乞い願う


大好きな人の願い事は叶えてあげたい。例えば東京で人気の限定ケーキが食べたいと言われたらひとっ飛びして即買ってくるし、高級車が欲しいと言われたら一括で買う。貯蓄は十分すぎるほどあるので心配無用、俺にできることで彼女が喜んでくれるのならば本望である。

けれど俺の恋人――ナマエさんは無欲というか何というか、そういう願いを言ったことがなかった。自分の誕生日でさえも「苺たっぷりのホールケーキが食べたい」という可愛らしいもので、俺はそんなナマエさんのことが大好きで。

だから、彼女が何かを望んだ時には何が何でも全力で叶えたいと、そう、心に決めていたのに。


「天の川、見れなかったね」


ぽつりと聞こえた呟きに、俺は窓の向こう側を睨みながら「そうだね」と、力なく返事をした。




今日は七月七日、七夕である。一年に一度、織姫と彦星が会える日だ。前にナマエさんが「天の川を近くで見てみたい」と言ったので、「なら空で一緒に見よう」と約束していた。

珍しい彼女の願い事を叶えたかったし、翼がある俺だからこそ、誰よりも近くで星空を見せてあげられると張り切っていたのに。外はあいにくの曇り空で、星一つ見つけることができないでいた。

いくら俺でも、天気までは変えられない。
もし俺にエンデヴァーさんのようなパワーがあれば、渾身の気合いを込めたパンチを空に向かって放ち、雨雲を割ることも不可能ではないかもしれないが……なんて、無意味なことを考えて肩を落とす。


「ホークス、どうしたの?」


黙り込む俺を、ナマエさんが控えめに覗き込んだ。


「……あのさ、俺がマッチョだったら、どうする?」
「え、何言ってるの?」
「いや、もし俺がエンデヴァーさんみたいなムキムキだったら、どうかなって」


自分でも何を言ってるのか意味不明だが、ナマエさんは一瞬キョトンとした後、声をあげて笑った。


「あははっ、全然想像できないなあ。ゴリゴリのマッチョになりたいの?」
「んー……そういう訳じゃないけど……」


歯切れが悪い俺をじっと見つめながら、彼女は「うーん、そうだなあ」と考える素振りをし、


「ムキムキのホークスも素敵だと思うけど、うちのソファー狭いから、窮屈かもね」


と、部屋を見渡して笑った。


もう随分と長い時間を一緒に過ごしている彼女の部屋は一人暮らし用のもので、慣れ親しんだこのソファーも二人で座るとピッタリだ。でももし俺が巨体だったら、たぶんナマエさんのスペースはない。


「それに、今も十分に筋肉あるでしょ?」


そう言いながら、ナマエさんが俺の腕を指先でつつく。ふんっと息を込めて力こぶを作ると楽しそうに笑ってくれるから、俺もつられるように笑った。

そうしてやっと、落ち込んでいた気分と折り合いをつけることができた気がする。なんで俺が落ち込むんだよ、とは思うものの、かなり張り切っていたのだから仕方ない。


「……ごめんね。天の川、見せてあげたかったな」
「なんでホークスが謝るの。全然気にしてないよ」


来年は晴れたらいいね、と、当たり前のように未来の話をしてくれることを嬉しく思いながら、何か他にできることはないかと考える。


「あ……じゃあさ、別の願い事教えてよ」
「え?」


天の川が来年なら、今年は違う望みを叶えたい。


「せっかくの七夕なんだし、何でも言って」


今日は、特別な日だからさ。
そう付け加えると、彼女は少しも考えることなく、すぐに、自然と口を開いた。


「あなたの名前を知りたい」


小さく絞り出されたような言葉に、思わず目を見開く。

予想外で、でも、いつかは聞かれるんじゃないかと思っていたことだ。
なのに実際に聞かれてしまうと、何と返せばいいのか分からない。

言葉を失う俺を見て、ナマエさんはしまったという顔で慌てて首を振った。



「……ち、違うの。ごめん、ごめんね」


申し訳なさそうに謝る彼女の目がどんどんと潤んでいく。そんな顔させたくないのに、どうしても俺の口は動かなかった。


――名前を知りたい。


漏れ出たような願いは、きっとナマエさんが長い間求めていたものだろう。知りたいのに、俺が何も言わないから聞けずにいたのだ。それが『今日は特別な日だから』という言葉によって、口をついて出たのだ。


――俺の名前は……。


でも、俺は答えられない。こんな小さな願いさえ、叶えることができない。泣きそうな彼女に掛ける言葉を必死に探し、けれど何を言っても傷付けてしまいそうで、結局彼女を見つめたまま黙る他なかった。

そんな俺を怒るでもないナマエさんは一度目を閉じ、大きく深呼吸をしてから、俺の手をそっと握った。


「……ごめんね。困らせるって分かってたのに、つい言っちゃった」


どこか悲しげに、ナマエさんは静かに続ける。


「でも、いつか……教えてもいいって時がきたら、知りたい」
「……、」
「その時まで、ずっと待ってるから」


そう言って、俺が大好きな笑顔を浮かべてくれた。


本名を名乗らず、ろくに自分のことを話さない俺を不審がることなく、いつも隣で笑顔を向けてくれるナマエさん。『その時』がくるかも分からないのに、彼女は俺のことをなんにも知らないのに、どうして、こんなにもハッキリと言い切れるんだろう。

小さな手を握り返す。ぎゅっと力を込めると指を絡ませてくれるのが、たまらなく嬉しかった。


「……いつになるか、分からんよ?」
「うん」
「もしかしたらずっと、言えないかもしれない」
「……それは、少し寂しいけど、でもいいよ」


それでもいい、と。
私は待っていたい、と。
なおも真っ直ぐに言う彼女に、


「……本当に、待っててくれる?」


情けなく尋ねる。ナマエさんが、大きく頷く。


「おばあちゃんになっても待ってるよ。ホークスのこと、ずっと大好きだから」





確証のない、未来の話。
いつか、平和な時がきたら。
いつか、俺が自由になれる時がきたら。
その時は、どうか俺の名前を呼んでほしい。

愛しいナマエさんを抱き寄せながら願った時、窓の向こうで、曇り空が晴れた気がした。



20210723 七夕 プラス再録


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