彼女の気持ち そのA


ーー中学三年生、春。

特に将来の夢もなくて、自分の進路に迷っていた頃。
放課後の委員会活動が長引き、家までの近道としてシャッター街と化している商店街を、足早に歩いていた時。

事件は、突然起きる。

すぐ近くで激しい轟音が鳴り響き、地面が揺れた。直後に爆風が全身に襲いかかり、私は何が何だか分からないまま転けた。

痛い。半泣きで体を起こし、辺りを見渡そうとして……息を飲む。

目の前に、大きな男が立っていたのだ。虚ろな目で、口からは涎が垂れている。男の足元には粉々になった店の看板のような物が散らばっていた。

ヴィランだ……!

テレビでしか見たことのない光景に唖然とする。生まれて初めて見たヴィランは凶悪で、巨大で、逃げなければと頭では分かっているのに、あまりの恐怖で動けなかった。

男が金棒のような腕を振り上げる。ああ、私ここで死ぬんだ。潰されて死ぬなんて痛いだろうな。テレビではヒーローがたくさんいるって言ってたのに、どうしてここにはいないんだろう。なんで助けにきてくれないんだろう。

そんなことを頭の隅で思いながら、涙が溢れた時。


ーー視界に、青が広がった。


次いで、体が浮く。温かい何かに包まれる。咄嗟に目を閉じると、地面に転がる衝撃。でも今度は全然痛くない。

恐る恐る、ゆっくりと目を開けると、


「君、大丈夫か!?」


私の顔を覗き込む、お巡りさんがいた。青い制服姿が視界いっぱいに広がる。お巡りさんの背後には同じ青色の帽子と、白い自転車が転がっていた。ヴィランの男が振り上げた腕に直撃したのだろう、自転車はぺしゃんこだった。


「あ……、」


恐怖と驚きで何も言えない私をお巡りさんはそっと立たせて、セーラー服についた砂埃を払ってくれた。


「怪我は? 痛いところはないか?」
「だ……だいじょう、ぶ……」


やっとの思いで答えると、お巡りさんが小さく頷く。黒い瞳が印象的で、とても優しい表情だった。


「ここは危ない、あっちの広場まで走るんだ」


お巡りさんが言った直後、ヴィランがこちらに向かって、また腕を振り上げる。


「行きなさい!」


お巡りさんが大きな声で言いながら私の背中を押す。その反動で私が数歩進むと、後ろから大きな衝撃音。どうしよう、お巡りさんが死んでしまう。あの自転車みたいに潰されてしまう。

どうしても走れなくて泣きながら振り返った私は、目の前の光景に、また驚いた。

お巡りさんがヴィランの顎を下から突き飛ばし、よろけたヴィランの足元を蹴って、そのまま投げ飛ばしたのだ。お巡りさんよりずっと大きいヴィランが、一瞬で地面に倒れている。


「塚内ー! 無事か!?」


その時、商店街の奥から誰かの声が聞こえた。パトカーのサイレンがだんだんと近づいてくる。ツカウチと呼ばれたお巡りさんがこちらを振り返った。


「田沼さん! 俺は大丈夫なので、その子の保護を!」


お巡りさんと目が合う。一瞬ニコッと笑ってくれた彼はまたすぐに前を向き、起き上がったヴィランに突っ込んでいった。


「君! 早くこっちに!」


タヌマという男の人に腕を引っ張られるが、私はお巡りさんの背中から目が離せなかった。

起き上がったヴィランがお巡りさんに殴りかかる。鈍器のような拳を間一髪で避けたお巡りさんはヴィランの腰に向かってタックルし、そのまま地面に押さえ込むように倒れた。


「塚内! じきにヒーローがくる、それまで持つか!?」 


私のそばにいる男の人の言葉に、お巡りさんが元気よく「はい!」と返事をして、なおも起き上がろうと暴れるするヴィランの腕を捻り上げる。


「大人しく、しろ!」


声を張り上げながら、必死でヴィランを捕らえるお巡りさん。彼の一生懸命で勇敢な姿が、鮮明に目に焼き付いた瞬間だった。







その後、私は呆然としたまま広場へと連れて行かれ、タヌマさんも商店街へと引き返して行った。

同時にテレビで見たことのあるヒーローらしき人達も現れ、次々に商店街へと消えていく。

広場には野次馬が集まっており、私はその場から動けないまま、ただ時間だけが過ぎていき。


しばらくして、さっきよりも傷だらけになったお巡りさんがタヌマさんの肩を借りるようにして出てきた。良かった、生きてた、怪我はしてるけど生きてる。安心して、強張っていた身体の力が抜けた。


「塚内ぃ、お前はチャリで無茶しすぎなんだよ」
「いやあ、たまたまパトロール中だったもんで」
「だからってなぁ、相手は薬キメてる逃走犯だぞ。交番勤務のペーペーが、もうちょっと慎重になれ」
「ハハッ、気を付けます」


お巡りさんの後から、ヒーローがヴィランを引っ張りながら出てきた。周りの野次馬達が歓声を上げてヒーローを賞賛している。
違う、あの男をやっつけたのはお巡りさんだ。そう思いながらも声が出せず、私はただ、お巡りさんを見つめた。


「ツカウチ、さん……」


私を見つけてくれた、青い服を着た彼の姿を。


――あの時、あなたは誰よりもヒーローだった。私にとって、ずっとずっと昔から。











ピピピ、ピピピ、ピピピ……

甲高い機械音。なんだか懐かしい夢を見ていたような気がする。もう少し、あと少しでいいから思い出に浸っていたいのに、意識は徐々に覚醒していく。

とても温かい。うちの布団こんなにゴツかったっけ?
ほんのりお酒の匂いが混じっているけど、とてもいい匂いもする。安心するこの香りは……


「んん……」


何かがおかしい。そう思いながら重い目を開けると、そこには、


「……」
「……」


塚内さん、の、顔。

私と同じように目をパチクリと瞬かせた塚内さんの、顔が、あった。



「「うわああああーーーー!!!!」」


思わず叫び声を上げて飛び起きた。塚内さんの声と私の声が重なる。ベッドの上を後退り、よく分からない状況に頭の中は真っ白だ。


「え、……え……え、え!?」


戸惑っていると、床に落ちた塚内さんが勢いよく土下座した。


「わ、悪かった! 申し訳ない!! ごめんなさい!!!」


どうして塚内さんが土下座しているのか分からず、呆然とその姿を見つめる。


「き、昨日、酔った君を送り届けた! それで、その、気付いたら寝てしまって、」
「へ……、」


――昨日。

ゆっくりと蘇る、記憶。
久しぶりの飲み会、塚内さんの瞳のような澄んだブラックのカクテル、それを数えきれないほど飲み干したことを。


「本当に申し訳ない! でも……断じて変なことはしていない!」


咄嗟に自分の体を見る。昨日と同じスーツ姿のままで、なぜかベージュのコートに包まれていた。これは……塚内さんのコート!?


「ふ、ふしだらなことは一切していないと誓う! だからと言って許される訳ではないけど、でも……どうかそれだけは信じてくれ!!」


ゴンッ、ゴンッ! と床に頭をぶつけながら塚内さんがとんでもないことを言っている。ふ、ふしだらって……どんどん恥ずかしくなってきて、顔に熱が集まった。


「つ、塚内さん……」
「本当に悪かった!!」
「わ、分かりましたから……!」


何もされていないことは十分に分かっている。着衣の乱れもなければ、自分の体になんの違和感もない。第一、塚内さんがそんなことをする訳ないし、仮に何かがあったとしても塚内さんになら……
と、そこまで考えて頭を振る。こんな時に何を考えてるんだ私は。


「……ミョウジ、」
「そ、そんな、謝らないでください……元はと言えば、私が飲み過ぎたせいで……迷惑かけて、本当にすみませんでした」


泣きそうになりながら頭を下げる。そもそも私が悪いのだ。大人なのに自分のペースを弁えずヤケ酒して、大好きな人に迷惑をかけてしまった。

……あれ?

ちょっと待って。
もし、私の記憶が正しければ……


「いや、俺がしっかりしてなかったから、」
「あの!」


塚内さんの言葉を遮る。声が震えたが、それどころではなかった。


「わ……私、何か……へ、変なこと、言ってませんでしたか」


微かに覚えている、塚内さんの腕を掴んだことと、困惑したような声。

もし、あれが夢じゃなかったら。


「……」


塚内さんは何も言わない。固まっている。この沈黙は肯定しているということなのだろうか。

無言の塚内さんを祈るような気持ちでに見つめていると、またもや目覚まし時計が鳴った。反射的に見て「もうこんな時間……!」と声を出してしまう。いつもならとっくに朝の準備を終えている時間だった。

私の声に反応するかように、固まっていた塚内さんが勢いよく立ち上がる。それから、直立して深々と頭を下げた。


「……本当にすまなかった」
「っ、」


どうして、そんな辛そうな顔をするの?
どうして、謝るの?
その謝罪は、何に対して?

まさか……


「昨日のことはちゃんと忘れる。だから君は何も心配しないでくれ」


塚内さんはそれだけ言い残し、私の前から逃げるように部屋を出ていった。バタン、と玄関の閉まる音がしたと同時に、涙がボロボロと流れ出す。


「……うっ、ひっく、」


酔った勢いで告白してしまうなんて、最低だ。ずっと昔から大切にしてきた気持ちを、この関係を、たった一瞬で壊してしまった。私はなんてバカなんだろう。塚内さんにあんな辛そうな顔をさせて、迷惑までかけてしまった。

酔い潰れて家まで送ってもらうだけでも最低なのに、告白までするなんて。

ただの部下から好きだと言われた挙句、私が塚内さんの腕を掴んだから、離れるに離れられなかったんだろう。塚内さんは優しいから、私を引き剥がすことすら出来なかったんだ。


ーー昨日のことはちゃんと忘れる。だから君は何も心配しないでくれ。


さっき言われた言葉が脳内に響く。塚内さんは大人だから、上司だから、今後の仕事を考えて忘れるつもりだ。迷惑をかけたのは私なのに、気を遣ってくれたのだろう。
でも……


「忘れ……ちゃう、の……?」


誰もいない空間に、意味なく問う。ふと自分を包んでいる塚内さんのコートの存在に気付き、ぎゅっと抱き締めた。

夢の中で包まれた香り。塚内さんの、匂い。


「うっ……うう……」


忘れるということは、なかったことにするということ。

長年の片想いが、呆気なく終わる。
こんな最悪な形で。



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