彼女の気持ち そのB


仕事に行きたくない。休みたい。そう思っても時間は止まらず、時計の針は刻一刻と進んでいく。しかも今日は年度始めである。私は泣きながらシャワーを浴びて、赤い目元をコンシーラーで隠し、憂鬱な気持ちで家を出た。

まるで鉛でもついているような重い足を引きずりつつ、通い慣れた道を歩く。頭の中は塚内さんのことでいっぱいで、あの温もりや匂いを思い出すだけで泣きそうだった。

なんとか我慢して、刑事課までのフロアに足速に向かう。もうすぐ始業のチャイムが鳴る頃だ。


「おはようございます」


できるだけ小さな声で挨拶を口にする。とっくに出勤していた塚内さんはもう仕事を始められる雰囲気で、こっちを見ずに「おはよう」と返事しただけだった。

いつもなら、目が合って笑いかけてくれるのに。
涙を堪えながら自分のデスクに向かうと、隣の席の玉川さんが私の顔を覗き込んだ。


「おはよう。二日酔いは大丈夫か?」
「おはようございます……大丈夫です」


二日酔いどころではないのだが、今の私はきっと暗い表情をしているだろう。玉川さんは苦笑しつつ、小声で私に耳打ちした。


「昨日、酔ったお前を塚内警部に任せたんだが、覚えてるか」
「は……はい」


今朝まで一緒にいただなんて言えず、曖昧に頷く。玉川さんはそのまま続けた。


「なら警部に礼を言っとけ。ついでに昨日の詫びとして、飯でも誘ったらどうだ」
「え」
「もうすぐ警部の誕生日だろ。お祝いしてやったら喜ぶんじゃないか」
「玉川さん……」


きっと玉川さんは、何も行動しない私を思って、キッカケをくれたんだ。そのキッカケを無駄にするだけでなく自らの手で恋を終わらせた、なんて。頑張れよと親指を立ててくれる玉川さんには死んでも言えない。

本当は今すぐにでも玉川さんの膝にすがりついて大声を上げて泣きたいけれど、「ほら、さっさと言ってこい」と背中を押されては、もう逃げられず。


「……塚内さん」


……せめて、もう一度ちゃんと謝ろう。覚悟を決めて塚内さんのデスクに向かう。ぱっと顔を上げた塚内さんはいつも通りに見えるけど、昨日よりもクマが濃い気がした。そりゃあんな状況で熟睡なんてできないだろう。それに比べて私はしっかり眠らせてもらった。むしろ塚内さんの温もりと匂いに包まれて、いつもよりも深く眠れた気さえする。自分の図太さが嫌になった。


「……ミョウジ」
「本当に、申し訳ありませんでした」


周りに聞こえないよう、小声で言いつつ頭を下げる。塚内さんが少しだけ悲しそうに目を伏せた。


「俺の方こそ、ごめん」


朝からずっと謝ってくれるけど、ごめんと言われるたびに胸が抉られるようだ。私が悪いのに、どうして何回も謝るんだろうか。遠回しに告白の返事をしているのだろうか。「俺の方こそ君の気持ちに応えられなくて、ごめん」……そういう意味なのだろうか。

もう謝らないでほしくて、塚内さんの瞳をじっと見ながら声を上げる。


「いえ、私が、」
「大丈夫だから」


塚内さんが、私の言葉を遮った。


「君は何も気にしないでくれ」


冷たく、突き放したような言い方だった。
目の奥が熱くなって、涙が溢れそうになる。我慢しなきゃ、こんなところで泣いたら大惨事だ、泣いちゃダメ。奥歯を噛み締めながら手のひらを強く握る私は何も言えなくて、ただ塚内さんを見返した。


「……ほら、もうすぐ時間だよ」


ふっと視線を逸らした塚内さんに、ああもう本当に終わったんだと実感しながら、なんとか返事だけして自分のデスクに戻る。


「どうだった?」


玉川さんが私を見てギョッとしたのが分かった。たぶん今の私は死にそうな顔で、ヴィランもびっくりして逃げ出すような悲壮感を纏っているに違いない。


「……玉川さん、色々とすみませんでした」


昨日のことも、これまでのことも、全部。玉川さんに今すぐ土下座したかった。


「……いや。また今度、聞いてやるから」


そう言って、個包装のチョコレートを一粒手渡してくれた玉川さん。優しい心遣いにまた泣きそうになりながら、私は涙と一緒にチョコレートを飲み込む。甘いはずなのに、とてもしょっぱかった。

そうこうしていると始業のベルが鳴り、塚内さんが号令を掛ける。いつもの癖で背筋を伸ばして起立したけれど、どうしても塚内さんの顔が見れなくて、彼の後ろの壁を見て誤魔化した。


「今年度もメンバーは変わらない。みんな、またよろしく頼む」
「「「はい!」」」


返事をして、一度ぎゅっと目を閉じる。今日から新年度が始まる。私の恋は終わったけれど、仕事だけはしっかりしなければ。

きっと忙しさに没頭していれば時間が忘れさせてくれるはず。これからは仕事に生きればいい。もう、塚内さんのことは考えちゃいけない。









年度始めから、刑事課は相変わらずの忙しさだった。終わらない書類地獄、舞い込んでくる事件、今日だけで何度パトカーに乗ったか分からない。春は犯罪が増える傾向にあるが、それにしても多すぎると思う。

しかも夕方、署に戻ってから受けた電話相談がややこしかった。資料作成が終わらない。昔からデスクワークが苦手だったけれど、今日はあまり頭が回らないせいで普段よりも時間がかかっている。私はものすごく焦っていた。


「(早く終わらせて帰らなきゃ……)」


気付けば、フロアには私と塚内さんだけだったのだ。なんで今日に限ってみんな帰るのが早いんだろう、いつも誰かしら残っているのに。

昨日の今日で二人きりは避けたい。その思いで、ひたすらパソコンの画面に集中する。

塚内さんは朝からずっと山のような書類と戦っていた。分刻みで掛かってくる内線電話で誰かに指示を出したり、たまにスーツのジャケットを引っ掴んで出て行ったりと、とにかく忙しそうだった。

仕事に集中している時の塚内さんは周りが見えていないので、私がいることにも気付いていないだろう。今のうちに終わらせて、さっさとバレないように帰らなければ。
そう思っていたのに、


「ミョウジ、まだ残ってたのか」


突然かけられた言葉にびくりと肩が揺れる。見つかってしまった……私はできるだけ平然を装って、そっと顔を上げる。


「相談案件の書類に、少し手間取ってまして」


この緊張を誤魔化すように笑ってみる。


「手伝おうか?」


思わぬ返答に声が引っくり返りそうになりながも「大丈夫です。もうすぐ終わるので」と逃げるように言って、再びパソコン画面を睨む。いつも通りの優しい塚内さんに拍子抜かれた気持ちになった。

塚内さんは仕事に私情は持ち込まない人だ。だから今朝のことも、私が思うよりも気にしていないのかもしれない。

このまま無かったことにできたら、また前のように戻れるのかな。

そんなことを考えていると、なにやら画面がおかしいことに気付く。何度クリックしてもキーボードを叩いても入力できず、思わず「あれ?」と声が出てしまった。
視線を感じてチラッと横目をやると塚内さんが私を見ていて、慌てて頭を下げる。


「す、すみません、独り言です」
「何か分からないとこでもあるか?」
「あ……え、えっと……」


口籠もっていると塚内さんが席を立ち、すぐ近くにやってきた。私のパソコンを覗く拍子にふわっと石鹸の香りがして、今朝の出来事が頭をよぎる。


「どこだ?」


塚内さんはもちろん、何も気にしていない。このままじゃ喋ることすらままならないと思い、必死に気を引き締めた。


「その……ここなんですけど、」
「ああ、これはーー…」


丁寧に説明してくれる塚内さんの言葉を聞きながら、一つ一つ手順を踏んでいく。


「ーーで、これで大丈夫。あとはここに記入して、完成かな」
「あ、これがこうなんですね……ありがとうございます」


問題はあっさり解決し、ほっと胸を撫で下ろした。公文書の独特なシステムには未だ不慣れで、手こずってしまう。
パソコンから顔を上げてお礼を言うと、塚内さんがふっと微笑みながら口を開いた。


「なんか昔を思い出すな。こうやって、よく君と残業してた」


いつもと変わらない口調で塚内さんが小さく笑う。
その言葉に「……そう、ですね」と返事をしながら、昔のことを走馬灯のように思い出してしまった。


――あの時、私がヴィランに襲われた時。

私を助けてくれたお巡りさんがかっこよくて、あんな風になりたいと思った。ヒーローの手が届かない、誰かを助けられる……そんな警察官になりたいと思った。

高校で柔道と剣道を習い始め、大学時代も必死に勉強した。警察学校時代は毎日かなり辛かったけれど、いつか塚内さんに会えることを支えに頑張った。

警察官になって最初に配属されるのは交番だ。だから周りの人にそれとなく聞いて、塚内さんの苗字だけを頼りに、今はどこで勤務しているのかを必死で調べた。

今の署の刑事課にいると知り、そこからは一層仕事に打ち込んで、ひたすら訓練をして。実績を積みながら、刑事課への異動願いを出した。

女性刑事は人数が少ないことや、たまたま席が空いていたこと。いろんな奇跡が重なり、二年目にして私の願いは叶った。

ようやく会えた塚内さんは、もちろん私のことなんて覚えていない。当たり前だ、あの頃の私は中学生だったのだから。

でも、そんなことはどうでも良かった。私はただ、塚内さんのような立派な警察官になりたかったのだ。でも信じられないことに、塚内さんは私の教育係になって、いろんなことを指導してくれた。交番勤務とは全然違う仕事内容に最初は戸惑っていたけど、ずっと憧れていた人と同じ場所に立てたことが嬉しくてたまらなかった。

塚内さんは出会った頃から何も変わらず、一生懸命な人だった。この人の下で働けるなんて、この人に直接指導してもらえるなんて。毎日が幸せで、警察官という仕事にもっとやりがいを感じて。

ずっと、塚内さんの背中を追っていた。
置いていかれないように、はぐれないように、たまに無茶をする彼を一人にしないように。

そして振り返ってくれた時、一番に笑いかけてもらえるように。誰よりも近くで、優しい笑顔を見ていたいと――




「お、終わったなら、そろそろ帰った方がいい。明日も仕事だから」


黙り込んだ私に背を向けながら、塚内さんが言う。彼の背中はあの頃と変わらず、大きい。


……このままでいいの? 自分で自分に語りかける。ずっと塚内さんを見ていたあの日々を、なかったことにしていいの? 忘れられても、いいの?


「……あ、あの、」


考えるよりも先に、塚内さんに向かって声を上げていた。「ん?」と振り返る姿をじっと見つめる。


「塚内さんは、まだ帰らないんですか?」
「ああ、俺ももうすぐ帰るよ」
「じゃあ、その……」


背筋を伸ばす。こんな中途半端な形で終わらせたくなんて、ない。


「い、一緒に、帰りませんか」
「え」
「き、聞いてもらいたいことが、あるんです」


お願いします。
祈るように言うと、塚内さんが口をポカンと空けて固まった。困ってる、ごめんなさい、でも、


「だ、だめですか……?」


聞いてほしい。
あんな朧げな告白じゃなくて、せめて、ちゃんと伝えたい。


「え、い、いや、わ、わわ、分かった」


塚内さんのどもる声に罪悪感を感じながら、私は覚悟を決めた。









静かな夜道。塚内さんは私の一歩後ろを歩いていて、隣に並べない距離が悲しかった。

こうして話せる時間ができたのは嬉しいけれど、これからどうしよう。無言のまま頭をフル回転させるが答えが出ない。

ふと近くに公園があることを思い出し、自動販売機も発見したので、「つ、塚内さん、喉渇いてませんか」と白々しく聞いてみる。塚内さんはゆっくり頷いてくれた。


「俺が買ってくるよ。何がいい?」
「いえ、私が買います」
「でも、」
「お、お願いします。昨日のお詫び……にもならないですけど……とにかく買ってきます」


捲し立てるように言って自動販売機に駆け寄る。緊張しすぎてボタンを押す指が震えていたけど何度も深呼吸して、やっとの思いで塚内さんの好きなブラックコーヒーを買う。肌寒いからホットにした。落ち着くには糖分が必須だと思い、自分の分はココアを選ぶ。

公園の中心に佇むベンチに塚内さんが座っていたので、コーヒーを渡してから私も隣に腰掛ける。二人の間には距離があって、ほんの一人分の空間なのに、遠く思えた。

缶を開ける音が響くほど公園は静かで、せっかくの甘いココアなのに味は全然分からない。

塚内さんがグビグビと、まるでビールのようにコーヒーを飲み込む音が聞こえる。熱くないのかなと心配したが、もしかしたら早く帰りたいのかもしれない。
また泣きそうになったけれど、なんとか口を開いた。


「……塚内さん」
「……うん」


穏やかな声だ。いつも落ち着いているこの声も、好きだった。


「昨日は、……本当に申し訳ありませんでした」


もう一度、誠心誠意謝る。例え許してもらえなくても、迷惑をかけたことは事実だから。


「もう謝らないでくれ。謝るのは俺の方なんだから」


違う、本当に私が悪いんだ。
そう言おうとした瞬間、


「その……そんなに気に病ませてしまって、嫌な思いをさせて、ごめん」


思わぬ言葉に一瞬、戸惑った。


「ミョウジ?」


ココアの缶をギュッと握る。なんでそんなこと言うの、私は、


「い、嫌なんかじゃ、……ない」


嫌なもんか。

我ながら情けない声だと思う。でも堰を切ったように気持ちが溢れて出して、もう止められなかった。


「わ、私は……夢だと、思ったんです」


顔を上げて、隣の塚内さんを見つめる。気持ちと一緒に涙も溢れそうだった。


「久しぶりのお酒で、眠くなって……でも、誰かが私を包んでくれてたことは、ハッキリ覚えてます」


フワフワとした意識の中で感じた、確かな温もり。とても心地よくて、幸せだった。


「すごく温かくて、優しくて、……それが塚内さんだったらいいなって、願った」


塚内さんが目を見開いて固まっている。自分の顔が燃えるように熱いけれど、もう誤魔化したくない。


「ゆ、夢の中の塚内さんは、ずっとそばにいてくれたのに……離れちゃうと思って、それで、」


恥ずかしい。穴があったら入りたい。でも、塚内さんの腕を必死で掴んだこともちゃんと覚えてる。

離れたくなかった。
ずっと一緒にいてほしかった。

そばいるだけでいいなんて嘘だ。
本当はもっと近くにいたい。
一番近くで、笑いかけてほしい。

だって私は、


「……好き、です」


塚内さんの顔がぼやけて、頬を涙が伝う。


「塚内さんのことが、好きです」


それでも口は止まらない。涙を我慢することさえも。


「ずっと、ずっと前から好きだったんです」


あの時、誰よりも早く私を見つけてくれたお巡りさんを、私は生涯忘れない。


「でも、こんな、こんな気持ち……」


息が詰まる。声が喉に引っかかる。


「部下から向けられたら、きっと迷惑だって分かってたのに、なのに……!」


私は嗚咽混じりに、子どものように泣きながら続ける。


「酔った勢いで、告白してしまって……っ、こ、こんなつもりじゃなかったのに、ずっと……隠すつもりだったのにっ」


こんな格好の悪い私を見せたくなかった。塚内さんの前ではいつだって、しっかりとした人間で在りたかったのに。


「ミョウジ、」


私を呼ぶ声が、困惑している。


「塚内さんを、困らせたくなかった、……でも、でも、」


塚内さんの切羽詰まったような顔を見て、祈るように呟く。


「忘れる、なんて、言わないで」


我儘でごめんなさい。
全部私が悪いのに、こんなことを言ってごめんなさい。
でも、


「そんな、悲しいこと、……っ、言わないで、ください」


自分でも何を言っているのか分からなかった。


「何も……望みません、塚内さんの部下でいられるなら、それだけで十分なんです……でも、」


でも、どうか、


「私が、塚内さんを好きな気持ちだけは、……忘れ、ないで……」


この長い片想いを、お巡りさんに憧れ続けた日々を。なかったことになんて、しないで。


初めて言葉にした感情は無茶苦茶で、支離滅裂で。それでもやっと、嘘偽りなく言えたことにどこか安心した時。

ふと、温かい何かが私の涙を掬った。
驚いて顔を上げると、塚内さんの大きな手のひらが私の頬に添えられる。涙がこぼれ落ちて、塚内さんの苦しそうな顔が見えた。


「……忘れる、わけないだろ」


聞いたことのない、声。思わず塚内さんの名を呼ぶが、


「忘れられるもんか」


小さく続いた言葉に、私の髪を撫でる優しい手のひらに、息が止まる。


「……俺は、」


独り言のように呟いた塚内さんが、


「俺も、」


私を引き寄せる。

一瞬で塚内さんの匂いに包まれた。何が起こったのか分からないまま、全身を強く縛るような力に、抱き締められているのだとやっと気付く。


「好きだ」


そうして耳に届いた言葉に、じわりと、また涙が溢れた。


「ミョウジが好きだ。ずっと、」


信じられない言葉に思考が追いつかない。全身を包む温もりの中に、自分のものではない早い鼓動を見つけた。


「こんなに泣かせて、ごめん」


ゆっくりと紡がれる声が、鼓膜に響く。


「……怖かったんだ。今の関係が壊れるのが、とても」


首元に熱い息がかかる。私の頬を、塚内さんの髪が掠った。


「君を困らせたくなくて、無かったことにしようとした」


私はまだ夢を見ているのだろうか。


「ほん、と……?」


小さく尋ねる。「うん」と、ハッキリとした返事が聞こえる。


「本当、に?」


本当に、夢じゃないの?
塚内さんが私と同じことを考えていただなんて、そんなの。

私の不安を見透かすように、塚内さんがぎゅっと力を込めた。痛いくらい強く抱き締められる。そして、


「好きだよ、ミョウジ。君が好きだ」


本当はずっと、願っていた言葉が聞こえる。


「っ、うう……ひっく、っ、」


塚内さんに縋り付くように、私は声を上げて泣いた。宙を彷徨っていた両手を大きな背中に回し、塚内さんの服を握る。

世界が止まったみたいな感覚の中、何もかもが全部幻のようなのに、抱き締められる痛みも温かさも、確かに本物だった。



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