改めて伝えます。
目の前にミョウジがいる。普段よりも少し幼く見える笑顔で「塚内さん、大好き!」と両手を広げながら俺に飛びついてきた。ああ、可愛い、可愛すぎる。彼女の小さな体をしっかり受け止めて、俺とは正反対の綺麗な髪に頬擦りした。前までは見ているだけだったミョウジのサラサラな髪。いい匂いで、手触りが良くて、柔らかくて……
ん? あれ、おかしいな、なんか硬いぞ。ものすごく硬いし、匂いも前と違う。違うっていうか、これ……おっさんみたいな……
え、おっさん?
「……ハッ!」
目を開けると、見慣れた天井が視界いっぱいに広がった。全身が痛い。呻き声を上げながら体を起こすと、俺は布団を抱き締めながら床に転がっていた。ベッドから落っこちていたのだ。フローリングに頬擦りしていたようで顔がヒリヒリしている。
「痛い……」
道理で全身が痛い訳だ。軋む体を労わるようにゆっくり起き上がり部屋の時計を見ると、もう昼だった。
とても幸せな夢だったなあ、と、さっきのミョウジを思い出す。夢を見るなんて随分と久しぶりのことで、今も頭がふわふわしていた。
ふと枕元に放り投げていたスマホを手に取る。通知はない。ミョウジから返事があるかなと少しだけ期待したけれど、まあ、あんな一言にわざわざ返信なんてしないか。
昨日、というか今日。
ミョウジに貰った栄養ドリンクのおかげで集中でき、明け方まで掛かったが大半の書類は片付けた。そこから這うように帰宅し、そのままベッドに倒れ込んだのだ。寝ている間に脱いだのか、ワイシャツやネクタイ、ズボンまで床に丸まって落ちている。今の俺はパンツ一丁だった。
疲れが溜まっていたのだろう、この土日が休みで良かったと心底思う。二連休なんてかなり久しぶりだ。すでに半日は寝て潰してしまったけど、そんな一日があってもいい。
ミョウジは何をしているのかな……と気になったものの、何の約束もしていないので分からない。そもそも彼女も俺と一緒で久しぶりの休日なのだ、ゆっくり休みたいだろう。連絡して「休みの日までなんですが、ウザいです」なんて思われたらショックなので、気にしないでおく。
「風呂にでも入るか……」
ほぼ裸で寝てしまったので体が冷えていた。湯船に浸かって温まろう。で、多忙を理由に散らかりまくった部屋の片付けやゴミ出しをしなければ。
俺は衣類やシーツを掴み、洗濯機に放り込んでから風呂の準備を始めた。
◆
「ふー……あらかた終わったか」
熱湯のような湯船にゆっくり浸かり、サッパリしてから適当にカップ麺を食べ、家中掃除した。物が少ないとは言え、以前は妹と一緒に住んでいたのでそこそこ広めの家だ。掃除機だけでも時間がかかった。
あれもこれもと片付けていると謎の掃除スイッチが入り、窓から水回り、床まで磨き上げた。衣食住の食については不規則な生活なので難しいが、衣と住は掃除でなんとかなるものである。ベランダに干していたシーツも取り込み、グチャグチャだったベッドも整えた。
仕事が立て込むたびに腐海の森と化す家だが、今はどこを見てもピカピカで気分もスッキリだ。
換気もしたし、ゴミも捨てた。
そこでふと、昨日部下から「いつもジメッとしてる」と言われたことを思い出す。
ジメッと……ってなんだろう。自分では分からないが、おじさんっぽいということだろうか。
ミョウジは爽やかだと言ってくれたが、あれは気を遣っただけかもしれない。せっかく両想いになれたのに「うわ……塚内さんっておじさんくさいですね」なんて思われるのは嫌だ。なんとしても避けたい。そうだ、いい匂いがする消臭剤でも買ってこよう。あとシャンプーとか洗剤とかも切れかけてたな。
カップ麺以外何も口にしていなかったので腹も減っている。さすがに料理をする気力は残っていない。
俺は財布とスマホだけ持って、スウェット姿のまま出掛けることにした。
◆
「ありがとうございやしたー」
マンションの近くにある牛丼屋で大盛り定食を食べてから、少し離れた場所にあるドラッグストアへと向かう。空はもう暗く、まだ少し冷たい風が気持ち良かった。
静かな道を一人で歩きながら、ミョウジは今頃何してるかなと考えた時、ポケットに入れていたスマホが震える。
画面を見ると、なんとミョウジからのメッセージだった。
『こんばんは。お時間あれば、電話してもいいですか』
電話……? 何かあったのか?
急用かもしれないと思い、ミョウジの番号をすぐに押した。一回のコール音のあと、彼女の少し慌てた声が聞こえる。
『は、はい、ミョウジです』
「あ、ミョウジ。どうした?」
『へっ、あ……えっと、その……』
「?」
『……な、何してるかな、って思いまして』
彼女の声から恥ずかしそうな雰囲気を感じて、一気に口元が緩んだ。つい仕事絡みの連絡かと思ったけれど、もう今はそれだけじゃない。こんな風に、何気ないことで連絡することができるのだ。そう思うと、なんとも幸せな気持ちが溢れてくる。
「……俺も今、同じこと考えてた」
『えっ』
「ミョウジは何してる? 俺は買い物にいくとこ」
『わ、私もさっきまで出掛けてて、帰ってきたところです』
不思議な気分だ。毎日顔を合わせているってのに、電話越しのミョウジの声か別人のようで、なんだかくすぐったい。
「そっか。ゆっくり休めたかい?」
『はい。あの……昨日、大丈夫でしたか? デスクに書類溜まってましたけど……』
「明け方まで掛かったけど、ほとんど終わらせたよ。あ、栄養ドリンクありがとう。すごく助かった」
『……お役に立てたなら、良かったです』
小さく笑う息遣いが聞こえて、俺の緩んでいた頬がさらに緩んだ。このままでは頬が落ちて顎まで溶けそうだが、どうしてもニヤけてしまう。
些細な世間話をいくつかした後、ミョウジがぎこちなく口を開いた。
『……あ、あの、』
「ん?」
『…………あ、明日って、何かご予定あります、か』
自分のスケジュールを思い出す。この土日は二連休だ。休日出勤の予定もない。急ぎの仕事も今朝片付けた。部屋の掃除もしたし、今から行くドラッグストアで日用品を揃えたら終わりだ。
「何もないよ」
『……じゃ、じゃあ、あの……、その、』
「あははっ、どうした?」
ミョウジが珍しくどもっているので笑ってしまう。こんなにも歯切れの悪い彼女は初めてだ。
『……あ、明日、デート、しませんか』
デート?
でーと……でえと……デート…………
「え!? デデデデ、デート!?」
『は、……はい。急なお誘いで、すみません』
消え入りそうなミョウジの声に思わず立ち止まる。デートってあれじゃないか、あれだろ、
「こ、恋人がするやつ……」
『へ?』
しまった、声に出た。最近の俺はよく心の声が出てしまう。気を付けなければ。
「あ、いや何でもない。うん、しよう。デートしよう!」
『……はいっ!』
嬉しそうで、安心したようなミョウジの返事。どうしよう、見なくても分かる、俺たぶん今真っ赤だ。
「……なあ、ミョウジ」
『はい、なんでしょうか』
昨夜の飲み会で感じたこと。ミョウジにちゃんと付き合おうと伝えていないことが気掛かりだった。もしかしたらミョウジは気にしていないのかもしれないけど、でも、やっぱり俺は言葉にしたい。
「……この前、ちゃんと言えなかったんだけどさ、」
『?』
空を見上げる。星がキラキラと輝いていた。
「俺、ミョウジのことが好きだ」
『……』
「これからはミョウジの、かっ、かりぇ、彼氏として、そばにいたい」
『……、』
大事なところで噛んだ。でも勢いで続ける。
「職場のみんなには……まだ言えないし、窮屈な思いをさせてしまうかもしれない。でも、」
「……」
「君を大切にする。……俺と、付き合ってほしい」
今更、改まって言うようなことではないかもしれない。でも、勘の悪い俺に、勝手に勘違いする俺に、ミョウジはたくさんのことを伝えてくれた。
だから俺も怖がらずに、自分の気持ちを伝えたい。こんなにも好きだってことを、知ってほしい。
『……はい』
小さな、けれどハッキリとした返事が聞こえる。俺が嬉しくて笑うとミョウジも笑ってくれた。幸せだ。これで俺達は正真正銘の恋人。俺はミョウジの彼氏だと胸を張れる。
「……デート、どこか行きたい所ある? 車出すよ」
『え……いいんですか? 疲れてないですか?』
「全然大丈夫だよ。今日ゆっくり休んだから、遠慮しないで」
『……ありがとうございます。じゃあ、……海沿いの水族館は、どうでしょうか』
海沿いの水族館……確か半年前にリニューアルした有名な観光スポットだ。管轄外の場所なので行ったことはないが、いつか観に行きたいと思っていた。
「いいね。そうしよう。迎えは何時頃がいい?」
『お、お昼もご一緒していいですか』
「……うん、もちろん」
デートという行為が久しぶりで、自分から何も案を出せなくて情けない。ミョウジが色々と考えてくれるのが嬉しくて有難かった。
『では……十一時頃お願いしてもいいですか? お昼はオススメのカフェがあるので、明日案内します』
「ありがとう。じゃあ明日、君の家の前に着いたら連絡するよ」
『はいっ』
ああ、可愛い。彼女の一言一言が愛おしい。ミョウジとデートの約束をするなんて夢にも思わなかった。過去の俺が今の俺を見たらどう思うだろう。たぶん羨ましくて殴られそうだ。
『……そういえば塚内さん、買い物の途中でしたっけ?』
「あ、そうだった忘れてた」
『長々すみません』
「ううん、電話できて良かったよ」
『……私もです。……明日、楽しみにしてますね』
「……俺も」
『……えへへっ、じゃあ、そろそろ切りますね』
えへへって……なんて可愛い笑い方だ。ミョウジの前世はきっと天使だったに違いない。
電話を切るのは名残惜しいが、引き留めるわけにもいかないので渋々頷く。
「……うん」
『……おやすみなさい』
「……おやすみ」
しばらくの沈黙の後、そっと電話が切れる。ほんの数分の通話だったが心は満ち足りていた。
火照った顔を夜風で冷ましつつ、途中で溝にハマりそうになりながらドラッグストアに到着。カゴを持ったものの、デートのことで頭がいっぱいで何を買いに来たのか思い出せなかった。
なんだっけ、あ、シャンプーと洗剤だ。ついでに消耗品のストックも買っておこう。
いつも使ってる物をどんどんカゴに入れていく。あとあれだ、消臭剤。
「……多いな」
専用のコーナーに行くと、ものすごく種類が多かった。普段なら迷わず無香料を選ぶが、俺のジメッとした雰囲気を変えるには香り付きの方がいいかもしれない。
商品の前に置いてあるサンプルを次々に嗅いでみるが、四個目くらいから目眩がしてきた。鼻の中でいろんな匂いが混ざってよく分からない。
気分が悪くなりつつ根気強く探していると、ふわっと優しい香りを見つけた。贅沢な森林のアロマの香り……ふむふむ。これなら匂いもキツくないし、家が森っぽくなれば俺のオーラも爽やかになるだろう。よし、これにしよ。
あと何か必要なものあったかな……あ、職場に備蓄する栄養ドリンクも買っておこう。ミョウジに貰ったやつが即効性があったので、同じ物をケースごとカゴに入れた。
他に買い忘れはないか。人が少ない店内をウロウロしていると、いつもなら全く視界に入らないコーナーが目に止まる。
「……」
数秒考えてから、どれにしようかとパッケージをまじまじと見つめた。避妊用品である。たぶん探せば家にあると思うが、古いので新しく買った方がいい。
付き合って間もないのにこんなこと考えるなんて、とは思うものの、俺だって男だ。下心の一つや二つ、いや三つや四つ、五つや六つ、七つ、八つ……もっとある。
それにこれはマナーだ。俺はミョウジを大事にしたいが、もっと近付きたいとも思ってる。いざとなった時にミョウジを不安にさせない為にも、こういうものは俺が用意しておくべきだ。
それにしても種類が多くて分からない。とりあえず「女性に優しい!」と書かれているものを選んだ。よし、これで大丈夫だ、さて帰ろう。
◆
会計を終え、大きな袋を片手に家までの道を歩く。
気を抜くとすぐにミョウジのことを考えてしまう。今もミョウジの笑顔を思い出してはニヤけそうになっていた。危ない、一人でニヤついていたら職質されるぞ。警察官が職質なんてシャレにならない。
「はあ……」
溜め息が夜空に溶け込んでいく。ミョウジの笑顔が瞼に焼き付いていた。
ずっとミョウジのことが好きだった。これ以上は好きになれないだろってくらいに想っていた。
なのに、今もどんどん好きになる。ミョウジのことを考えるだけで胸が張り裂けそうで、幸せで。
これが、人を愛するということ、なのか。
今まで、それなりに経験はしてきたつもりだ。警察になってからは忙しくて出会いもなかったけど、同期によく合コンに連れて行かれたし、そういう関係になった人もいる。自分なりに、相手を好きになっていたとも思う。
でも俺はどうしても仕事を優先してしまうから、最終的にいつも「私と仕事どっちが大事なの」と泣かれた。毎回だ。その度に即答できず、曖昧に誤魔化していた俺は最低だと思う。何度ビンタされたか覚えていない。でも言い訳もできないし、そんなことで泣かれるのも本音では面倒だった。
今思えば、俺は本気で人を好きになったことがなかったんだ。
相手から想いを告げられて、流されるように、なんとなく付き合っていた。自分を好いてくれるのは素直に嬉しい。でもその気持ちは決して、相手と同じものにはならなくて。
俺はきっと、ずっと独り身なんだろうな。ま、仕事が恋人でも悪くはない。そんな人生もアリだろうと、諦めに近い形で思っていた。
そんな時にミョウジに出会った。そして、惹かれた。
これが恋なんだと初めて知った。今までの俺はなんだったんだろう。自分が自分じゃないみたいで、高鳴る鼓動は心不全だと本気で思っていた。健康診断で医者に相談したほどである。もちろん「なんの問題もないですよ」と言われたので、新種の病かと悩んだ。まあ恋の病だった訳だが、当時の俺はそれに気付くのに随分と時間を要したものだ。
ミョウジを見ているだけで幸せで、心配で、嬉しくて、不安になった。この気持ちを持て余し、戸惑った。恋だと自覚して納得し、俺はなんて感情を抱いてしまったんだと後悔もした。
だから想いを隠して、彼女を見守ろうと決めていたのに。
「人生って分からないもんだな……」
しみじみ呟く。
ここ最近、ほんの数日で、いつもと変わらないはずだった日常が目まぐるしく変わっていく。
「……楽しみだな」
明日はどんな日になるのだろう。想像するだけで幸せが溢れてくる。
休日をミョウジと一緒に過ごせるなんて、夢みたいだ。