彼女の気持ち そのE


出勤する時よりも早く起き、朝から身支度に力を入れた。入念にスキンケアをし、いつもはベースメイクとアイブロウだけで終わるメイクも入念にした。

塚内さんの好みは分からないけど、とにかく少しでも良いと思われたい。ラメが可愛いアイシャドウを瞼に置き、アイラインもマスカラもして、チークも塗った。普段なら色付きのリップクリームだが、ブラウンレッドの口紅を塗る。あとはリップグロスを重ねて……よし、まあこれでいいだろう。

髪の毛も少しだけ巻いて、緩くまとめる。久しぶりにピアスもつけて、昨日準備しておいたシャツワンピースに着替える。あまり付けない香水をシュッと振り、全身鏡で最終チェック。


「……ちょっと気合い入りすぎかな」


鏡の前で前後左右、全て確認するが、なんだか変な気がしてきた。普段の百倍くらい時間をかけたので色々とやりすぎているのかもしれないが、自分では加減が分からない。


「ど、どうしよう……」


ついウキウキして準備したけど、あまりにも普段と違ったら塚内さんに引かれないだろうか。考えれば考えるほど心配で不安になってしまう。

しかし、ふと時計を見ればもう十時五十分。一からやり直す時間はない。

仕方なく、鞄とクリーニングの紙袋を持って玄関に向かう。昨日散々悩んだヒールを履いているとスマホが震えた。塚内さんからの『着いたよ』というメッセージだ。すぐに『行きます』と返事を送って家を出る。

ドキドキ、ワクワク、ウキウキ、ハラハラ……形容し難い気持ちでエレベーターに乗り、誰もいなかったので備え付けの鏡で前髪を整え、おかしいところがないか何回も見た。顔を近づけ過ぎて鏡と私の距離は一センチくらいだったけど、誰もいないから良しとしよう。

一階に着き、エントランスを通り抜け、マンションの外に出ようとした時。
私は自動ドアの前で足を止めて、目線の先にいる人物に釘付けになった。


「え……う、嘘……」


あ、あの、かっこいい人って、まさか……塚内、さん?

道路の脇に停めている黒いSUV車、その車体にもたれかかり、腕を組みながら遠くを眺めている男の人は、さながらモデルのようである。
白いカジュアルなシャツと紺色のスラックスを着こなし、髪型もいつもより整えられている気がした。

どうしよう。あんな素敵な人の横に並ぶなんて、そんなこと私に可能なのか? 釣り合っていないにも程がある。ほんの少し背伸びをしたからといって、近づけないことは明白だった。

……でも、いつまでもこうしてたら塚内さんを待たせてしまう。私が変でもきっと塚内さんは優しいから、「なんだその格好は、着替えてこい!」なんて怒鳴らないはず。

私は怯む自分を奮い立たせ、自動ドアをくぐって塚内さんに駆け寄った。


「つ、塚内さんっ、お待たせしました」
「……」
「塚内さん……?」


塚内さんが目を見開き、私を上から下まで見る。ど、どうしよう、やっぱり変だったんだと冷や汗をかきそうになった時、


「……可愛い」
「えっ」


聞こえてきた言葉に、自分の顔が瞬時に熱を持ったのが分かった。え、え、今なんて……


「すごく可愛い……綺麗だ」


ど直球に言う塚内さんが、笑顔を浮かべている。


「えっ、あ、……あ、ありがとう、ございます……」


私は予想だにしない言葉に喉が詰まりそうになりながら、なんとか絞り出すように答えるのが精一杯だった。ま、まさか可愛いなんて……綺麗なんて……そんなこと言われるとは思わなかった。すごく恥ずかしいけど、嬉しい。


「……ん? その荷物は……」


ふと塚内さんが私の手元に視線を向ける。私はすっかり存在を忘れていた紙袋を差し出した。


「あ、これ、お借りしていたコートです。クリーニングに出していたら遅くなってしまって……」
「コート?」
「はい、……飲み会の時の……」


飲み会の時、私を包み込んでくれたコート。さすがにそこまで言えず言葉を濁すと、塚内さんが思い出したように「ああ、」と頷いた。


「わざわざクリーニングなんて……ありがとう」
「いえ、シワだらけにしちゃったので……こちらこそありがとうございました」


コートを抱きしめながら号泣したせいで、シワどころか涙の痕まで付けてしまいました……それは内緒にしておこう。

紙袋を受け取った塚内さんは、その流れで助手席のドアを開けてくれた。


「立ち話してごめん。さあ、乗って」
「あ……はいっ」


自然で、紳士的な仕草にドギマギしつつ、ピカピカの車に乗り込む。塚内さんのすぐ近くを通る瞬間、ものすごくいい匂いがして思わず吸い込みそうになった。いつもの太陽のような石鹸みたいな香りとは違うけど、ほんのり甘いような爽やかな香りは塚内さんによく似合っていた。

助手席のドアが優しく閉められる。車内では洋楽が流れていて驚いた。偏見だが塚内さんはラジオのニュースを聞いているイメージだったので、オシャレな曲にさらにドキドキしてしまう。

後部座席にクリーニングの紙袋を置いた塚内さんが運転席に乗ったので、私は慌ててシートベルトを装着する。緊張しすぎて口から心臓が出そうだけど、いつもパトカーや公用車に乗る時と同じだと思えば大丈夫だろう。
私が運転することもあれば、塚内さんが運転してくれる時もある。その時と一緒だ。

そう自分に言い聞かせていると、視界の端に映る塚内さんがこっちを見ていることに気付いた。


「……塚内さん? どうされましたか?」
「君が可愛いから、つい見ちゃうんだ」


……!!


「な、何言ってるんですか!」


つい大声で返しながら、至近距離で言われる言葉に収まっていた熱がブワッとぶり返す。そんなに真っ直ぐ見つめないで……!


「なんか雰囲気が違うね。君はいつも魅力的だけど、今日はいつにも増して綺麗だ」


歯が浮くようなセリフだ。塚内さんの歯は大丈夫なのか? 今の衝撃でどこかに飛んでいったのではないか?
思わず彼の口元を見るが、白い歯はちゃんと並んでいるし、ニコニコと効果音がつきそうな笑顔まで浮かべていた。

塚内さんって、こんなこと言うの?
こんなに笑うの?

普段とあまりにも違う彼の言動に思考がパンクしそうになって、私は真っ赤になっているであろう顔を両手で覆い隠した。


「……わ、私……張り切りすぎてませんか?」
「え?」
「だって、今日のデート……すっごく楽しみで……」


塚内さんは淡白で、化粧なんかにも気付かないタイプだと思っていたのに。こんな、こんなにも言葉に表してくれる人だったなんて思わなかった。


「メイクも服も……塚内さんの好みが分からないから、考えすぎちゃって……自分でも訳分からなくて」


そこまで言ってからハッとする。つい心の声を出してしまった。「私何言ってんだろう……!」と独り言まで呟いてしまい、どうにもできなくて縮こまる。シートベルトをしていなかったら車から逃げ出していたと思う。

しばらくの沈黙のあと、いきなりゴンッ!という音が響き、車が揺れる。驚いて顔を上げると、塚内さんがハンドルに自分の額をぶつけていた。


「塚内さん!? 何を……!?」
「……ああ、うん……ハハッ」
「大丈夫ですか!? あ、おでこが赤くなってる!」
「大丈夫大丈夫、平気だよ」
「で、でも……」


ど、どうしたんだろう……ハンドルに体重でもかけて滑ったのだろうか。
私の心配をよそに、塚内さんは額を赤くしながら目を細めて笑った。


「……ありがとう。たくさん考えてくれて」
「……」
「今日のミョウジ、世界で一番可愛いよ」


ま、また歯の浮くようなセリフを!


「……お、大袈裟ですよっ」
「大袈裟なもんか。本当だよ、本当にすっごく可愛い」


大真面目な顔で塚内さんが言う。恥ずかしいのに嬉しくて、もう何が何だか分からないまま私の頬は緩んだ。


「……塚内さんも、」
「ん?」


もう一度、彼を見る。私の方に体を向けてニコニコしている塚内さんは、仕事中の無表情とは全然違って、そして、


「今日……すごくカッコイイ、です」


言ってから、また顔から火が出そうになった。
いつもと違う髪型も、シワ一つない服も、全部が新鮮で素敵で。
もっと言いたいのに、塚内さんのように私の口は動かなくて、歯が羽くどころか溶けそうで、たった一言しか言えないのがもどかしい。

塚内さんは慌てたように前を向き、自分のシートベルト慌てながら引っ張った。


「そ、そうか」
「……はい」
「……良かった。ミョウジにそう言ってもらえて嬉しいよ」


チラッと横目で見ると、塚内さんはさっきとは打って変わって真っ赤になっていた。

褒める言葉をスラスラ言ったり、ニコニコしたり、こんな風に照れたり。けっこう長い付き合いなのに初めて見る塚内さんばかりで、私のドキドキは止まらなかった。


「……じゃあ、そろそろ行こうか」
「はいっ、お願いします」


塚内さんがゆっくりとアクセルを踏み、車が発進する。そのかっこいい横顔を盗み見しながら、私は流れてくる洋楽に耳を澄ませた。



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