おかえりなさい




優しい声も、鋭い瞳も、大きな胸板も、暖かい掌も、流れる様な銀髪も、全部、全部、全部…

全部、大好きです。









「スクアーロ隊長が負けた。リングは家光側の守護者に渡ったみたいだ」

「なんだって?あのスクアーロ隊長が…」

「しかも、その後は死を選んだんだと。通信員の話によると、剣士としての誇りがどうのこうの、って言ってたらしい」

「隊長らしいと言えば隊長らしいけど…」

「何も死ななくても良かったのにな」


ヴァリアーで事務員として働いている私の耳に突如入った隊員同士の会話。彼らはまだ何か話していたが、もう私には聞こえなかった。

スクアーロさんが、負けた?

地下書庫から持ち出していた仕事用のファイルを抱き締めて、先程の会話を脳内で繰り返す。

スクアーロさんが、死んだ…?

目眩がして壁に寄り掛かかる。そのまま膝をつくように座り込んだ。目の前に広がる赤い絨毯が滲み出し両目から涙が溢れ出していく。


「うそ…だ…」


小さな呟きが誰もいない廊下に虚しく響く。頭の中がグルグルと回り、心臓がばくばく音を立て始め呼吸が荒くなり吐き気がして思わず口を右手で押さえる。その時、唇に無機質な冷たい何かが当たった。


「ナマエ、これをやる。肌身離さず付けとけよぉ゛」


スクアーロさんがくれた、細いシルバーのペアリング。二人で右手の薬指に付けて笑い合ったのはつい先日だった。左手の薬指は結婚の時だと言われ、嬉しくて泣いた私を抱き締めてくれた温もりを、今もハッキリと覚えている。


「任務で日本に行く。今回は長期になると思うが、絶対帰ってくるから、俺がいないからって泣くんじゃねぇぞぉ?」


冗談交じりに言って、大きくて優しい手のひらで頭を撫でてくれた。あれからまだそんなに日は経っていない。


「…う、そ…だ…」


誰よりも強くて誰よりも努力家な彼が負けるなんて。ましては死ぬなんてあり得ない。さっきの隊員達はきっと誤解しているのだ、そうだそうに違いない。

そう思うのに涙は止まらず、目眩が激しくなって私は廊下にうずくまった。視界から色が消えていく。やがて真っ黒になっていき、私は意識を手放した。







「疲労ですね。事務員が一人しかいないので大変だとは思いますが、あまり無理はしないで下さい」

「…」


いつの間にか私は自室にいた。誰かが運んでくれたのだろう。医療班の人の言葉をどこか遠くに聞きながら、けれど返事は出来ずにただ寝たままの状態で空虚を見つめる。医療班の人が返事が無いことに気を悪くした風はなく、事務的に「失礼します」と言って部屋を出て行った。

最近の仕事量は確かに多かったが、理由はそれじゃない。私の目からはまた涙が溢れて、目尻から頬を伝い耳にまで涙が入る。けれど、それを拭うことも、大声を出して泣き叫ぶ気力も残っていなかった。

泣いて何かが変わる訳じゃないと分かっているし、そもそもスクアーロさんが死んだなんて信じられない。けれど、先程の隊士の会話にあった【剣士としての誇り】という単語が忘れられなかった。彼は誰しもが知り恐れた剣帝テュールを破った無敗の、正真正銘の剣士だ。そして誰よりも剣士であることに誇りを持っている。

そんな彼が、敗北したら。

どんな状況かは分からない。でも、これまで負け無しの彼が死を選ぶという選択をしたことに、ずっと一緒にいた自分は、頭の中で納得出来てしまった。

でも、納得は出来たとしても、はいそうですかと認めるなんて不可能だった。マフィアの…それも暗殺部隊に身を置く自分達にとって死は常に隣り合わせで、次の瞬間には自分の頭と胴体が離れているかもしれない。そんな気を張った毎日の中で、唯一安心して、甘えられて、ただ同じ空間にいるだけで幸せを感じられたのは、スクアーロさんだけだった。

私にとって、たった一人の、大切な人。

その人が、もう、いない。

もう、会えない。


「スク、アーロ…さん…」


私が泣いた時、乱暴に、けれど優しく涙を拭ってくれた愛しい人は、もういない。もう誰も拭ってくれない。

スクアーロさんを想えば想うほど辛くなり、涙が溢れて止まらない。私はずっと、ずっと、一人きりで泣き続けた。








スクアーロさんが居なくなってから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。私の世界は色を無くした。世界はあんなにも色彩豊かで美しかったのに。今では全てがモノクロの様で、何も感じられなくなった。

リング争奪戦、ヴァリアーは敗北した。そしてボスを含め全員が重体らしく、ある程度は日本の病院で治療してから戻るとのことだった。

そしてボス達が帰ってきたら、今回の件でヴァリアーは全体的に罪に問われることになる。最悪、全員が処刑かもしれない。

もう何でも良かった。スクアーロさんがいない世界で生きていける程、私は強くない。いっそ処刑になればいい。死んだら、あの世で彼に会えるかもしれないから。

それでも自ら死を選ぶことは出来なかった。事務員といえどもヴァリアーに身を置く者として私も戦闘術は一通り身につけている。どの部位をどうすれば即死出来るか、それを実行するのは容易い。そして死んだら楽になれる。

でも…そんなことをしたら。剣士としての誇りを守る為に死を選んだ彼に会えないと思った。私には受けるべき罰がある。それを全うせずに逃げたら、きっとスクアーロさんは怒るだろう。そう思うと安易に自殺は出来ず、私は処刑をただ待つばかりだった。

そんな毎日を送っていたある日。ボス達が帰ってくるとの報せが入った。敗北しヴァリアーが解体するかもしれなくても、アジトに残っていた隊員達はボス達の帰りをずっと待ち侘びていた。ボスの為ならばどんな処罰でも受けると誓い、ヴァリアーから逃げ出す者は誰一人いなかったし、報せが入った瞬間に隊員達は迎える為にアジトの入り口へと集合していた。

私の足は、動かない。だって、スクアーロさんは帰ってこないのだから。

隊員にとって、ボス達の帰還は嬉しいものだ。私だって嬉しいし、もちろんボスには忠誠を誓っている。けれど、もう何もかもがどうでも良かった。何を見ても何も感じらない私が出迎えたところで、気の利いた言葉の一つも言えないだろう。

そして何より、ボス達の中にスクアーロさんがいない現実を見てしまったら、今度こそ私は私でいられなくなると思った。

だから私は、逃げるようにアジトの奥へと走った。そして辿り着いた先は、スクアーロさんの部屋。

ずっと怖くて近づけなかった部屋。

私は肌身離さず持っていた合鍵を取り出して、躊躇いなく部屋に入る。机、ベッド、テーブル、ソファー…


「いつ来ても、何も無い部屋ですね…」


小さく呟いた言葉は、部屋の空間に消える。スクアーロさんが日本へ行く前から何も変わっていない、シンプルな部屋。

何度も、何度も訪れた部屋。

スクアーロさんが怪我をして帰って来た時、小さな救急箱を出して手当てをした事があった。

あのソファーの上で、いつも私を抱き締めてくれた。温かくて、とても心地良かった。大きな胸板の中が、私の唯一の安らげる場所だった。

ゆっくりとベッドに向かう。

シーツは、少しだけスクアーロさんの匂いがした。

私は、スクアーロさんの匂いが大好きで。よくこの大きなベッドで、一緒眠った。

想い出すのは、色褪せない想い出ばかり。もう枯れたと思っていた涙が溢れ落ちる。

床に跪きベッドにもたれた。色を無くした私の世界だったけど、この部屋には想い出という名の色が在る。

自然と、瞼が重くなってきた。窓からの優しい光を浴びながら私は目を閉じる。

貴方の香りに囲まれて。どうか夢だけでも、貴方に会えますようにと祈りながら。










―――夢を、見た。

大好きな温かい手のひらで頭を撫でられている夢を。

ナマエ、と。名前を呼んでくれた。切なげな声で、私の名前を呼んでくれた夢を。


「…スクアーロさん…」


もう居ない事は明白だった。もう居ないと、もう私の目の前には現れてはくれないと。

なのに。


「…久しぶりだなぁ…」


ああ、どうして。

目の前で、私と同じように床に座り込んで微笑んでいる愛しくて溜らないスクアーロさんに、私はゆっくりと手を伸ばした。


「…な…んで…」


スクアーロさんの頬に触れる。確かに熱を持っていて、とても温かい。触れた私の手の上から、スクアーロさんが手を重ねる。


「…絶対、帰って来るって言っただろぉ?」


目の前にいるスクアーロさんの顔がぼやける。胸がいっぱいになって、自分の中のモノクロ世界に色が戻ってくる。同時にたくさんの言葉や気持ちが溢れてきて、そして、久しぶりに、私は笑った。


「…おかえり、なさい…!」

「…ただいま、ナマエ」


微笑むスクアーロさんに抱き締められた腕の中は、前までと何も変わらない心地良さで。私は嬉しくて、嬉しくて、また涙が溢れた。





その後、ヴァリアー全体的に与えられた罰は処刑ではなく、長期間の謹慎処分と難易度任務の増加だった。暗殺部隊の存在は必要不可欠であり、ボンゴレの為に誠意を尽くせとのことらしい。

スクアーロとナマエは忙しいながらも、幸せな日々の続きを過ごし始めたのだった。



20121215




- ナノ -