――不意に――
彼は憧れの対象だ。どこまでも誠実で絶対に嘘をつかない、誰よりも仕事に一途な姿が頼もしかった。彼のようにはなれずとも、あの大きな背中を守れるくらい強くなりたくて、ただ必死で追いかけていた。
たまに振り返って笑みを向けてくれるだけで十分だった。“上司と部下”以上の関係なんて、そんなの烏滸がましくて望んでいなかった。彼の後ろを歩けるのなら、それだけで充分だと思っていた。思って、いたのに。それなのに。
「…好きだ」
ふと呟かれた言葉の意味を理解できず、目の前で熱を宿す漆黒の瞳を見上げる。重なった視線に何も言えずにいると、大きな手が伸びてきて、ふわりと頭に乗せられた。
「…すまん、忘れてくれ」
いつもと同じ優しい笑み。そこに少しだけ、悲しそうな色が浮かんでいることに気付いてしまった。
「…気をつけて帰れよ。お疲れ」
低い声と共に、するりと髪から離された手。彼は振り向かずに去っていく。遠ざかる後ろ姿は毎日追いかけていた広い背中と同じはずなのに、何故だか小さく見えた。
待ってください。そう言いたくとも、まるで金縛りに合ったかのように体は動いてくれなかった。さっきの言葉は、その意味は一体何だと云うのだろう。
「どうして…」
あんな、寂しそうな笑顔を。
初めて見た上司の顔が、その柔らかな表情が頭から離れない。ついさっき触れた骨張った手の熱が蘇り、ただ呆然と髪を撫でることしか出来なかった。
――彼は憧れの対象だ。どこまでも誠実で絶対に嘘をつかない、誰よりも仕事に一途な姿が頼もしくて、そして…そんな彼に対して、小さな恋を抱いていたから。
20210110