彼女の気持ち そのD


太陽の光で自然と目が覚める。寝過ぎたかと一瞬焦ったが、まだ九時にもなっていない。
良かったと安心しつつスマホを確認すると、塚内さんからメッセージが届いていた。


『ありがとう。おやすみ』


たった一言なのに頬が緩んでしまう。今まで仕事関連の事務的なやり取りしかしていないかったから、「おやすみ」と言われただけで舞い上がりそうなほど嬉しい。


「……返事……どうしよう」


この「ありがとう」は栄養ドリンクのことだろう。いい返事が思い浮かばない。しかもメッセージが届いたのは夜中だから、きっと塚内さんは徹夜だったはず。こんな朝っぱらから通知音で起こしてしまうのは避けたい。
でも明日の誕生日、プレゼントを渡したいから予定も聞きたいし……どうしよう。

たぶん今日はしっかり休みたいだろうから、夜にでも連絡してみようかな。
そう決めて、私は身支度を始めた。









いつもよりゆっくりと準備し、デパートに向かう。目当てはもちろん塚内さんへのプレゼントだ。

メンズフロアは中々に広い。せっかくなので端から順番に回ることにした。普段なら足を踏み入れない場所なので新鮮である。
スーツや服を眺めながら「塚内さんに似合いそうだな」と考えるのはとても楽しい。塚内さんはいつも黒か紺色のスーツだけど、グレーとかストライプなんかも似合いそうだ。

ゆっくり見ていると、フロアの奥に小物専門のブランド店を発見。迷わず入ってショーケースを覗き込んでいると、初老の紳士みたいな店員さんがやってきた。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「えっと、ボールペンってありますか?」
「ボールペンでしたら、こちらのコーナーに種類がございます」


案内されたショーケースには数多くのボールペンが並んでいた。価格も様々で、数百円から十万円以上までと幅広い。


「お、多いですね……どれにしようかな……」


あまりにも種類が多くて驚いていると、店員さんがショーケースを開けながら口を開いた。


「どのような物をお探しですか?」
「えっと……贈り物なんですけど、男性が仕事で使えそうな物がいいなと」
「でしたら、この辺りはいかがでしょうか。大人の男性に人気のデザインで、書き心地もいいですよ」


店員さんがいくつかのボールペンをトレーに入れて差し出してくれたので、手に取ってみる。どれもスタイリッシュで、手に馴染む感じも良い。
どの一本にするか決めかねていると、


「こちらの種類でしたら、名入れ刻印も可能ですよ」


そう言って、一本のボールペンを前に出してくれた。


「名入れ……」
「はい。名入れをすることでより高級感が演出されますし、品格のある男性へのプレゼントとしておすすめです」


ボディ部分がベーシックなブラックで、とても洗練されたデザインのそれは、とても塚内さんに似合うと思った。


「じゃあ、これにします。名入れは……N.Tでお願いします」
「かしこまりました。では少々お待ちください」


店内のソファに案内されて刻印を待つ間、塚内さんが喜んでくれる姿を想像するとニヤけた。早く渡したい。好きな人にプレゼントを選ぶのってこんなに楽しいんだなとしみじみ思う。
来年は何を渡そうか。その前にクリスマスもある。気が早いけれど、これからずっとこの楽しさが続くと思うと、それだけで幸せな気分だ。


「お待たせいたしました。こちらになります」
「ありがとうございます!」


お会計をし、紙袋を受け取る。とても綺麗に包装されたチラッと小箱が見えて、嬉しくなった。


「きっと喜んでもらえますよ」


優しく微笑んでくれる店員さんに、私も笑って頷いた。









気付かない間に時間は経っていたようで、デパートを出るともう夕方だった。駅前のカフェで晩御飯を済ませ、クリーニング屋さんに寄り、出していた塚内さんのコートを受け取ってから帰宅する。

買ってきたプレゼントとクリーニングの紙袋をテーブルに置き、私は正座をしながらスマホを見つめた。


「……なんて誘おうかな」


メッセージ画面で何度も文字を打っては消した。

『明日、誕生を一緒にお祝いしても良いでしょうか』?
『明日もしお時間ございましたら、会っていただけませんか』?

なんか違う。しかもかなり堅苦しい。でも仕事以外で連絡したことがなかったから、こんな時の言い回しがまるで分からなかった。

というか予定があったらどうする? 先約がないとは言い切れないし、そもそも私達の関係は恋人で合っているのだろうか。
そんなことを考えていると、ふと、玉川さんに「ただ、警部はああ見えて鈍感だから。ちゃんと伝えないと、お前の気持ちには気付かないと思う」……と言われたことを思い出した。


「……いっそ、デートに誘ってみようかな」


周りくどい言い方をせず、直球で聞いた方が早いような気がしてきた。「デート」という単語を使えば鈍感な塚内さんも意識してくれるかもしれないし、もし断られてもプレゼントは後日渡せばいいだけだ。

そうと決まればデートに行く場所を決めなければ。塚内さんが行きたそうな場所を考えてみる。野球に関わるもの……野球観戦、は、ちょっと騒がしいので今回はやめておこう。バッティングセンターもなんか違う。


「……あ、そういえば」


確か、海沿いの水族館がリニューアルされたはず。観光名所でありデートスポットとしても有名な場所だ。


「王道すぎるかな……」


水族館なんてベタだろうか。でも緊張して会話が続かなくても、比較的に静かな水族館なら誤魔化せるだろうし、自分達のペースでゆっくり回れる……いいかもしれない。よし、水族館にしよう。
すぐにメッセージ画面に向き直り、ポチポチと文字を打ってみる。


「えーっと……『こんばんは。明日のご予定をお聞きしたいのですが』……違うな、『もし良ければ明日ご一緒に水族館へ』……」


やっぱり堅い。それにもう夜だ。メッセージだと気付かないかもしれない。今、彼は何をしてるのだろう。塚内さんのプライベートは謎に包まれているので分からないけれど、でも……せっかくなら声も聞きたかった。


「……『こんばんは。お時間あれば、電話してもいいですか』……送信!」


悩みつつ、勢いで送信。迷惑じゃないかなと不安に思った瞬間、なんとスマホが鳴り出した。ビックリしてスマホを落としそうになりつつ画面を見れば、表示されているのは塚内さんの名前で。

咄嗟に正座しながら背筋を正し、慌てて電話に出た。


「は、はい、ミョウジです」


仕事中と同じ名乗り方をしてしまったと焦る私をよそに、電話口からは微かな風の音と、『あ、ミョウジ。どうした?』と、塚内さんの柔らかい声。


「へっ、あ……えっと、その……」
『?』


まさか塚内さんから電話がかかってくるなんて思っておらず、うまく言葉が出てこない。このままじゃ変に思われちゃう、


「……な、何してるかな、って思いまして」


しまった……! そのまま聞いてしまった……!
瞬時に顔が熱くなる。どうしよう恥ずかしいと冷や汗をダラダラかいていると、ふっと笑う息遣いが聞こえた。


『……俺も今、同じこと考えてた』
「えっ」


予想外の言葉に目を見開く。仕事中とは全然違う穏やかな声に心臓が早鐘を打った。


『ミョウジは何してる? 俺は買い物にいくとこ』
「わ、私もさっきまで出掛けてて、帰ってきたところです」


そっか、今外にいるから風の音がするんだ。なら忙しいのではと思ったが、塚内さんはそのまま続けてくれた。


『そっか。ゆっくり休めたかい?』
「はい。あの……昨日、大丈夫でしたか? デスクに書類溜まってましたけど……」
『明け方まで掛かったけど、ほとんど終わらせたよ。あ、栄養ドリンクありがとう。すごく助かった』
「……お役に立てたなら、良かったです」


不思議な気持ちだ。長年一緒に過ごしてきたのに、想いを伝えてからの塚内さんは声も別人みたいに思えて、ドキドキする。

塚内さんは今日、お昼まで寝て、家の掃除をしていたらしい。自分のことを楽しそうに話してくれるのがたまらなく嬉しかった。

それから些細な世間話をいくつかして、少しの沈黙が生じた時。私は意を決して口を開いた。


「……あ、あの、」
『ん?』
「…………あ、明日って、何かご予定あります、か」


塚内さんはしばらく考えた後、『何もないよ』と笑う。


「……じゃ、じゃあ、あの……、その、」


口が回らない。こんなにモジモジするなんて自分で自分を殴りたいが、それは後回しだ。


『あははっ、どうした?』


塚内さんが吹き出すように笑う。顔から火が出そうだが、頑張れ、頑張るんだ私……!


「……あ、明日、デート、しませんか」


……よし! 言えた! ものすごく歯切れ悪いし小声になったけど言えた!
思わず安心していると、数秒の沈黙の後、


『え!? デデデデ、デート!?』


驚く塚内さんの声。


「は、……はい。急なお誘いで、すみません」


こんなに驚く塚内さんは初めてで、戸惑った。何かボソッと聞こえた気がするが、風の音でちゃんと聞き取れない。
塚内さんは『あ、いや何でもない』と慌てたように言ってから、


『うん、しよう。デートしよう!』


と、返事をくれた。


「……はいっ!」


嬉しすぎて、私は電話だというのに何度も首を縦に振る。じゃあ次は水族館を提案しようと思った時、


『……なあ、ミョウジ』


少し、真面目な声。私は言いかけた言葉を飲み込み、もう一度姿勢を正した。


「はい、なんでしょうか」
『……この前、ちゃんと言えなかったんだけどさ、』


一体なんだろう? 頭に疑問符が浮かべていると、


『俺、ミョウジのことが好きだ』


聞こえてきた言葉に、息を呑む。


『これからはミョウジの、かっ、かりぇ、彼氏として、そばにいたい』


塚内さんが珍しく噛んだけど、それを揶揄う余裕もない私は、スマホを握ったまま固まった。


『職場のみんなには……まだ言えないし、窮屈な思いをさせてしまうかもしれない。でも、』


一言一言、丁寧に伝えられる言葉が、じんわりと胸に広がっていく。


『君を大切にする。……俺と、付き合ってほしい』


どうして、この人は私が欲しい言葉を言ってくれるのだろう。私の願いを叶えてくれるのだろう。
昔からそうだった。
助けてくれた時も、指導してくれた時も、いつもずっと、塚内さんの言葉に救われてきた。


「……はい」


返事はもちろん決まってる。嬉しくて、泣きそうで、どんどん塚内さんへの気持ちが膨らんでいく。

風の音と一緒に、彼の安心したような息遣いが耳に届いた。あんなに悩んでいたことが嘘のように一瞬で消え去って、頬が緩む。私達は恋人、私は塚内さんの、彼女なんだ。


『……デート、どこか行きたい所ある? 車出すよ』
「え……いいんですか? 疲れてないですか?」


車なら私が、と思ったけれど、塚内さんは『全然大丈夫だよ』と優しい口調で続けた。


『今日ゆっくり休んだから、遠慮しないで』
「……ありがとうございます。じゃあ、……海沿いの水族館は、どうでしょうか」


プライベートで塚内さんの車に乗るなんて夢みたいだと思いつつ、そっと提案してみる。


『いいね。そうしよう。迎えは何時頃がいい?』
「お、お昼もご一緒していいですか」


水族館は半日もあれば回れるけど、少しでも長く一緒にいたくて。咄嗟にランチも聞いてみた。


『……うん、もちろん』


良かった。
塚内さんの声色はずっと穏やかで優しくて、たくさん悩んで良かったと思う。

水族館までの道中に何かあったかな……あ、そうだ、同期とよく行くカフェがある。あのお店はオシャレだし美味しいから、きっと塚内さんも気に入ってくれるはず。


「では……十一時頃お願いしてもいいですか? お昼はオススメのカフェがあるので、明日案内します」
『ありがとう。じゃあ明日、君の家の前に着いたら連絡するよ』
「はいっ」


ああ、どうしよう、嬉しい。塚内さんとデートの約束をするなんて少し前の自分では考えられないことで、生きてて良かったと心底思った。


「……そういえば塚内さん、買い物の途中でしたっけ?」


電話口から聞こえる微かな歩く音に、ふと塚内さんが外にいることを思い出した。


『あ、そうだった忘れてた』
「長々すみません」
『ううん、電話できて良かったよ』


……だめだ、そんなこと言われると顔がニヤけて止まらない。


「……私もです。……明日、楽しみにしてますね」
『……俺も』
「……えへへっ、じゃあ、そろそろ切りますね」


我慢できなくて笑ってしまった。気持ち悪くなかっただろうか……どうか聞こえていないことを祈ろう。

本当はもっと話したい。声を聞いていたい。でもこれ以上引き留めてしまうのは迷惑だから、名残惜しいけど切らなきゃ。


「……おやすみなさい」
『……おやすみ』


しばらくの沈黙の後、そっとボタンを押して切った。静かになったスマホをテーブルに置いてから、クッションを抱き締めてソファに転がる。


「……はあ……」


溜め息が出る。でもこれは諦めとか疲れの類ではなく、幸せの極みの溜め息だ。
頭の中で塚内さんの言葉を思い出してはキャー! とクッションに顔を埋め、恥ずかしくなってはまた叫ぶ。何度か繰り返して落ち着きを取り戻した頃、ハッとした。


「こうしちゃいられない……!」


冷静になり、クローゼットを開ける。明日の服を決めなければ。今日デパートに行った時に可愛い春物を買えば良かったと後悔しつつ、普段あまり着ない私服を物色する。

塚内さんはどんな服装だろうか。思えば私服姿なんて見たことがない。スーツ以外……ポロシャツとかかな? 想像がつかないけど、塚内さんならどんな服でも着こなせるんだろうな。

隣に並んでもおかしくない格好をしなきゃ。デートだから綺麗めな服にしよう。確か前に買ったシャツワンピースがあったはず……あ、あった。


「……あと、カーディガンと……鞄はこれにして……」


手持ちのアイテムを合わせてハンガーにかけていく。最後は靴だ。急いで玄関に移動してシューズクローゼットを開け、服に合いそうなものを探す。


「あ、これ……」


色や形が気に入ったけど、まだ一度しか履いていないベージュのヒールが目に入る。高さがある割に歩きやすいものだが、水族館は歩く場所だ。もっとヒールの低い物の方がいいかもしれない。でも、


「……これだったら、少しは近づける、かな」


塚内さんは背が高くて、年上で、視野も広くて、経験も豊富な人だ。私なんかが追いつけるはずはないと分かっていても、ほんの少しでも彼に近づきたかった。同じ目線に立って世界を見てみたかった。


「……」


一応履いてみて、足の感触を確認。いつものパンプスとは全然違うが、痛くなったら絆創膏を貼ろう。それに、あのシャツワンピースにはこの靴が一番合う気がする。

まだ新しい靴を並べて置き、鞄の中に絆創膏と、今日買った塚内さんへのプレゼントを入れる。そういえば電話で、誕生日をお祝いしたいって言うの忘れてた……明日会ったら、一番に伝えよう。

クリーニングに出したコートも忘れないようにしないと。スキンケアも念入りにして、全身のマッサージもしなくちゃ。髪の毛もトリートメントして……とにかく少しでも綺麗になりたい。

ドキドキ、ワクワク。楽しみな気持ちを感じながら、私はお風呂に向かった。



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