ひとりで我慢しないで


空を飛んでいると、いろんなものが目に映る。忙しなく歩く社会人とか、談笑する学生とか。今夜は満月だから、上空からでも彼らの表情がよく見えた。

その中でふと、見覚えのある後ろ姿を発見する。いつもの見慣れたヒーローコスチュームではないのに、こんな雑踏の中でも気付くことができたのは――彼女が、俺の好きな人だからだった。

大通りから小道に入っていく背中を追って、彼女の後ろに降り立ちながら口を開く。


「ナマエさん。どーも、お疲れ様です」


俺の声に、ナマエさんが肩を揺らしながら振り返った。近くにいるのに彼女がどんな顔をしているのかは分からない。背の高いビルに挟まれたこの道は、月明かりが届かない場所なのだろう。


「……ホークス。お疲れ様、パトロール中?」
「はい。でももう今日は終わったんで、これから帰るところです」
「そっか。じゃあ、気をつけてね」


挨拶もそぞろに足早に立ち去ろうとするナマエさん。いつもなら世間話のついでに晩飯でも……なんて流れになるのに。今日の彼女はとても素っ気ない。仕事終わりで私服を着ているせいもあってか、なんだか別人のようにも見える。


「……急ぎの用でもあるんですか?」
「別にないよ。ただ疲れたから、早く帰りたいの」


冷たい対応に心の中で落ち込んだが、せっかく会えたというのにこのまま別れるのは嫌だった。周りに人がいないことを剛翼で感知しつつ、どうにか引き止めようとナマエさんに一歩近付いてみる。


「そっちの事務所、今日は随分と大変そうでしたもん、ね……って、」


そこまで言ってから、ギョッとした。
俯き加減の彼女の瞳が、暗闇でも分かるほどに濡れていたから。


「どっ……どど、どうしたんですか」


予想外の光景に慌てると、ナマエさんはすぐに小さな両手で、目元を隠すように覆った。


「なんでも、ない」


いつも笑顔で、明るい人だった。そんな彼女が声を殺すように泣いている。知り合って数年になるというのに、こんなにも弱々しい姿を見るのは初めてのことだった。


「だ……大丈夫、ですか」


咄嗟に出たのは、ありきたりな言葉のみ。こんな時こそ良く回る口の出番だろうに全く役に立たない。そんな自分が嫌になりながらも、俺は急いでポケットに手を突っ込む。


「……ええっと、よかったらコレ使ってください」


しわくちゃのハンカチを差し出すと、ナマエさんが遠慮がちに受け取った。その手は微かに震えている。


「……なにが、あったんです?」


思わず聞いてしまった不躾な問いに、彼女はハンカチで目元を押さえながら数秒、逡巡して、


「……結婚する、って」


ぽつりと、一言。


「……結、婚?」


放たれた言葉に、嫌な汗が背中を伝う。そんな俺に気付かない彼女は、涙声で静かに続けた。


「……先輩。結婚、するの」


【大人気ヒーロー、電撃結婚!!引退後は農家へ転身】


そう謳われた本日のトップニュースを思い出した俺は、ああ、そうだったのかと納得し、今度こそ口を閉じて、何も言えなくなった。








俺の事務所からほど近い場所に、ナマエさんがサイドキックを務めるヒーロー事務所がある。だから今日、このトップニュースのせいで朝から晩まで殺到するマスコミ対応に追われて、大変そうだなと。遠目に眺めながら他人事のように思っていた。

ビルボードチャートで毎年上位に入る人気ヒーローの、突然の結婚発表。相手は一般人で、結婚後は地元の農家を継ぐ、と。インタビューでそう答えていた先輩ヒーローは、とても幸せそうだった。


「……好き、だったんですね」


長い沈黙のあと、分かりきったことを口にしてしまってから後悔が押し寄せる。予想通り頷いた彼女を見て、心臓がぎゅっと締め付けられた。


「……先輩のこと、ずっと……ずっと好きだったの」
「……」
「たぶん……出会った時から、ずっと……」
「……そう、ですか」


絞り出される言葉に、気の利いた言葉一つ言えず、ただ返事をすることしか出来ない。

全然気付かなかった。ナマエさんのことはよく見ていたつもりだが、そんな素振り、ただの一度もなかったように思う。

気持ちを隠すのが上手いのか、それとも不器用なのか。なんにせよ、ずっと見ていた俺でさえ分からなかったのだから、先輩ヒーローは彼女の気持ちに微塵も気付いていないだろう。

インタビューでは、交際期間は短いと言っていた。もしナマエさんが早々に気持ちを伝えていれば、結婚相手は彼女だったのかもしれない。先輩ヒーローと彼女は二人で組むことが多く、互いに深く信頼していることは明らかで、どこから見てもお似合いってやつだったから。
ナマエさんの隣に馴染む先輩が羨ましくて、俺は嫉妬を隠しながらも、何度も二人の間に割り入ったものだ。


「ホークス……八つ当たりして、ごめんね」


黙り込む俺を気遣うように、ナマエさんが精一杯に笑おうとする。自嘲するような表情は痛々しくて、可哀想で。それでいて、どこまでも綺麗に見えた。


「……八つ当たりでも何でも、遠慮しないで、ぶつけてください。俺そういうの平気なんで」


軽い口調を装いながら、へらっと笑ってみせる。本当はちょっと冷たくされただけで落ち込んでしまったけれど、それは内緒だ。


「……ありがとね」


ナマエさんが安堵したように目を細めると、涙が一筋流れ落ちた。その雫を拭おうと思わず手を伸ばしかけ、空中で留める。行き場を失った俺の右手は何に触れることなく、やがて重力に従うように垂れ下がった。


――俺、あなたが好きです。大好きなんです。


次いで、口から出そうになった言葉を静かに飲み込む。今伝えたら困らせてしまうことは明白だ。これ以上ナマエさんの負担にはなりたくないし、弱味につけ込むような卑怯な真似もしたくなかった。

だから代わりに、


「……家まで送りますよ。ついでに空の散歩も、どうですか?」


せめて、少しでも気分転換になればと誘ってみる。


「……お願い、しようかな」


ナマエさんが頷いてくれたことに安心しつつ、引っ込めたばかりの右手を今度はきちんと差し出した。控えめに重ねられた手が、想像よりもずっと小さくて驚く。

ヒーローの彼女はとても強くて頼もしいのに、本当はこんなにも、脆かったのだ。

そっと引き寄せると、手と同じく小さな体は、俺の腕の中にすっぽりと収まった。


「しっかり掴まっててくださいね」


返事の代わりに首へと回された細腕を確認し、ナマエさんを大事に抱え、そして、一気に空へと上昇する。


「わっ、待っ、速い速い!!」
「こんなのまだまだ序の口でーす」
「さ、散歩って、普通ゆっくりするものでしょ?!」
「普通じゃあ面白くないんで」


ふざける俺にしばらく非難の声を上げていたナマエさんだったが、数分後には慣れたのだろう。俺にしがみつきながらも、やっと少しだけ、楽しさを含んだ声で笑ってくれた。


「……空って、気持ちいいね」
「でしょ。いつでも連れてきてあげる。だからさ、」


――もう、独りで泣かないで。我慢しないで。


頬にかかる柔らかい髪を撫でながら言った俺の言葉に、ナマエさんはまた「ありがとう」と呟いたと思う。ちゃんと聞こえなかったのは、堰を切ったような泣き声に掻き消されたからだった。

今は涙を拭うことすらできない臆病な俺だけれど、好きなだけ泣ける場所で胸を貸すことはできる。いつか自信を持って想いを伝えるから、その時まで、もう少しだけ待っていて。

そう気持ちを込めて、月明かりの下を静かに飛んだ。頼りない背中をさすりながら、ゆっくりと、あやすように。



20210701 プラス再録


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