彼女の気持ち そのC


泣き止まない私の背中を優しく撫でながら、塚内さんが「好きだ」と言ってくれた。信じられなくて、夢のようで、ただただ嬉しくて。
何度も何度も耳元で告げられる言葉に涙が引っ込み、恥ずかしさが込み上げた時。塚内さんが顔を上げたから二人で見つめ合った。「ハハッ、真っ赤だ」なんて笑われて、額をコツンと合わせながら、私も笑う。

そうして手を繋ぎ、ゆっくりと歩いた。夜風が火照った顔を冷ましてくれたけれど、塚内さんの手がとても熱くて、やっぱり私はずっと顔が赤かったと思う――


「あ、朝だ……」


カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。いつの間にか朝を迎えていた。


「ゆ、夢じゃない……」


昨日の塚内さんを思い出し、また顔が熱くなる。数えきれないほど言われた「好き」という言葉を思い出し、恥ずかしさのあまりジタバタしていたらベッドから落ちた。痛い、顔から落ちた、この痛みは本物である。

痛む鼻を押さえつつ、とりあえず起きようと顔を上げれば、テーブルの上に畳んであるベージュのコートが目に入る。

塚内さんのコートだ。昨日の朝、号泣しながらコートを握っていたせいでシワクチャにしてしまったコート。今日こそクリーニングに持っていかなくてはと思い、急いで体を起こした。

昨日も一昨日も泣いたせいで瞼が腫れぼったい。が、心は浮き足立っているように軽く、まだドキドキしていた。

塚内さんが私を好きだと言った。私と同じ気持ちだった。耳に残っている彼の必死な声を思い出しては顔がニヤけて、変な笑い声が出てしまいそうだ。


「ダ、ダメだ、ちゃんとしなきゃ」


こんなんじゃ仕事中もニヤニヤしちゃって、塚内さんに引かれてしまう。せっかく両想いだったのに嫌われたくなんかない。腑抜けている自分に喝を入れながら、私は身支度を始めた。









早朝から営業しているクリーニング店にコートを預け、通勤路を歩く。少しでも気を抜けばすぐ塚内さんのことを考えてしまうが、幸せが溢れて自分でもどうしようもなかった。なんとか奥歯を噛み締め、緩む頬を我慢する。どんな顔で塚内さんと接したらいいのだろう。フラれる覚悟でいたから、この予想外な事態に表情筋が追いつかない。いつもと同じ真顔を徹底していれば大丈夫だろうか。

そんなことを考えていると職場が見えてきたので、一度立ち止まってから深呼吸。空気ってこんなに美味しかったっけ……と自然に感謝していると、署の入口から玉川さんが出てくるのが見えた。私は小走りで近付く。


「玉川さん、おはようございます」
「おはよう」


丸い猫目が私をじいっと見つめて、笑った。


「大丈夫そうだな」
「え?」
「昨日、ヴィランみたいな顔色だったから」


ハッとする。昨日の朝、絶望に打ちひしがれていた私に、玉川さんがチョコレートをくれたんだった。


「昨日はありがとうございました。もう大丈夫、です」


頭を下げながら、玉川さんに昨日のことを伝えてもいいのだろうかと悩み、口を閉じる。
私としては今すぐにでも全部言いたいところだが、塚内さんは周りに知られたくないかもしれないし、職場恋愛を周りに言い振らすのはダメだろう。

ずっと相談に乗ってくれていた玉川さんには報告したい。私達、まさかの両想いでした! と踊りながら全身全霊で報告したい。
が、そもそも私と塚内さんは付き合っているのか? と疑問が浮かぶ。好きだと言ってくれたけど、それだけ。大人同士なのだから暗黙の了解というやつだろうか……分からない。
だからと言って本人に「私は塚内さんの彼女ですか」なんて聞くのは、ちょっと、いやかなり恥ずかしい。

私が黙り込んで考えていると、玉川さんがコホンと咳払いを一つ。


「……やっぱり、大丈夫じゃないのか」
「あ、いえ、その……」


なんと答えればいいのか分からず口籠る。玉川さんは私の肩をポンと叩いた。


「俺はしばらく張り込みで戻らないが、しんどかったら俺のデスクにあるチョコ食べていいぞ」
「玉川さん……」


彼の背後から後光が見える。玉川さんが眩しい、もはや神様、仏様だ。なんて優しいんだろう、後輩の私情の悩みにここまで配慮してくれるなんて……思わず両手を合わせて拝む私の頭を玉川さんが「やめろ」と小突いたが、私はひたすら念仏を唱えて合掌した。


「いい加減にしろ。じゃあ俺は行くからな」
「は、はい! ありがとうございました! お気をつけて!」


ビシッと敬礼する私に呆れながらも、玉川さんが片手を上げて公用車専用の駐車場へと歩いていく。輝いて見える後ろ姿を見送りながら、もう一度深呼吸して気合いを入れた。いつまでも玉川さんに心配をかける訳にはいかない。
背筋を伸ばし、腑抜けている思考も正す。そうすれば自然と顔も引き締まった気がした。




玉川さんと別れてフロアに向かうと、なにやら楽しげな笑い声。その中には塚内さんの声も混じっていて緊張したが、すぐに真顔に戻って部屋に入った。


「おはようございます」
「おはよう」


私の挨拶に塚内さんが穏やかに答える。昨日は合わなかった視線が重なり、微笑むような表情に思わず頬が緩んだ。嬉しくて、気恥ずかしい。やっぱり夢じゃなかったんだと今更ながらに安心してしまう。


「なあなあミョウジ、今日の塚内警部いつもと違くね?」


私が必死でニヤけるのを我慢していると、先輩が笑いながら言った。思わず塚内さんを見るが視線を逸らされる。ほんの少しだけ照れているような、困ったような横顔は何度見ても素敵なもので。


「……塚内さんはいつも……、」


かっこいいですよね。と言いかけて、慌てて口を噤む。危ない、こんな場所でそんなこと口走ったらみんなから揶揄われるだけじゃ済まない。
だいたい先輩はなんでそんなことを聞くんだろう、いつもと違うところなんて……あ。

なんだろう、塚内さんのオーラが明るく見えるような気がした。いつもの真面目さを纏った雰囲気もクールで素敵だけど、今は……柔らかい春の風みたいな……


「……あ、えっと。今日は一段と爽やかですね」


そう言ってから、心の中で爽やかってなんだよと自分で突っ込む。まるでいつもジメジメしてるみたいな言い方をしてしまった。どうしようと思っていると塚内さんが控え目に私を見たので、恥ずかしくて笑いそうになって、耐えた。危ない、せっかく気合いを入れたのに簡単にニヤけそうである。


「そうそう、爽やか! よく分かったなミョウジ」


先輩がウンウンと感心している。当たり前だ、私がどれだけ塚内さんを見てきたと思ってるんだとフフンと鼻を鳴らしたい。が、お調子者の先輩とこれ以上話していると墓穴を掘りそうなので、私は話を中断するようにデスクから書類を取り出した。



「思ったことを言っただけです。それより、起案の決裁お願いします」
「おー、昨日の相談案件のやつか」


昨夜、塚内さんに教えてもらって完成した資料である。先輩がすぐ自分のデスクに戻ったので、私も席に座り、パソコンの電源を入れながら溜まっている書類の処理を始めた。

塚内さんのことは一旦頭の隅に置いといて、今は仕事に集中しなくちゃ。









今日は、かなり忙しい一日だった。相変わらず書類は減らないし、通報は多い。玉川さんが終日張り込みで出ていたことと、塚内さんが昼からいなかったことも重なり、今日の刑事課は一段と慌ただしかったと思う。

なんとか落ち着きを取り戻したのは、夜の九時を大きく回った頃だった。先輩達が「久しぶりの二連休だー!」と喜びながら帰っていくのを横目に、私も自分の仕事を終わらせ、誰もいなくなったフロアで大きく伸びをする。


「今頃、飲み会かな……」


フロアの壁には、刑事課のメンバーのスケジュールを書くホワイトボードがあり、今日の塚内さんの欄には「会議・接待」と記載されていた。近隣の署との合同会議と、親睦会も兼ねている恒例の飲み会である。

塚内さんは公用車で出かけたので飲まずに署に戻ってくるだろう。ふと彼のデスクを見れば山のように書類が積まれていて、おそらくこれを見た塚内さんは徹夜で片付けるだろうなと思った。

急ぎの案件もあるし仕方ないが、体調は大丈夫かな……心配だけど、私や先輩達が代わりに処理できる書類はないので、せめてもの気持ちとして常備している栄養ドリンクを置いておいた。一応「お疲れ様でした」と書いたメモも一緒に。

一目だけでも塚内さんの顔を見たかったけど、待っていても手伝えることはない。私は諦め、戸締りのチェックをしてからフロアを出た。










帰り道にあるコンビニで適当にお弁当を買って、家に帰る。ソファに座ると一気に眠気が襲ってきた。そういえば今日はろくに眠れなかったと思いながら、買ってきたお弁当を一口。


「……今週はいろいろあったな」


鶏そぼろ丼を食べつつ考えるのは、もちろん塚内さんのこと。

どうして、私を好きになってくれたんだろう。いつから好きでいてくれたんだろう。あれだけ彼を見つめていたのに、なんで気付かなかったのかな。

仕事中の塚内さんと昨日の塚内さんは、まるで別人みたいだった。あんなにも切なそうな顔で、あんなにも真剣に想いを伝えてくれる人だなんて。

記憶の中の、お巡りさんの塚内さんを思い出す。今思えばーーあのお巡りさんは、私の初恋だった。

中学生の私はそれに気付かず、鮮烈な彼の姿に憧れた。周りの友達が「オールマイトが好き!」と言うのと同じで、私にとってはお巡りさんがヒーローだったのだ。

高校、大学と進学していく中で彼氏という存在がいたことはある。仲良くなって、告白されて、付き合う……自然な流れだ。でもどうしても長続きしなかった。それは警察になった当初も同じで、同期や友達に紹介されてなんとなく付き合っても、最終的にいつも「お前は俺を見てないよな」とフラれた。

恥ずかしい話だが、相手はみんな塚内さんに似ていたと思う。背が高くて、黒髪の短髪で、真面目そうな人。私は勝手に塚内さんを重ねていたのだ。相手に失礼だったし最低だと思うけど、無意識だった。

刑事課に異動し、憧れの塚内さんが教育係になってからは、恋愛なんてしている場合ではないと仕事に没頭した。塚内さんに認めてもらいたい一心で彼の背中を追いかける日々を過ごした。

柔道が得意な塚内さんに頼み込んで、稽古をつけてもらったことも多い。私を助けてくれた時に見た投げ技を、私もできるようになりたかったのだ。
塚内さんは私相手でも容赦はなく、何度投げ飛ばされたか分からない。でも私は泣かず、ひたすら塚内さんに掴み掛かった。ただただ、あの時のお巡りさんみたいになりたかったから。
何度も稽古を頼む私に塚内さんは「俺から一本取ってみろ」と、時間を見つけては真剣に向き合ってくれて、それがすごく嬉しかった。

そんなある日、私はやっと塚内さんから一本取る。たぶん背負い投げだったけど、必死すぎてあまり覚えていない。けれど、痛そうに咳き込みながらも「やるじゃないか!」と笑ってくれた塚内さんの笑顔は覚えてる。悔しそうで、でも嬉しそうな、くしゃっとした笑顔。その顔を見た時、とてもドキドキしたことも。

こんな顔で笑うんだ、と驚いた。記憶にあるお巡りさんでも、仕事中の塚内さんでもない……どこか幼くて、可愛らしい笑顔。
笑いかけられた瞬間、心臓が跳ねた。やっと一本取れたのにうまく笑えなくて、全身が熱くなって、自分が変になったと思った。

それからはどう塚内さんに接したらいいのか分からず、私はずっとドギマギしていたと思う。
教育係が終わってからは出来るだけ塚内さんに近寄らず、分からないことは隣のデスクの玉川さんに聞くようになった。

何を聞いても淡々と教えてくれる玉川さんに、つい気が緩んでしまって「塚内さんって彼女いるんでしょうか」なんて聞き、玉川さんを宇宙猫状態にしたのも昔の話。それから今まで、玉川さんは相談相手である。


「玉川さんにはお世話になったな……」


これまでのことを思い出しながら、すっかり冷めてしまったご飯を食べつつ、何かお礼をせねばと考えてみる。
確か以前「連休が欲しい」って嘆いていたな……今週、ほとんどの班員は二連休だけど、玉川さんは今日から張り込み捜査に入っているから休めないはずだ。今度、代われる仕事があったら私がやろう。そして玉川さんに連休をプレゼントしよう。


「プレゼント……、あ!」


ふと思い出す。もうすぐ塚内さんの誕生日だということを。


「ど、どうしよう」


プレゼントって、渡してもいいのかな。ずっとお祝いの言葉すら掛けれなかったけど、塚内さんと両想いである今はもう気にしなくてもいい、はず。

でも付き合おうとか、そういう言葉がない今の関係は一体何なんだろう。塚内さんは気にしていないかもしれないが、この誕生日をキッカケに私からもう一度、ちゃんと告白した方がいいかもしれない。

しばらく悩み、とりあえずプレゼントだけは渡そうと決めた。候補はすでにある。毎年贈ろうか迷って、結局諦めていた物……ボールペンだ。

塚内さんはいつも職場から支給される十本百円のボールペンを使っているが、筆圧が強く、使用頻度も高いことから、毎日のようにペン先を折ったりインクを切らしている。疲労が溜まりすぎて握力がおかしくなったのか、ボールペン本体を真っ二つにしていたこともあった。

塚内さんの筆圧や握力に耐え、インクが長持ちする
物……そんな実用的なボールペンなら喜んでもらえるだろうか。

それとも王道にネクタイやネクタイピンの方がいいのな。でも塚内さんの好みが分からない……いつも深緑やネイビーなどのシンプルなネクタイだけど、たまに黄色と黒のストライプというド派手な柄の日もあるから、ちょっとよく分からない……やめておこう。

塚内さんは野球が好きで、私も昔はバッティングセンターによく連れて行ってもらった。でもバットとか専用の靴とか、そういう専門的なアイテムはよく分からないし、それこそ自分に合わない物を貰ったら困るだろうな……やめておこう。


「うーん……やっぱりボールペンかな」


散々悩み、結局ずっと考えていた物にしようと決める。もし好みの物でなくてもボールペンなら使えるし、十本百円の物よりはマシなはず。明日、早速デパートに行って探してみよう。


「よし。……って、もうこんな時間か」


もうすぐ日が変わる。食べ終わった物を急いで片付け、お風呂に入り、ベッドに倒れ込むと秒で眠気が襲ってきたので、私はそのまま目を閉じた。



- ナノ -