天にも昇る気持ちです。


震えるミョウジの背中を撫でて、耳元でたくさん好きだと言った。今まで言えなかった分、積もりに積もった気持ちを伝えるように。ミョウジがもう、悲しみで泣かないように。

そうして落ち着いたミョウジが「も、もう分かりましたから……!」と顔を上げたから、二人で見つめ合って、額をコツンと合わせて笑い合った。

……その一連の流れを思い出しながら今、俺は上の空で歯を磨いている。


「……夢じゃ、ないよな」


水滴の汚れが付着している、小汚い洗面台の鏡。そこに映っている俺は、だらしない顔をしていた。


「うん……そうだよな、うん、夢じゃない」


夢じゃない、現実だ。
誰に問いかける訳でもなく、俺は鏡越しの自分と目を合わせて頷く。

あの後。

笑い合って、なんだか照れくさくて。赤い顔で微笑んでくれるミョウジの可愛さに今度は俺が泣きそうになりながら、彼女の小さな手を包むように握って、家まで送ったのだ。

昨日は部屋に上がり込むことなく、ちゃんとマンションの前で留まった。「おやすみなさい」と笑ってくれたミョウジの笑顔を瞼に焼き付け、自分に起こった奇跡に胸を踊らせながら帰宅……したと思う。途中で何回か電柱にぶつかったような気もするがあまり覚えていない。

とにかく嬉しくって最大級にニヤニヤしながら風呂に入り、胸がいっぱいで食欲も消え去ったため、ミョウジの笑顔と言葉を何度も脳内で繰り返しながらベッドに入り、

そして気付いたら、朝だった。


「……」


思い出すだけで身体中が沸騰しそうだ。両想いだった事実が嬉しすぎるものの現実感がない。やっぱりあれは全部俺の妄想だったのではと一瞬だけ不安に思ったが、ミョウジの涙の熱も、あの柔らかい髪の感触も、何もかも全部、鮮明に覚えてる。

「忘れないで」と必死に伝えてくれたミョウジの声も、いい匂いも、全部だ。


「……それにしても、可愛かったな」


職場では見たことのない、ミョウジの照れた顔。仕事中の清廉な横顔とのギャップで悶絶死しそうである。

ふと鏡に視線を向ければ、相変わらずの腑抜けた自分。今は誰も見ちゃいないので良しとしよう。あれ、なんか変な味がするぞ、しまった、これ歯磨き粉じゃなくて洗顔だった。道理で口から泡が止まらない訳だ。


「……いかんいかん、これから仕事だ」


こんなんじゃミョウジに気持ち悪がられると気合いを入れて、ちょっとだけ伸びたヒゲを剃る。俺はあまり濃い方ではないが、それでも毎朝身だしなみの一環として剃っている。

電動シェーバーでスッキリ整え、寝癖がないかチェック。こういう時に短髪だと楽でいい。

クリーニングに出していたワイシャツとスーツに着替え、とても明るい気持ちで家を出た。

昨日はあんなに重かった足取りが嘘のように軽い。このまま飛べるんじゃないかってくらい軽快なリズムでスキップをする。太陽が眩しい、今日は晴れだ。なんて素晴らしい天候なんだろう。

爽やかな春風が、まるで俺を「おめでとう!」と祝福するかのように背中を押してくれている。すれ違う学生やサラリーマンに変な目で見られていたが気にしない。だって俺は今、幸せなのである。

昨日、ミョウジと想いを確認し合った公園の前を通る時、空を仰ぎながら「ありがとう」と呟いてしまった。公園を散歩しているおじいさんが連れた柴犬が俺を見て吠えているけど気にしない。だって俺は今、ただただ幸せなのである。

浮き足だった気持ちで歩いていたが、さすがに職場が近付いてきたので自分で自分の頬をビンタした。痛い。よし、いつもの真顔になれた。

深く深呼吸して仕事モードをオンにする。今日は午前中に書類を片付けて、午後からは近隣の署で合同会議だ。シャキッと背筋を伸ばし、気持ちを引き締めた。







「おはようごございまーす」
「はよーっす」


始業時間が近くなり、部下達が続々と出勤してきた。みんな一昨日の飲み会が尾を引いてるらしく、少ししんどそうだ。


「あれ? 塚内警部、なんかいいことでもありました?」


部下の一人があくびをしながら言う。俺は内心ギクっとしつつ顔を上げた。


「え、な、なんで?」
「なんつーか……ハッピーなオーラが見える気がして」


正解だ。だってハッピーだからな。それにしても目ざとい……さすが刑事。


「そんなにいつもと違うかな?」
「全然違うっすよ。いつもはなんか、こう……ジメッとしてます」
「オイオイ、人を梅雨みたいに言うなよ。誰が土砂降りの雨に打たれた汗臭いおっさんだ」
「いや誰もそこまで言ってないっす」


俺達のやりとりを聞いて周りが笑っている。「で、何があったんすか?」としつこく聞かれたが、適当に流して誤魔化そうとしていた時。


「おはようございます」


ミョウジが出勤してきた。昨日あんなに泣きじゃくっていたとは思えないほど、いつも通りのミョウジだ。でも俺が「おはよう」と返した瞬間に目が合った時、僅かに微笑んでくれた気がして嬉しかった。


「なあなあミョウジ、今日の塚内警部いつもと違くね?」


部下が笑いながらミョウジに言う。おいやめてくれ恥ずかしいだろ。思わず視線を逸らしたものの、ミョウジはじいっと俺を見つめて数秒後、


「……塚内さんはいつも……、あ、えっと。今日は一段と爽やかですね」


そう言って控えめに笑う。みんながいる前で笑顔を向けられるとなんだか気恥ずかしい。参ったな、前まではそんなことなかったのに。昨日の今日だからか心臓が跳ねそうで、平常心を保つのがやっとだった。このままだといずれ墓穴を掘りそうな気がする。


「そうそう、爽やか! よく分かったなミョウジ」
「思ったことを言っただけです。それより、」


そんな俺の心情を察してか、ミョウジは自分のデスクから昨日作成した書類を手に取り、いまだ笑っている部下に手渡した。


「起案の決裁お願いします」
「おー、昨日の相談案件のやつか」


自然な流れで部下が俺から離れたのでホッとしつつ、横目でミョウジを見ると、彼女はすでに自分の業務に取り掛かっていた。

真面目な横顔を見習って、今度こそ俺も頭を切り替える。ハッピーなオーラは消せそうにないが、よし、仕事だ。



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