どうしたらいいか分からないんです。
急いでシャワーを浴び、最低限の身支度だけして家を出る。昨日の酒はとっくに抜けて目は冴えているのに、職場に向かう足取りは重かった。
どんな顔をしてミョウジと顔を合わせばいいんだ。分からない。ついさっきまで一緒にいたという事実が重くのしかかってくる。
一夜を共にした。
ずっと好きだった人と同じベッドで眠った。
そんな夢みたいな出来事が起こったのに、ただただ申し訳ない気持ちしか浮かばない。
「はあ……」
ダメだ、忘れるって言ったんだから昨日のことは記憶から消さなければ。もし俺がぎこちない態度を取れば、それこそミョウジに気を遣わせてしまう。
いつも通り、いつも通り。
大きく深呼吸して、いつの間にか到着していた職場に足を踏み入れる。いつもより遅い出勤だが、それでもまだ始業時間には余裕があった。
署の階段を昇り、廊下を進み、刑事課のフロアを開ける前にもう一度だけ深呼吸して、ドアを開ける。
「おはよう」
「おはようございまーす」
「昨日はお疲れっしたー」
挨拶を交わしながら横目でミョウジを探す。彼女はまだ出勤していなかった。
俺が自分のデスクに着くと、近くの席の部下達が笑いかけてきた。
「塚内警部、聞いてくださいよー! こいつ昨日飲み過ぎて、道端で吐いたんすよ」
「お前が飲ませるからだろーが!」
「ハハッ、だから気を付けろって言ったのに」
そう返事しながら、いや人のこと言えないだろと思う。俺だって飲み過ぎたのだ。あんなに酔ってなかったらミョウジに迷惑かけることもなかっただろうに……ハッ! いかん思い出してしまった、忘れろ、考えるな。
「警部、おはようございます」
「三茶……お、おはよう」
頭を抱えていると、三茶が近付いてきた。
「昨日、大丈夫でしたか?」
「……」
「警部?」
「あ、いや、うん。だだ、だ、大丈夫。ちゃんと送ったよ」
嘘ではない。俺はミョウジを家まで送り届けた。それは嘘ではないのだが、その後のことを言う訳にもいかず。どうにも居心地が悪くて目線が泳ぐ。
「……? そうですか、なら良かったです」
動揺している俺を見て三茶は首を傾げたが、特に深掘りすることなく自分のデスクへと戻っていった。冷や汗が出る。俺のことを信頼して任せてくれた三茶にも申し訳ないし、もう何が何だか分からない。
「おはようございます」
その時、男だらけのフロアに透き通った声が響いた。顔を上げなくても分かる……ミョウジの声だ。
俺は引き出しから資料を出すフリをしながら、顔は上げずに「おはよう」と返す。
忘れると決めたのに、どうしたってミョウジを直視することができない。
俺とミョウジのデスクの間には三茶や他の部下がいるから距離がある。見なければ大丈夫だと自分に言い聞かせながら朝礼の準備をしていると、視界の端にミョウジの姿が映った気がして、思わず顔を上げてしまった。
「……塚内さん」
「……ミョウジ」
近くに来たミョウジと目が合う。さっきまで酔って寝ていたとは思えないくらい、ミョウジは普段通りだった。たぶん俺のように急いでシャワーを浴びたんだろうが、彼女の髪は相変わらずサラサラで、スーツにもブラウスにもシワ一つ見当たらない。今朝の、あの泣きそうだったミョウジとは別人のように思えた。
愛想はいいが、感情を大きく顔に出すことはないミョウジ。いつもと同じ、真面目さを纏った表情。そこに僅かな戸惑いの色を浮かべながら、彼女が口を開いた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「俺の方こそ、ごめん」
お互い、小さな声で言葉を交わす。昨日俺がミョウジを送り届けたことを知っているのは三茶のみ。周りに聞かれたら厄介だ。
「いえ、私が、」
辛そうな表情のミョウジをこれ以上見ていられなくて、俺は彼女の言葉を遮った。
「大丈夫だから。君は何も気にしないでくれ」
「……」
「……ほら、もうすぐ時間だよ」
「……、……はい」
ミョウジはそれ以上何も言わず、自分のデスクへと戻った。三茶と何か言葉を交わしているようだが、ザワザワうるさい部屋では内容までは聞こえない。
いつも通り、俺は笑えていただろうか。突き放したような言い方ではなかっただろうか。
そもそも俺は普段、ミョウジにどんな風に接していたっけ。いつも通りってなんだっけ。
何も分からないまま始業のチャイムが鳴り響く。そこでやっと頭を切り替えた俺は、書類を片手に「朝礼始めるぞー」と号令を掛けた。ミョウジや三茶を含めた全員が背筋を伸ばし、起立しする。
「今年度もメンバーは変わらない。みんな、またよろしく頼む」
「「「はい!」」」
今日から新年度。また忙しい日々が始まる。
◆
「お疲れ様でした、お先でーす」
「おう、お疲れ」
仕事に集中していると、あっという間に定時を過ぎていた。新年度とはいえ俺達の課に人事異動はなかったので、特に大きな変化はない。
それでも事務仕事は山のように溜まっているので、俺はひたすら書類を片付けていた。一人、また一人と部下達が帰宅していくのを横目に、無心で仕事に取り組んでいく。
ある程度の区切りがつき、凝り固まった首をほぐそうと大きく伸びをした。ゴキゴキと骨を鳴らしながら壁時計を見れば、夜の八時。
そろそろ帰るか……昨日も遅かったし。あ、昨日といえば……ああ、また思い出してしまう。何やってんだ俺は。
今日は四月一日、どうせなら全部嘘であればよかったのに。
そんな下らないことを考えていると、ふと。もう誰もいないと思っていたフロアに人影を見つけ、目を見開く。
「ミョウジ、まだ残ってたのか」
しまった、思わず声に出てしまった。慌てて口を閉じるが、ミョウジにはバッチリ聞こえていたようで、彼女がこちらを向いた。
「相談案件の書類に、少し手間取ってまして」
ミョウジが苦笑する。お互い仕事をしているからか、特に気まずい雰囲気にもならず、いつも通りに話せそうだった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。もうすぐ終わるので」
「そうか」
「はい」
再び静まり返り、カタカタとミョウジがキーボードを叩く音だけが響く。俺達以外は全員帰っているから、日中とは打って変わって静かなフロアだ。
ミョウジの集中力を削がないよう、できるだけ音を立てずにデスクに散らばる資料を片付けていると、小さく「……あれ?」という声が聞こえた。ミョウジを見ると、パソコンの前で険しい顔をしている。俺の視線に気付いたミョウジが慌てて頭を下げた。
「す、すみません、独り言です」
「何か分からないとこでもあるか?」
「あ……え、えっと……」
申し訳なさそうに眉を下げるミョウジ。俺は席を立って、ミョウジのデスクに近付いた。
「どこだ?」
「その……ここなんですけど、」
「ああ、これはーー…」
ミョウジのパソコンを覗き込みながら、隣で説明していく。警察の資料作成は少々特殊で、とくに内部資料はややこしい箇所がたくさんあった。行政機関特有の、お堅い面倒なものである。俺も慣れるまでは苦労した。
ミョウジは昔から、事務作業よりも体を動かす仕事の方が向いているように思う。まだ俺が教育係だった頃、よくパソコンの前で頭を悩ませていた姿が懐かしい。
「ーーで、これで大丈夫。あとはここに記入して、完成かな」
「あ、これがこうなんですね……ありがとうございます」
ミョウジがパソコンから顔を上げて、安心したように笑った。いつも見ていた、いつもの顔だ。
良かった、また笑いかけてくれて。思わず頬が緩み、
「なんか昔を思い出すな。こうやって、よく君と残業してた」
なんて、言わなくていいことを口走ってしまった。
「……そう、ですね」
ミョウジが一瞬目を開いて、俯く。
しまった、必要以上にミョウジに話しかけてしまった。昨日のことは忘れるとは言え、以前のような、何もなかった頃になんて戻れやしないのに。
できるだけ距離を取らなければと慌てて自分のデスクに戻りながら、冷静さを装って口を開く。
「お、終わったなら、そろそろ帰った方がいい。明日も仕事だから」
「……あ、あの、」
「ん?」
「塚内さんは、まだ帰らないんですか?」
「ああ、俺ももうすぐ帰るよ」
「じゃあ、その……」
ミョウジが顔を上げ、さっきとは違う、どこか決意めいた表情で俺を見た。
「い、一緒に、帰りませんか」
「え」
「き、聞いてもらいたいことが、あるんです」
お願いします。そう続けたミョウジに、俺は口をポカンと空けて固まった。
「だ、だめですか……?」
「え、い、いや、わ、わわ、分かった」
分かった、けれど。
聞いてもらいたいことって……?
ハッ!
まさか「やっぱり昨日のことセクハラで訴えます」とか? それとも「許せないので慰謝料払ってください」?
いやミョウジはそんなこと言わない。でも「塚内さんと一緒の職場にいたくありません。今からでも異動させてください」なんて言われたら……どうしたらいいんだ。そばいることさえ出来なくなるのか。
帰り支度を始めるミョウジにバレないよう、俺はこめかみを押さえながら深い溜め息を吐く。
やっぱり、何もなかった頃になんて戻れやしない。