彼女の気持ち その@


「……俺が、ヒーローだったら良かったのに」


塚内さんが呟いた言葉に、懐かしい記憶が蘇る。


ーー君、大丈夫か!?


私を見つけてくれた、青い服を着た彼の姿を。

あの時、あなたは誰よりもヒーローだった。私にとって、ずっとずっと昔から。

だから、そんなこと言わないで。そんなに悲しい顔をしないで。







三月三十一日、水曜日。
今日は大きな事件が片付いたので、忘年会を兼ねた飲み会が開かれた。随分と久しぶりの飲み会だからか、みんな楽しそうに騒いでいる。
その中で一人、壁に背を預けて静かにビールを飲んでいる上司の姿を、私はバレないように盗み見していた。


「(塚内さん、焼き鳥食べてる……)」


どんちゃん騒ぎしているみんなを窘めつつ、塚内さんは自分のペースでゆっくり楽しんでいるようだ。ジョッキのビールはまだ半分以上残っている。私はお酒を注ぎにいくタイミングを密かに狙っていたのだが、今日も難しそうだと思い、早々に諦めた。

焼き鳥をパクっと口に放り込み、ビールを一口。あ、美味しそうな顔……私も同じやつ食べようかな。

大皿から塚内さんと同じねぎまのタレを取って食べながら、もう一度視線を向けてみると、塚内さんは周りを見ながら穏やかに微笑んでいた。あまり表情が豊かではない塚内さんの珍しい笑顔に、心臓が射抜かれる。


「かっこいい……」


あっ、いけない、つい言っちゃった。でもこの騒ぎでは誰にも聞こえていないだろう……そう思いながら顔を上げると、


「聞こえてるぞ」


斜め前に座っている玉川さんに言われた。猫耳はズルイと思う。

玉川さんも塚内さんと同じで、騒ぐことなく一人でお酒を嗜んでいた。私は自分のジョッキを持って玉川さんの隣に移動する。


「玉川さん、隣いいですか?」
「ああ。珍しいな、ミョウジがビールなんて」
「今日は久しぶりに、飲もうかなって思いまして」


実は、これはヤケ酒でもあるのだが……それは言わないでおこう。

なんとなく目の前にあった枝豆に手を伸ばして食べていると、玉川さんがコークハイを飲みながら「それはそうと、」と口を開いた。


「今回、お手柄だったな」
「たまたま勘が当たっただけですよ」


玉川さんが目を細めて笑う。丸い猫目が笑うと可愛いなと思いながら、私はビールを飲んだ。


「塚内警部には褒めてもらえたか」
「ぶっ!」


しれっと言われた言葉に思わずビールを吹く。すぐに玉川さんがおしぼりを差し出してくれた。


「早く拭け。警部が見たら幻滅するぞ」
「す、すみません」


それだけは嫌だ。私は急いで口元を拭ってから塚内さんを横目で見る。彼は私なんて眼中になく、どこか遠い目をして空間を見つめていた。いつも鋭い目付きが物憂げに伏せられていて、


「……やっぱりかっこいい」
「だから聞こえてるぞ」


呆れながら溜め息を吐く玉川さんだが、それ以上は何も言わない。飲み会のたびに私は玉川さんの隣で同じようなことを口走っているから、もう慣れたのだろう。

どこからどう見てもかっこいい塚内さんをチラチラ見ながら、私はさっきの出来事を思い出し、口を開く。


「……塚内さんに、よくやったって言ってもらいました」
「そうか。良かったな」
「……はい」


今日、やっと片付いた大きな事件……ずっと追っていたヴィラン組織の摘発だ。一斉検挙まであと一歩というタイミングでヴィラン達が逃げたのだが、私がたまたま手元にある数種類の地図を重ね合わせると、地図上にはない別の逃走経路に気付いた。それが逮捕に繋がり、一気に事件は片付いたのだ。大きな被害も出ず、取り逃がしたヴィランもいない。結果は十分だった。


「なんだ? あまり嬉しそうじゃないな」
「それが……嬉しすぎて……緊張しちゃって……」
「……」
「たぶん、顔……引き攣ってた……!」


思わず俯いて、唸る。普通に接したいのに、塚内さんと言葉を交わす時の私はいつもぎこちなかった。褒められるとなれば尚更である。自分に向けて優しく微笑まれるともうダメで、そっけなく「ありがとうございます」と返すのが精一杯で。

いつもそうだ。塚内さんを前にすると緊張して顔面が硬直してしまう。ヘラヘラするよりマシかもしれないが、それにしたって私は笑顔を作るのが下手だった。どうにかしたくても自分ではどうしようもなく、苦肉の策として仕事中は真顔を貫いている。

いい加減こんな自分が嫌になり、今日はヤケになってビールを頼んだ。いつもはお酒に逃げたりしないが、さっきの自分が気持ち悪くて一刻も早く忘れたかったのだ。絶対に変な顔してた……ああ、記憶から消し去ってしまいたい。


「……拗らせてるな」
「……重々承知してます」


私は塚内さんのことが好きなのだ。憧れや尊敬の気持ちが日に日に大きくなり、いつの間にか一人の人間として大好きになっていた。

この気持ちを知っているのは玉川さんだけである。あ、同期にもバレているが、それはここでは省略しよう。


「まぁ、警部は気にしてないと思うぞ。ミョウジは普段から落ち着いているし」
「そうですかね……」
「別に無視した訳でもないんだから、そんなに気にしなくていいだろ」


励ましの言葉が身に染みる。こんなことでウダウダする後輩なんて面倒だろうに、適当にあしらいつつも玉川さんはいつも話を聞いてくれる。優しい先輩だ。


「玉川さんサラダ食べますか? 良かったら取りますよ」
「頼む」
「あ、焼き鳥も美味しいですよ。端っこに乗せますね」
「ああ」


せめてもの償いとして、せっせと玉川さんに料理を取り分ける。焼き鳥の他に唐揚げやチキン南蛮なんかも乗せといた。


「そんなに好きなら、告白でもしたらどうだ」


なんでもない風に言われた言葉に、私は首が取れそうな勢いで横に振る。


「えっ、むむむむ、無理です」
「どうして?」
「ど、どうしてって……だって、それは……」
「それは?」


猫目でじっと見つめられると目線が泳ぐ。私は口籠もりつつ、ボソボソと口を開いた。


「……塚内さんは、私のことなんて、好きじゃないですもん」


自分で言ってて悲しくなった。でも本当のことだから仕方ない。


「直接聞いたのか?」
「違いますけど……でも、部下以上には見てもらえてないって、分かります」


私は上司としても男性としても塚内さんのことが好きだけど、きっと塚内さんは違う。普段の態度から見ても明らかだった。

塚内さんは相手が誰でも態度を変えず、みんなに対して優しい。もちろん私にも優しく接してくれるけど、その扱いに特別感を感じたことは一度もなかった。私達は仕事仲間で、ただの上司と部下。それ以上の関係にはなれない。
そもそも私と塚内さんは住む世界も見ている景色も違う。私にはせいぜい、塚内さんの後ろを追いかけることしかできないのだ。


「なんで分かるんだ。俺から見ても、警部はお前のこと結構可愛がってると思うけどな」
「それは……塚内さんが私の教育係だったからですよ」


彼は部下を大事にする人だから、新人だった私を育てる過程で情くらいは沸いたのかもしれないけれど。それが愛情ではないことは、自分が一番よく分かっていた。


「だが、気持ちを伝えないと何も始まらないんじゃないか?」
「それは……」


玉川さんの言葉は最もだ。結局私はいつも理由をつけて逃げているだけで、塚内さんに直接振られることが怖いだけの、臆病なやつだった。


「……このまま何もせず、塚内警部が他の誰かと付き合ってもいいのか?」
「……」
「そのまま結婚しても、お前は後悔しないのか」
「結婚……」


そうだ。あんなに素敵な人が未だ独身なのは奇跡に等しい。塚内さんの浮いた話なんて聞いたことないけど、ただ私が知らないだけで、今だって彼女の一人や二人いるかもしれない。


「お前がそれでいいなら俺は何も言わない。でも違うなら、行動した方がいいと思うぞ」


塚内さんと一緒に働けるのが嬉しい。迷いなく進んでいく背中をずっと見ていたい。その背中を守っていきたい。今がとても幸せで、これ以上は望んではいけないと思っていた。そばにいられるのなら、なんでも良かった。

だからもし、告白して気まずくなったら。避けられたら。そうなったら悲しくて辛くて、もう生きていけないと思う。遠くもなく近くもない、今の関係を壊したくない。でも、


「……私、どうしたらいいのか、分かりません」


他の誰かを想う塚内さんなんて、きっと見ていられない。そんなの絶対、嫌だった。

黙り込む私を気遣うように、玉川さんが小さく口を開く。


「……ミョウジの気持ちは分かるよ。同じ職場だし、警部を困らせたくないってのも分かる」
「……はい」
「ただ、警部はああ見えて鈍感だから。ちゃんと伝えないと、お前の気持ちには気付かないと思う」


塚内さんと長年一緒にいる玉川さんが言うのなら、そうなのだろう。でも自分の気持ちを塚内さんに伝えるなんて、そんなこと……


「……私に、できるんでしょうか」
「ま、砕け散ったら破片くらいは拾ってやるさ」


玉川さんが笑う。砕け散るだなんて中々衝撃的なことを言うが、やっぱりいい人だ。


「塚内さんに告白かぁ……全然想像できないです」
「案外、塚内警部もお前と同じように悩んでたりしてな」
「同じようにって?」
「俺はミョウジの上司以上にはなれない、みたいな」


玉川さんが塚内さんを真似して言う。ありえないセリフに思わず声を出して笑った。


「もう、何言ってるんですか玉川さん。冗談は顔だけにしてくださいよ」
「オイ、今失礼なこと言ったな?」
「あははっ、なんでもないです」


ジト目で睨まれ、笑って誤魔化しながらも、つい願ってしまう。

私と塚内さんの気持ちが同じだったらいいのに、なんて。







久しぶりのアルコールがやけに美味しく感じる。ヤケ酒も兼ねているので自然とペースが早くなるが、玉川さんは特に何も言わずに付き合ってくれた。


「玉川さん、お酒おかわりしますか?」
「そうだな……カルーアミルクにしよう」
「え、ふふっ、可愛いチョイスですね」
「甘い系が好きなんだ」
「なんか意外です」


私も次は甘いのにしようかな。ドリンクメニューを眺めているとコーヒーリキュールと書かれた文字が目に止まり、迷わずそれを注文した。

しばらくして、店員さんが持ってきてくれたカルーアミルクと、透き通った黒褐色のカクテル。玉川さんが首を傾げた。


「これはなんだ?」
「ブラックルシアンっていうカクテルです。なんか塚内さんっぽくて」
「…………そ、そうか」


玉川さんが少し引いているが気にしない。私はなんでもいいから、少しでも塚内さんを身近に感じたかったのだ。

初めて飲んだブラックルシアンは見た目よりもずっと甘い。度数は高いが飲みやすくて、それからも同じ物を頼み続けた。


「少し飲み過ぎじゃないか。明日も仕事だぞ」


玉川さんはお酒に強い。私以上に飲んでいるはずなのに、顔色は普段となんら変わっていなかった。


「そうですね……」


頭が若干ぼんやりしている。玉川さんの言う通り飲み過ぎたかもしれない。普段飲まないせいで自分のペースを忘れていた。ヤケ酒なのだから本当は記憶を失うくらい飲みたいけど、そろそろ控えた方がいい。
そう思い、飲みかけのグラスをテーブルに起きかけた時。


「塚内警部ー! 飲んでますかー!」
「なぁに辛気臭い顔しちゃってるんすか! まだまだ酒はありますよ!」


と、大きな声が聞こえて思わず顔を上げる。同じ班の先輩達が、頭にネクタイを巻きながら塚内さんに絡んでいた。


「ハハッ、お前らちょっと飲み過ぎだぞ。明日も仕事ってこと忘れてないか?」


困り顔の塚内さんも少し酔っているみたいで、ほんの少しだけ目元が赤くて、ただひたすらにかっこいい。


「あっはっは! いーんですよ! 酒は飲んでも飲まれなかったらオールオッケーでーっす!」


先輩はよく分からないことを言いながら塚内さんのジョッキにビールを注いでいる。羨ましい、肩まで組んでいる。私もネクタイを頭に巻けば緊張せずにお酌できるのだろうか。あんな風に一緒に飲めるのだろうか。
隣の玉川さんをじっと見ると「ネクタイは貸さないからな」と即答されてしまった。私まだ何も言ってないのに。

そんなことを考えている間に、塚内さんはビールを一気に飲み込んでいく。離れているのに、男らしい喉仏が上下に動くのが鮮明に見えてドキドキした。飲み切れなかったビールが塚内さんの顎を伝っていく。とんでもないセクシーショットに目が離せなくて、先輩が「ヒュー! いい飲みっぷり!」と声を上げた時には、私もウンウン頷いてしまった。

そんな私を玉川さんが冷めた目で見ているが、気にしない。なんでもいいから、いろんな塚内さんを目に焼き付けたかったのだ。


「もうこれ以上は飲まないからな」


口元を拭いながら苦笑している塚内さんもかっこいい。今日はいつもよりかっこよく見える。なんでだろう、いつも死んでる塚内さんの瞳が潤んでいるからだろうか。それとも単純に私が酔っているせいなのか。


「そんなこと言わずに! ささっ、もう一杯!」
「勘弁してくれよ、俺はお前らみたいに若くないんだから」
「大丈夫ですって! 塚内警部はいつもフレッシュですから!」


先輩の言う通りだ。塚内さんはとても若々しい。肌もツルツルだし、服を着ていても分かる筋肉質な身体は引き締まって見える。身長が高いことも相まって、スーツがとても似合っていた。


「あっ、そういや、もうすぐ警部の誕生日じゃないっすか?」


ふと思いついたような先輩の言葉にハッとする。そうだ、もうすぐ四月四日。日曜日は、塚内さんの誕生日である。

塚内さんの元に配属された当初、雑務の仕事で刑事課の健康診断のカルテを取りまとめている時、偶然見て知ったのだ。

あれから五年が過ぎようとしているが、私は未だ、塚内さんに向かって「お誕生日おめでとうございます」と言えないでいる。

お世話になっているお礼として、何かプレゼントを贈ってもいいかな、とか。そんなことしたら重いかな、とか。いろんなことを考えた結果、何もできなくて。そうして毎年、知らないフリをしてきたのだ。


「んじゃあ、こいつの親父さんと塚内警部のフライングハッピーバースデー! ってことで、かんぱーい!」


先輩が声高らかにジョッキを掲げる。塚内さんは「あははっ、なんだそりゃ」って言いながらも、どこか嬉しそうで。


「……いいなあ」


私ができないことを軽々やってのける先輩が羨ましい。私に勇気があれば、もっと塚内さんに近づけるのかな。あんな風に笑いかけてもらえるのかな。

そんなことを考えながら見つめていると、突然、塚内さんがこっちを見た。それはもうバッチリと。驚きすぎて息の仕方を忘れ、頭の中がパニックになり……

咄嗟に目線を逸らした私は、玉川さんに体を向けるようにして逃げた。背中に感じる視線はたぶん塚内さんのものだ、どうしよう、「何見てんだコイツ」って思われたかな、「ガンつけてんのか」って勘違いされたら……いや塚内さんはそんな喋り方しないけど、でも……


「た、玉川さん、どうしましょう、塚内さんと目が合ってしまいました」
「そりゃ、あれだけ見てたら気付くだろ」
「うう……! 恥ずかしい、でもかっこよかった」
「……良かったな」


今度こそ完全に引いている玉川さんに頭の中で謝りながらも、このうるさい心臓をどうにかしたくて。私は握っていたグラスを見つめ、まだ半分以上残っているカクテルを一気に飲み干した。









頭がフワフワする。まるで海の中にいるみたいに何も聞こえなくて、でも心地いい、不思議な感覚だった。

なんだか少しだけ寒い。そう思った直後、温かい何かに包まれる。目を開けようにも瞼が重くて、何も見えない。

ふと、いい匂いがした。石鹸みたいな安心する匂い。これは塚内さんの匂いだとすぐに分かった。塚内さんとすれ違う時、塚内さんの後ろを歩く時、ふわりと漂う優しい香りと同じだったのだ。そんな大好きな匂いに私は今、包まれている気がする。

体が重い。でもなぜか浮いてるような感覚もする。誰かが私に話しかけているような声が聞こえるけれど、あんまり分からない。

どうしてこんなに気持ちいいんだろう。
ここはきっと夢の中なのに、なんで温かさを感じるんだろう。

何も分からない、でも。

ふと、その温かさが離れた気がして、なんとか目を開ける。


「つか、うち、さん……?」


ぼんやりと映る、人影。ハッキリとは分からないのに、なぜだか塚内さんだと思った。

私の声に反応するように塚内さんが離れようとする。私は咄嗟に手を伸ばし、塚内さんの手を掴んだ。


「ミョウジ……?」


初めて聞くような、小さな声。夢だと分かっていても、離れたくなかった。


「やだ……」


行かないで。そばにいて。せめて夢の中だけでも、今だけでもいいから、一番近くにいてほしい。

そう願うと同時に、「気持ちを伝えないと何も始まらないんじゃないか?」という玉川さんの言葉が頭に浮かんで、


「塚内さん、好きです」


ずっと言えなかった言葉が、口をついて出た。

夢なら、想いを伝えても許されるかな。迷惑かけないかな。


「塚内、さん……」


好きです。ずっとずっと、昔から。


私は温もりを感じながら、今度こそ意識を手放した。



- ナノ -