二つ目の本当


突如、地響きのような轟音が聞こえた。
驚いて顔を上げた瞬間、音の正体は自分の腹の虫だったと気付き、思わず苦笑する。


「……もう、こんな時間か」


そりゃ腹も減る訳だと続けた独り言が、誰もいないフロアに静かに響いた。壁時計はとっくに二十一時を過ぎている。昼から何も食べていないことを思い出した俺の集中力は、プツリと途切れた。

ずっと睨み付けていたパソコンから顔を上げて凝り固まった首を伸ばしていると、ふとデスクの端に置いたままの可愛らしい包みが目に入る。


「良かったらどうぞ」


この部署で紅一点の部下、ミョウジが朝礼前に配っていた物だ。今日は二月十四日、バレンタインデーってやつである。


「日頃お世話になっているお礼です」


そう付け加えながら部署の全員に渡していたので、俺も受け取っていた。腹も減っているし早速いただこうと小さな包みを開ける。店名が刻まれた、洒落ている大きめのチョコレートが三粒。随分と高級そうなそれを一つ手に取って口に放り込むと、甘すぎないビターな味が広がった。


「……」


美味い。一枚百円の板チョコとは大違いだ。
でもこれは間違いなく、義理チョコというやつだろう。全員これと同じ物を貰っていたし、俺だけ特別、という要素は微塵もないので当然である。そう思うとビターチョコレートがさらに苦く感じてしまい、慌てて飲み込んだ。

俺は密かに、ミョウジに想いを寄せていた。けれど彼女にとって俺は上司だ。自分よりも立場が上の者から恋愛感情なんてものを向けられていると知れば、ミョウジはどう思うだろう。迷惑はかけたくないし、避けられるのも嫌だった。だから俺は悟られないように、何食わぬ顔でミョウジに接している。

けれどいざ、こうして分かりやすい“義理”を突き付けられると、少なからずショックを受けたのも事実で。我ながら実に面倒な性格だと思う。


「はあ……」


盛大な溜め息が出た。久しく色恋沙汰から離れていたせいで、どうすればいいのか分からないのだ。そしてこの先もきっと、何も出来ないまま時間は過ぎていくのだろう。

やがてミョウジには恋人ができて、臆病な俺は後悔をしつつも黙って諦める――そんな未来が容易に想像できて、一人で勝手に落ち込んだ。


「……ラーメンでも食うか」


腹が減っているから、こんな後ろ向きな思考になるのだ。そうだ、そうに違いない。あと二粒のチョコレートは食後にいただくとして、とりあえず飯にしよう。

デスクの一番下の引き出しから買い置きしているカップ麺を探った。焼きそばとラーメンで一瞬迷ったが、温かいスープが飲みたかったのでラーメンを手に取る。ついでにお茶でも淹れて休憩しようと思いながら、足早に給湯室へと向かった。



       ***



「それ、誰に渡すんだよ」


廊下の奥に佇む給湯室に入ろうとした時、中から誰かの声が聞こえた。思わず入り口の手前で足を止める。


「関係ないでしょう」


 続いて聞こえたのは、ミョウジの声だ。


「俺が貰ってやろうか」


もう一人の声は、確か隣の部署の男性刑事。彼は彼女の同期だったはず。


「何言ってるの。もう帰ってよ」


盗み聞きのような真似はいけないと分かっているが、意味深な会話がどうにも気になってしまい、悪いと思いつつも壁に寄り掛かった。
というか彼女はまだ残っていたのか。デスクが離れているとはいえ、全然気付かなかった。


「お前も一緒に帰ろうぜ。今日こそ飯でもどう?」
「悪いけど、まだ仕事が残ってるから」
「嘘つくなって。とっくに終わってんだろ?なあ、」
「ちょっと……!」


やめて。そう続けた彼女の切羽詰まったような声と同時に聞こえたのは、衣擦れの音。
俺は考えるよりも先に、給湯室へと勢いよく飛び込んだ。


「お、おやおや君達、奇遇だな!!」


突然の俺の登場に、ギョッとした男性刑事と、目をまん丸にして驚くミョウジ。ひんやり、冷たい空気が流れる。この場所だけ時が止まったかのように静まり返った。しまった、かける言葉を完全に間違えた。咄嗟に口をついて出た言葉の、なんと嘘くさいことか。

しかし、彼によって不自然に腕を掴まれた状態であるミョウジの表情の中に、安堵のような色が見えた俺は、作り笑顔を引っ込めて彼を思い切り睨んだ。
つい力が入ってしまい、手にしていたカップ麺の容器をバキッと握り潰してしまったが、それどころではない。


「……何をしている。ここは職場だぞ」


彼は慌ててミョウジから手を離し、気まずそうに目を逸らしながら「お、お先に失礼します」と小さく呟いて、逃げるように出て行った。

走り去る背中を見えなくなるまで睨んでいた俺が給湯室に目を向けると、こちらを見上げていたミョウジと視線が重なる。


「あ、えっと、大丈夫かい?」
「は、はい……ありがとうございます」


それきり沈黙が走る。どうしようかと考えを巡らせていると、彼女がおずおずと口を開いた。


「……それ、夜食ですか?」
「ああ、うん。腹が減ったから」


そう言いながらカップ麺を見ると、容器が真っ二つに割れていた。これでは湯を注ぐどころではないなと苦笑すると、ミョウジも少しだけ笑いながら「ちょっと待ってくださいね」と続け、棚から大きめの茶碗を取り出してくれた。それからシンクの端に片付けられていたポットに細い手を伸ばす。


「お湯を沸かしている間に中身を移すので、貸してください」
「えっ、君も忙しいだろうに、自分でやるさ」
「大丈夫ですよ。ついでにお茶でも淹れましょうか?」


手を煩わせてしまい申し訳ない気持ちはあったものの、気遣ってくれるのは嬉しい。せっかくなのでお言葉に甘えようと、割れたカップ麺を差し出そうとした時。

ふと、ミョウジが手にしていた箱が目に入った。綺麗にラッピングされた、少し大きめのシンプルなクラフトボックス。


「それ、は……」


俺の呟きに彼女は一瞬キョトンとしてから、ハッと慌てた様子で箱を背後に隠した。「あ、えっと」と赤い顔で口籠るミョウジを見て、ついさっき男性刑事が言っていた台詞が蘇る。

……あれはきっとチョコレートだ。それも、本命の。
今朝彼女から貰った義理チョコとは明らかに違うそれに思わず泣きそうになったが、なんとか平然を装った。


「やっぱりいいよ。君は、早く帰った方がいい」


身長差があるから、ミョウジに自然と見上げられる。俺は視線を逸らしつつ、苦い思いを顔に出さないよう言葉を続けた。


「じきに日付も変わるし、その……それ、相手も待っているんじゃないかな」


だから、こんなところで俺に構っている場合ではないよ。その意味を込めて言ったのだが、ミョウジは困ったような笑顔を浮かべて、やんわりと首を横に振った。


「……いいんです。もうこれは、自分で食べますから」
「なんだって?!」


思わず大きな声が出た。突然の俺の反応に彼女は「ひっ」と肩を震わせて驚いていたが、俺は構わず、


「それアレだろう?!本命だろう?!そんな悲しそうな顔をするくらいなら渡した方がいい!!絶対に喜んでくれるよ!!」


そう、力説した。
彼女は呆気にとられたようにポカンとしているが、俺の口は止まらない。


「というか君から貰えるなんて羨ましいことこの上ないのに相手は何やってるんだ全く!!」
「えっ」
「君にそんな顔させるなんて本当になんて奴だ!!」


と、そこまで言ってから、「あ」と口を押えた。
俺、今とんでもないことを口走ったような。


「あの、」
「す、すまない、大声出して」


顔に熱が集まる。そんな俺をじっと見上げていたミョウジは、大事そうに抱えていた箱を俺に向かって控えめに差し出した。


「……なら、貰ってくれますか」
「へ?!」


今度は間抜けな声が出た。何故そうなる。まさか、ねだっているように思われたのだろうか。違う、そうじゃない。そう否定をしなければと思ったのだが、俺以上に顔を赤くしている彼女が「こ、これは!」ヤケクソのような声を出したので、驚きながらも口を閉じる。


「塚内さんに、渡したかったんです……」


消え入りそうな語尾だったが、俺の耳にはしっかり届いた。


「え、でも今朝、くれたじゃないか」


半分パニックになっている頭でなんとか考え、あの高級な義理チョコを思い出す。


「だ、だって、皆さんに渡すのに、塚内さんにだけ渡さないのは変だと思って、」
「……」
「でも塚内さん、ずっとデスクに座ってるし、こんなチョコ、皆さんの前で渡せなくて」


眉間にシワを寄せながら、真っ赤な顔で必死に言葉を紡ぐミョウジ。信じられない展開に夢でも見ているのかと思ったが、タイミングが良いのか悪いのか、また腹が盛大に鳴ったので、これは現実なのだと理解する。


「……ほ、本当かい?これ、俺に?」


小さく頷くミョウジから、俺は差し出された箱を受け取った。さっきまで冷蔵庫に入れられていたのだろう冷たい箱は、沸騰しかけの体に心地良い。


「あ、開けてもいいかな」
「わ、笑わないでくださいね?初めて作ったので形が、」
「手作り?!」


いけない、またしても大きな声を出してしまった。でも嬉しい気持ちが昂りすぎて、どうにもこうにもならないのだ。


「わ、私はお茶とラーメン作っておきます」


いちいち大きい俺のリアクションに、ミョウジはついに背を向けて、ポットやら急須やらの準備を始めてしまった。俺はドキドキしながら、そうっと包みを開ける。そして現れたのは……

少し歪な、大きなハートのチョコレート。


「……ハハッ、直球だな」


あまりにも可愛らしい中身に笑うと、彼女は慌てて振り返った。


「そ、それしか型がなかったんです!笑わないでって言ったのに!」


ひどい!と続ける彼女は今にも泣きそうだ。いつも淡々と仕事をこなす冷静なミョウジの、見たことのない照れた表情があまりにも可愛くて。俺は「ごめんごめん」と謝りながらも、また笑ってしまった。


「……まだ笑ってるじゃないですか」
「いや嬉しくってさ……ありがとう。本当に、本当に嬉しいよ」
「……なら、良かったです」


どこか拗ねたような口調で、微笑んでくれるミョウジ。こんなにも柔らかく笑うのかと、新たな発見がとても愛おしい。


「なあ、お返しは何がいい?何でも用意するよ」
「え、い、要らないです。そんなつもりは……」
「いいから、」


こんなにも幸せな時間をくれた君に、今度は俺から、たくさん贈らせてくれ。




――そうして、翌日。

あんな時間に大きなハートのチョコレートとラーメンを完食した俺は盛大な胃もたれに見舞われ、ミョウジが周りにバレないよう、そっと胃薬をデスクに置いてくれて嬉しかったのは……また、別の話。



20210214 バレンタイン
プラス再録。


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