのか。


「毎年、バレンタインに君から義理チョコを貰うたびに、この気持ちは俺の一方的なものだと痛感してた」


ずっと見ていたのに、どうして気付けなかったんだろう。


「……でもさ、今年は違った。君の綺麗な字で、同じ気持ちだったと知った」


塚内さんが手を伸ばす。私の両手に、淡い水色のリボンに包まれた箱を、そうっと乗せる。


「ありがとう。ずっと勇気が出せなかった俺に、伝えてくれて」


これ、開けてくれないか。
そう塚内さんが続けたから、ゆっくりとリボンを解く。包装紙を広げて箱を開けると中身は、綺麗な瓶に入った、色とりどりのキャンディーだった。


「……可愛い」


丸くてカラフルなキャンディーが瓶の中でキラキラ光っている。とても鮮やかで、綺麗。

呟く私に、塚内さんは「コホン」と咳払いを一つして、


「……意味、知ってる?」
「意味……?」
「うん。ホワイトデーに渡す飴には、“あなたが好きです”って意味があるんだって」


塚内さんが、くしゃっと笑う。


「もし君が今日、戻ってこなかったら、同じようにデスクにコレ置いて、付箋に“意味は調べてくれ”って書こうと思ってた」


そうやって遠回しに、でも、ちゃんと伝わるように。

どうやら私も塚内さんも、ずっと自分の気持ちを隠していたせいで、なかなか素直になれなかったらしい。


「……受け取ってくれるかい?」


大きな手のひらが私の頬に伸びてきて、涙をすくう。初めて触れた塚内さんの体温は、とても温かい。


「……はい」


その温かい手に自分の手を重ねて、頷く。

……あの時、勇気を出して良かったんだ。

嬉しさと幸せで胸がいっぱいになって、やっぱり止まらない涙に塚内さんが苦笑する。その表情も優しくて、ただただ、幸せで。


「君はけっこう泣き虫なんだな」
「だって……嬉しくて、」
「……俺も、嬉しいよ」


そう言って、今度は髪を撫でられる。あやすような手つきが心地良い。


「そういえば異動って、なんのこと?」


ふと思い出したのか、塚内さんが首を傾げる。私は目線を泳がせながら、いろいろと勘違いしていたことを正直に伝えた。


「……その……告白したせいで、私が一緒だと仕事がしにくいから、人事に報告されるかなって……」
「ハハッ! 本当に君は深読みしてるなあ。そんなことする訳ないだろ? それに来年度も異動はないよ」
「えっ、もう異動表出たんですか?」
「今日の夕方にね。良かったな、これからも一緒だぞ」


にっ、と意地悪く笑う塚内さんが、真っ赤になる私を見て楽しそうに、また声を出して笑う。

こんなによく笑う人だったんだな、とか。
私がずっと見てきた塚内さんの姿は、ほんの一部だったんだな、とか。

これから、もっとたくさん、いろんな塚内さんを見れるんだな、とか。

そんな幸せなことを考えながら、私も笑った。



20220314 ホワイトデー


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