緊急事態発生です。
水族館は思っていたよりも広かった。鮮やかなサンゴ礁の広場を抜け、海の中にいるようなアーチ状のトンネルをくぐる。見たことのない魚にミョウジが目を丸くしたり、ペンギンと触れ合うコーナーで楽しそうにはしゃいだり。百面相するミョウジを見ているだけで鼻の下が伸びていく。
ギャングオルカ監修のシャチのショーも凄かった。というか、シャチの迫力がありすぎた。一番前の席なので俺も食われるんじゃないかと肝を冷やしたが、ミョウジが「ヒィ!」と半泣きで俺の腕に引っ付いてきたので恐怖は引っ込んだ。むしろ、いいぞ、もっとやれ! と思ったのは秘密である。
ちなみに後ろの子どもは号泣していた。ギャングオルカよ、確かに素晴らしいショーだが、エンターテイメントとしては少々刺激が強すぎる気がする。
「こ、怖かった……」
ショーが終わり、また手を繋いで歩いていると、ミョウジが遠い目で言った。よほど怖かったのだろう、彼女はまだ涙目である。
「あははっ、大丈夫かい? ちょっと休憩する?」
「は、はい……」
そう言えば今日のミョウジはヒールの高い靴を履いていた。足も疲れただろう。休める場所を探して辺りを見渡すと、ちょうど綺麗な水槽の前のベンチが空いたので、そこにミョウジと座った。
「何か飲み物でも買ってくるよ。何がいい?」
「あ、えと……じゃあお茶で」
「ん、分かった。ちょっと待ってて」
近くの自動販売機でお茶のペットボトルを二本買う。ふと腕時計を見れば時刻は夕方、楽しい時間はあっという間に過ぎていくもんだ。
ベンチに戻ると、ミョウジが自分の足首を撫でていた。
「お待たせ。足痛いのか? 大丈夫?」
隣に座ってペットボトルを渡すと、ミョウジは礼を言いながら困ったように笑った。
「全然平気です。でも慣れてないから、ちょっと違和感があって」
「そうか……それ何センチくらいあるんだ?」
「えっと、十センチくらいです」
「十センチ!?」
そりゃあ痛いはずだ。俺だったら一歩も歩けないと思う。生まれたての子鹿のごとく倒れるのがオチだろうな、と考えていると、
「……少しでも、塚内さんに近づきたくて」
背伸びしちゃいました。なんて言って、ミョウジが照れながら笑うもんだから、危うく心臓が爆発して四肢爆散するところだった。近づきたい、って、物理的に? 俺達の身長差を埋めたいってこと? 健気すぎるだろ……!
俺達は上司と部下で、年齢だって離れてる。どうしたって俺達の間には様々な距離があるけれど、それをどうにかして埋めようと、近づきたいと……そんな可愛いことを言われて、嬉しくない訳がなかった。
「ミョウジ」
俺だってもっと近づきたい。その感情のままに彼女の細い腰に手を回し、体をぴったり引っ付ける。座っているから、さっきよりも目線が近い。
「……塚内さん」
ミョウジが恥ずかしそうに目を伏せた。暗い室内に灯るのは水槽の灯りだけで、水の中を自由に泳ぐ魚の動きによってキラキラと不規則に照らされる。ミョウジの瞼や唇に光が当たって、とても綺麗だった。
好きだ。どうしようもないほどにミョウジのことが好きだ。心臓はうるさいくらいドキドキしてるのに、心の底から安心感が広がっていく。
ミョウジのピアスが揺れる。それを撫でるように彼女の耳に手を伸ばし、赤い頬に手を添えた。
ミョウジが目を閉じる。俺は顔を傾けながら、ゆっくりと彼女の唇に向かって、
もう少しで触れ合う。
と、思った瞬間、
――ベチャッ!
俺の膝に何かが当たる。ヒンヤリとした感触に驚いて顔を上げると、
「う、うわぁぁぁん!」
直後に、男の子の泣き声が響いた。
男の子が座っていた俺にぶつかり、手に持っていたアイスを俺の膝にぶち撒けたのだ。
「大丈夫!?」
ミョウジが俺から離れ、男の子の横にしゃがみ込む。鞄から取り出したハンカチでベタベタになった男の子の口元や手を拭っていた。俺も慌てて男の子に向き合う。
「怪我してないか!?」
「う、うう、アイス、ぼくのアイス……」
よくよく男の子を見れば、水族館に入った時にミョウジにぶつかった子だった。彼は空になった容器を持って泣いている。
ここで「ごめん、俺のズボンがアイス食っちまった」なんて粋なことを言えれば場は和んだかもしれないが、生憎俺の脳内はミョウジのことでいっぱいで。気の利いたことは何も言えず、ただただ男の子に謝ることしか出来なかった。
いや俺は別に何もしていないのだが、こんな場所でついミョウジに手を出そうとしたバチが当たったのだろう。神様ごめんなさい。でもミョウジが可愛いから仕方ないのだ、許してくれ。
「ごめんな、同じの買ってやるから泣かないでくれ」
「うええええんっ! アイス、アイスぅ」
「あはは……困ったな」
泣き止む様子がない男の子に俺が困っていると、ミョウジが苦笑しながら言った。
「きみ、お母さんは?」
「え……あ、ママ、どこ?」
男の子は辺りをキョロキョロと見渡し、そして、また泣いた。
「迷子か……よし、受付の迷子センターに行くついでにお母さんを探そう」
俺が立ち上がると、ミョウジが「あ」と顔を上げる。
「塚内さん、ズボン洗わないと……」
「ああ、これくらいどうってことないさ」
「でもシミになりますよ。この子は私が連れていくので大丈夫です」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
確かに少しベタついているので気持ち悪い。俺は「すぐ追いつくから」とミョウジに一言断って、トイレに向かった。
◆
急いでハンカチを濡らし、ズボンをこれでもかと擦った。擦りすぎて膝の皮膚が痛くなったが、ほどなくして汚れは取れたので、すぐにミョウジの元へと向かう。
受付は入口付近、ここからは少し離れた場所にある。早歩きで人混みを抜けていると、ふと周りがザワついていることに気付いた。
なんだ……?
そう疑問に思った時、
「キャァァァァァァァ!!」
誰かの叫び声。次いで、
「うるせぇ! 騒いだら殺すぞ!」
物騒な怒鳴り声が響く。緩やかだった人の流れが一瞬でパニックになり、「ヴィランだ!」「助けて!」と叫び声を上げながら人の群れが我先にと走り出した。
「いや、やめて!」
「黙れっつってんだろーが!!」
「きゃっ、」
喧騒の中で僅かに聞こえる女性と男の声。なんとか人の群れを避けるがうまく前に進めない。胸騒ぎがする、叫び声が聞こえてきたのは迷子センターの方向からだ。一体何が起こっている? ミョウジは、男の子は。
「喚くんじゃねえ! 死にてえのか!」
「やめなさい!」
男の怒鳴り声に続いてミョウジの声が耳に届く。俺は気が動転しそうになりながら無我夢中で走った。
そして、見えてきたのは。
「うせろクソアマ! 邪魔だ!」
右腕を刃物に変形させた男、
男の刃物を首に突き付けられた女性、
その二人に対峙するように立つ、ミョウジの姿だった。
ミョウジの後ろで男の子が泣いている。女性には見覚えがあった、男の子の母親だ。
近くにはミョウジの鞄が転がっていて、その周りを数人の警備員が取り囲んでいた。
「離れて! ここは危ない!」
俺の近くで職員らしき男性が声を上げる。しかし冷静さを失った人々には聞こえておらず、館内は以前パニック状態のまま。
俺は必死に人混みを抜け、男性に駆け寄る。
「警察とヒーローに通報は!?」
「れ、連絡しました! あなたは……!?」
俺は警察です、状況を教えてほしい。
そう答えようとした時、男性が俺の向こう側を見て「!!」と声にならない悲鳴を上げる。
俺が振り返ると、男の子が「ママをはなせ!」と泣き喚きながら、男に立ち向かおうとする瞬間だった。
ミョウジが男の子を止めようと身を乗り出す。同時に、男が母親を突き飛ばして刃物を振り落とした。
「ミョウジ!!」
咄嗟に叫ぶ。
俺の声に反応するかのようにミョウジが顔を上げた、直後、
「ぐっ!」
……男が倒れた。
一瞬、ほんの一瞬の出来事だった。
降りかかる刃物を間一髪で避けたミョウジが男の懐に入り込み、手のひらで男の顎を突き上げ。よろけた男の足を払うように蹴って腕を掴み、そのまま勢いよく、背負い投げたのだ。
「う、うぅ……」
男は白目を剥きながらも起き上がろうとしたが、ミョウジが即座に男の腕を捻り上げて動きを封じる。警察学校時代に習う逮捕術だった。「か、確保!」と警備員の一人が叫ぶと、周りを囲んでいた警備員達が一斉に動き出して男を取り押さえた。
ほんの数秒の出来事に一気に肩の力が抜ける。隣にいた男性も安堵の息を漏らしながら「僕はあっちの誘導に行きます!」と、未だパニック状態の人々に向かって走っていった。
警備員達が男を取り押さえる隙間からミョウジが顔を出す。そして、男の子を抱き締めている母親に近づいた。
「怪我はありませんか?」
「は、はい……あ、あ、ありがとう、ございました……!」
「うわぁぁぁん! ひっく、うぅ、ママぁ!」
「もう……あんたは無茶して……!」
「だって、だってぇ……うぁぁぁん!」
母親の背中を優しく撫でるミョウジ。俺は転びそうな人や唖然と立ち尽くす人を誘導しながらもなんとか人混みを掻き分け、やっとの思いで彼女に走り寄る。
「ミョウジ! 無事か!?」
「塚内さん! はい、大丈夫です」
ミョウジが仕事中に浮かべる時と同じように、小さく笑った。緩くまとめられていた髪型は少しだけ乱れているが、彼女自身に怪我は見当たらない。俺は安心しつつ、ヨロヨロと立ち上がる母親をミョウジと一緒に支えた。
男の子はずっと泣いており、母親に顔を埋めるように抱き付いている。危険な状況だったが、彼の行動は母親を守ろうとする勇敢なものだった。
「一体何があったんだ」
「それが……」
俺の問いにミョウジが口を開こうとした時、近くにいた警備員がこちらに近付いてきた。
「ありがとうございました! 本当に助かりました!」
ミョウジが静かに首を横に振る。
「私は警察なので、気にしないでください」
「警察の方でしたか……道理で……」
「それより、避難誘導は大丈夫ですか?」
「はい。先程ヒーローが到着したので、滞りなく進んでいます」
「そうですか、良かった」
遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。警備員は改めてミョウジに向き直った。
「すみません、これから事情聴取などあるので、少しお時間よろしいですか?」
「あ……」
ミョウジがバツが悪そうに俺を見上げるから、俺も思わず苦笑する。
そんな俺達を見て、警備員が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、デートの邪魔をしてしまって」
「い、いえ、大丈夫です」
「では……こちらに」
警備員が少しだけ笑って歩き出す。ミョウジはそっと俺の腕を引っ張って、
「知り合いに会うかもしれないので、先に車に戻っていてください」と背伸びをしながら耳打ちした。
俺は何も出来なかったが、彼女に付き添うことはできる。けれど事情聴取は警察が行うものだ。管轄外の地域とはいえ知り合いに会う可能性は非常に高く、二人でいるところを見られたらすぐに噂が広がるだろう。ミョウジはそれを危惧して気を遣ってくれたのだ。
「……分かった」
俺は渋々頷き、ミョウジの後ろ姿を見送ってから、避難する人々に紛れるようにして自分の車へと戻った。