彼女の気持ち そのG


水族館の中はとても広くて、どこを見ても新鮮で楽しかった。気持ち良さそうに泳ぐ魚たちを眺めているだけで癒される。塚内さんの手はずっと温かくて、時々ギュッと握られては微笑みを向けられるから、相変わらずドキドキは止まらないけど。

ギャングオルカさん監修のシャチのショーは、カップルチケットにより最前列で観ることができた。外なのに仄暗い会場はまるで海に囲まれているようで、開演前から少しイヤな予感はしていたのだが……ショーの迫力は、想像以上に凄まじいものだった。

あ、死ぬ。食い千切られる。
そう何度思ったことか。目の前の水槽に体当たりしてくる、鋭利な牙を剥き出したシャチの群れ。地響きのような振動、後ろの席に座る子ども達の泣き声……私も半泣きになりながら塚内さんの腕にしがみついた。恥ずかしいとか照れている場合じゃない、とにかく命の危機を感じて、ただひたすらに叫んでいた。


「こ、怖かった……」


ショーが終わり、子ども達の泣いている声を聞きつつ移動する。自然と塚内さんの手を握りしめていた。

今度ギャングオルカさんに会ったら、この恐怖を思い出して泣くかもしれない。なにがカップルチケットの特典だ、思ってたのと違いすぎる。


「あははっ、大丈夫かい? ちょっと休憩する?」


半泣きで頷く私とは反対に、塚内さんはなんだか楽しそうだった。シャチの迫力に「うおっ!?」と驚いてはいたものの、しがみつく私の肩を支えてくれていたし、しっかり手も握ってくれていた。今もニコニコしてて、余裕たっぷりだ。

ちょうど近くにベンチがあったので、塚内さんと並んで座る。綺麗な水槽に囲まれた、静かな場所だった。


「何か飲み物でも買ってくるよ。何がいい?」
「あ、えと……じゃあお茶で」
「ん、分かった。ちょっと待ってて」


付近にある自動販売機に向かう大きな背中をぼんやりと眺めつつ、ふと足首に疲れを感じ、そっと撫でる。痛みはないけれど、やはり普段のペタンコの靴のようにはいかない。痛くなる前に絆創膏でも貼っておこうかな……と考えた時、塚内さんが戻ってきた。


「お待たせ。足痛いのか? 大丈夫?」


すぐ隣に座った彼からペットボトルを貰う。礼を言いつつ、見られていたことを恥ずかしく思いながら苦笑した。


「全然平気です。でも慣れてないから、ちょっと違和感があって」
「そうか……それ何センチくらいあるんだ?」
「えっと、十センチくらいです」
「十センチ!?」


塚内さんはギョッとしながら「俺だったら一歩も歩けないな……」と呟く。座っているから、歩いている時よりも彼の顔が近い。水槽の灯りに照らされた横顔がとてもかっこよくて、こんな素敵な人に私は釣り合っているのだろうかと、一抹の不安が頭をよぎり、


「……少しでも、塚内さんに近づきたくて。背伸びしちゃいました」


つい口をついて出た言葉。言ってから恥ずかしくなって、笑って誤魔化してみるも、顔の熱はおさまらない。

ちょっと背が高くなっただけで憧れの人に追いつけるはずもないのに。同じ目線に立てる訳なんて、ないのに。


「……ミョウジ」


少しの沈黙のあと、ふと塚内さんが呼ぶ。私が顔を上げのと同時に、腰に温かい腕が回って、塚内さんと私の体がぴったり引っ付いた。

至近距離にある、困ったような、でも嬉しそうな表情。仕事中には決して見られない穏やかな笑顔に見つめられると、何も言えなくて。


「……塚内さん」


思わず目を伏せる。塚内さんの手が耳のピアスに触れ、そのまま私の頬にそっと添えられる。

まるで壊れ物を扱うような優しい触れ方だと思いながら目を閉じ、塚内さんが近付いてくる気配に緊張と期待が高まった時、

――ベチャッ!

すぐ近くで聞こえた音に驚いて目を開けると、


「う、うわぁぁぁん!」


直後に、男の子の泣き声が響いた。

塚内さんも私も突然の出来事に慌てて体を離す。どうやら男の子が座っていた塚内さんにぶつかり、手にしていたアイスを彼の膝にぶち撒けたようだった。


「大丈夫!?」


私は恥ずかしさから逃げるように男の子の隣にしゃがみ込み、ハンカチで男の子のベタベタになった手や口を拭った。塚内さんも椅子から滑るように降りて、男の子の横に片膝を立てて屈む。


「怪我してないか!?」
「う、うう、アイス、ぼくのアイス……」


空になった容器を持って泣いている男の子に見覚えがある……あ、水族館の入口でぶつかった子だ。


「ごめんな、同じの買ってやるから泣かないでくれ」
「うええええんっ! アイス、アイスぅ」
「あはは……困ったな」


タジタジになって男の子に謝る塚内さんは完全にお手上げ状態で、なんだか面白い。
滅多に見られない姿を目に焼き付けつつ、私は周りを見渡しながら男の子に問いかけてみた。


「きみ、お母さんは?」
「え……あ、ママ、どこ?」


男の子は辺りをキョロキョロと見て、そして、また泣いた。


「迷子か……よし、受付の迷子センターに行くついでにお母さんを探そう」


塚内さんが立ち上がる。私は「あ」と顔を上げた。


「塚内さん、ズボン洗わないと……」
「ああ、これくらいどうってことないさ」
「でもシミになりますよ。この子は私が連れていくので大丈夫です」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」


紺色のスラックスだから汚れは目立たないが、ベタついているだろう。私は未だ泣いたままの男の子の頭を撫でつつ、塚内さんを見上げた。


「では、先に行ってますね」
「ああ。すぐ追いつくから」


塚内さんがトイレに駆けていくのを見送ってから、男の子と目線を合わせる。


「お母さん、一緒に探そうか」
「ひっく、う、うん……ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「ごめんね、チューするの邪魔しちゃって」
「えっ」


男の子の言葉にカッと顔が熱くなった。


「チューだ! って思って見てたら、ぶつかっちゃったの」


だから、ごめんね。
そう言ってシュンとする男の子になんと返せばいいのか分からず、私はドギマギしつつ立ち上がった。


「あ、謝らないで、大丈夫だから、うん」
「お姉ちゃん、顔赤いよ?」
「そっ、そんなことないよ! ほ、ほら、お母さん探しにいこう!」
「うん!」


泣き止んだ男の子が、私の右手をギュッと握る。そういえばここは外だったと反省しつつ、さっきの塚内さんとの距離を思い出すとまたドキドキしてきた。
あのまま男の子がぶつからなかったら、私は塚内さんと……

だ、だめだ。このままだと頭がのぼせてしまう。一旦考えるのはやめよう。
今は男の子のお母さんを探しつつ、迷子センターに行くことだけを考えなきゃ。









迷子センターは水族館の入口付近にあり、ここからは少し距離がある。人の数も増えてきており、男の子にお母さんの特徴を聞きつつ辺りを見渡したが見つからなかった。

不安そうな男の子の手をしっかり握りつつ、迷子センターの看板が見えてきた時。そこから女性の大声が聞こえてきた。


「息子が迷子なんです! おっ、お願いします、早く放送を!」
「お、落ち着いてください! 分かりましたから、少し落ち着いて!」
「私のせいで息子が、息子が!!」


取り乱している女性が、受付のお姉さんに泣きついているのが遠目に見える。一目で男の子のお母さんだと分かりホッとしていると、男の子も母親に気付いたのか、私の手を振り解いて走り出した。


「ママ!」
「あ、ちょっと待って!」


まだ受付までには距離がある。男の子が人混みに押されて怪我でもしたら大変だと急いで追いかけると、今度は違う声が聞こえてきた。


「ギャーギャーうるせぇんだよババァ!」
「な、なんですか、あなたは!」


怒鳴る声と、戸惑うような母親の声。


「鬱陶しいクソが!」
「なっ、なにを……っ!」


母親の小さな叫びが聞こえたのと同時に、人混みを抜けた男の子の後ろ姿と、受付が視界に入る。

体の大きな男が、母親の胸ぐらを掴んで今にも殴ろうとしていた。


「マ、ママ!」


駆け寄ろうとする男の子に気付いた母親が「来ちゃダメ!」と声を上げる。私は全力で走り、男の子の腕を掴んで引っ張った。


「どいつもこいつも……うるせえんだよ!!」


男は振り上げた腕を、鋭利な刃物に変形させる。


「キャァァァァァァァ!!」


それを見た受付のお姉さんが悲鳴を上げ、腰を抜かし、その場に座り込んだ。


「うるせぇ! 騒いだら殺すぞ!」


男が刃物に変形した腕を振り回しながら、母親の首を掴んで威嚇する。

異様な光景に周りの人々が気付き、「ヴィランだ!」「助けて!」と叫び声を上げながら走り出した。

押し寄せる人の群れから男の子を庇うが、勢いが強くて鞄がどこかに飛んでいく。それでもなんとか耐え、受付に向かった。


「いや、やめて!」
「黙れっつってんだろーが!!」
「きゃっ、」


母親の首筋に刃物が突きつけられる。


「喚くんじゃねえ! 死にてえのか!」


興奮状態の男に、私は咄嗟に声を上げた。


「やめなさい!」
「うせろクソアマ! 邪魔だ!」


必死で声を堪えている母親が、助けてという目で私を見た。受付のお姉さんはいつの間にか駆けつけた警備員に保護されたようで、姿は見えない。


「マ、ママ、ママ……!」


すぐ後ろで男の子が泣いている。私は臨戦態勢を取りつつ、周りに男の仲間がいないか見渡した。

悲鳴を上げながら逃げ出す人々の群れに、こちらを窺っているような気配はない。数人の警備員が男を囲んでいるだけだ。おそらく突発的な攻撃だろう、男は孤立無援の状態である。

しかし、男の腕は人質である母親の首を今にも切り裂く勢いがあり、踏み込むことができない。

ここにヒーローはいないのだろうか。きっと誰かが通報しているだろうが、このような屋内で事件が発生した場合、駆けつけるのに時間がかかってしまう。

母親を救えるのは自分しかいない。なんとかしなきゃ……でも、どうすれば……

必死で最善策を探していると、ふと視界の端に小さな影が映る。


「ママをはなせ!」


男の子が、泣き喚きながら飛び出した。

それを見た男は母親を突き飛ばし、男の子に向かって刃物を振り上げる。

男の子、危ない、でも母親は解放された、どうすれば……

男の子を守ろうと身を乗り出しながら、咄嗟に判断
ができず思考が鈍る。

このままじゃ私もろとも男の子が。
そう思った瞬間、


「ミョウジ!!」


声が聞こえた。

この喧騒の中、ハッキリと耳に届いた声に、私の脳内に昔の記憶が蘇る。



ーー「君、大丈夫か!?」


あの時、お巡りさんは。



私は体勢を立て直しながら降りかかる男の刃物を避け、そのまま懐に入り込み、男の顎に向かって右手のひらを突き上げる。男がよろけた隙に足を払うように蹴り、そのまま思い切り腕を掴んで放り投げた。


「ぐっ!」


男が仰向けに倒れる。背中を地面に打ち付けて白目を剥いた。


ーーあの時、自分よりも大きいヴィランを投げ飛ばした、お巡りさん。

あの時のお巡りさんを思い浮かべるだけで、何も迷わず、全く同じことができた。


「う、うぅ……」


なおも起きあがろうとする男の腕を捻り上げ、拘束する。自分の体には警察学校で習った逮捕術も、塚内さんに教えてもらった柔道の技も、全部しっかりと刻まれていた。


「か、確保!」


誰かが叫び、周りを囲んでいた警備員達が男を取り押さえる。男は暴れながら抵抗していたが、やがて数には抗えないと諦めたのだろう、悪態をつきながらも大人しくなった。

警備員達に揉みくちゃにされながらも顔を出し、母親と男の子の無事を確認。良かったと安心しつつ、私は二人に近付いた。


「怪我はありませんか?」
「は、はい……あ、あ、ありがとう、ございました……!」


顔色が悪いものの、大きな怪我はなさそうな母親が頭を下げる。「顔を上げてください」と言うと、母親の瞳から涙が溢れた。それを見ていた男の子もつられるように声を上げる。


「うわぁぁぁん! ひっく、うぅ、ママぁ!」
「もう……あんたは無茶して……!」
「だって、だってぇ……うぁぁぁん!」


泣きながら抱き締め合う二人。男の子の行動は驚いたし危なかったけれど、お母さんを守りたい一心で頑張ったのだろう。母親もそれを分かっているから、怒りながらも息子を抱き締めて離さないのだ。

震えながら泣き続ける母親の背中を撫でていると、ふと「ミョウジ!」と呼ばれ、顔を上げる。
 

「無事か!?」
「塚内さん! はい、大丈夫です」


ほんの少し離れていただけなのに、塚内さんの顔を見ると安心感が胸に広がった。「本当に大丈夫なのか!?」と何度も確認され、あまりの心配っぷりに少しだけ笑いそうになったけど我慢する。

これまでも仕事中に、もっとひどい怪我をしたことは何度もあったけれど。ここまで焦っている姿を見るのは初めてだった。

ヨロヨロと立ち上がろうとする母親を塚内さんと一緒に支えながら、私も腰を上げる。男の子はずっと泣いているが、母親を一ミリも離すまいと必死に抱き付いていて、なんだか微笑ましい。



「一体何があったんだ」
「それが……」


塚内さんの問いに答えようとした時、近くにいた警備員がこちらに近付いてきた。


「ありがとうございました! 本当に助かりました!」


深く頭を下げられ、若干戸惑いつつ首を横に振る。


「私は警察なので、気にしないでください」
「警察の方でしたか……道理で……」
「それより、避難誘導は大丈夫ですか?」
「はい。先程ヒーローが到着したので、滞りなく進んでいます」
「そうですか、良かった」


あの人数でパニックが起これば避難するだけでも大変だろう。ヒーローが来てくれて良かった。

ふと、遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。警備員は改めて私を見た。


「すみません、これから事情聴取などあるので、少しお時間よろしいですか?」
「あ……」


……すっかり忘れていた。ここまで派手にやってしまうと完全に聴取の対象である。そっと塚内さんを見上げてみるが、彼も同じことを思っているのか苦笑していた。


「すみません、デートの邪魔をしてしまって」


警備員に笑って言われ、思わず首を振りながら頷く。他人からデートと言われると、こんな状況だというのに照れてしまってどうしようもない。


「い、いえ、大丈夫です」
「では……こちらに」


歩き出す警備員についていく前に、私は塚内さんの腕をそっと引っ張って、背伸びをしながら耳打ちした。


「知り合いに会うかもしれないので、先に車に戻っていてください」


ここは私達の署の管轄から離れた場所だが、事情聴取は警察が行うので、知り合いに会う可能性がある。

休日の水族館で、私服の刑事が二人して並んでいるところを目撃されれば、誰でも付き合ってると思うだろう。塚内さんに迷惑は掛けたくないので、それだけは避けたい。


「……分かった」


小さく頷いてくれた塚内さんは何か言いたげだったけれど、警備員に「こっちです」と急かされてしまった私は、後ろ髪を引かれる思いでその場を去った。



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