未知との邂逅


長い、長い夢を見ていた気がする、と、ぼんやりする意識の中で亜希は思った。ふかふかとした温かい何か…ベッドに寝そべっているようで、体を動かそうとしても思うようにいかない。次いで左腕に何かかが流れ込んでいることに気付き思わず呻き声が漏れた。亜希は、ゆっくりと目を開ける。

視界に広がる白。眩しいくらい明るい色に焦点が定まらず視線を彷徨わせる。白い天井、ここはどこかの部屋なのかと思った瞬間、視界に赤い何かが入ってきた。

見たことがあるような気がすると、記憶を辿る。そして脳裏に浮かんだ、愉快そうに笑う槙島の顔。ついに姿を現した悪魔だと気付いた亜希は、先程まで少しも動かなかった体を本能で動かして距離を取る。その反動で左腕から違和感が抜け落ち派手な音を立てたが、目の前に広がる信じられない光景に、思わず目を見開いた。


「…お前、誰だ…」


小さく出た言葉のなんと情けないことか。けれど亜希は、ただ凝視するしかできない。

―――赤い、大きな翼を広げた男。嘘くさい笑顔を張り付けた男はゆっくりと亜希に近寄ってくる。ベッドを挟んで詰め寄られ、ゆうに天井に届くその翼の大きさに唖然とする他ない。

でもこの翼を、亜希は朧気に覚えていた。ドミネーターを向けたのに通信エラーで発砲することは叶わなかった、二度も取り逃した…悪魔。


「…言っときますけど、悪魔じゃないですよ。俺のこと知らない?結構有名なヒーローなんだけどな」


なんで見透かされているのかと驚愕したのと同時に、亜希の記憶にある槙島聖護とは似ても似つかない顔だとも思った。金色のような黄土色のような明るい髪に薄茶色の肌は、全身が白と灰白色に包まれた槙島とは正反対とも言える。そして引っかかる、男の言葉。


「…ヒーロー?…何を馬鹿なことを…、それは…ホログラムか…?」


今時、ヒーローなんてものを名乗る輩がいることに驚く。あんなものは子供騙しのおとぎ話だ。背中の大きな翼も、きっとホログラムだろうと亜希は思った。SNSで知り合った者達がアバターと同じホログラムコスチュームを身に纏ってオフ会に参加していることもある。見た瞬間は驚いたが、所詮ただの映像だと分かれば怖くない。

そう思ったのに、目の前の男は首を傾げている。


「…え?なんて?」

「…ホログラム、なんだろ?」

「…ホログラフィック技術のことですか?映像とかを投影するやつ?」


頷き、疑問が浮かぶ。この現代に生きていてホログラムを知らない訳がないのに、男の表情には見てわかるほどに疑問が浮かんでいる。アバターと生身の自分の区別がついていないのか、それとも油断をさせようとしているのか分からないが、槙島聖護でないとしても危険人物には変わらない。

うーん、と考えるような素振りを見せた男が一瞬だけ視線を逸らした隙に、亜希はさっきまで自分が寝ていたベッドのシーツを勢いよく剥がして男に向かって投げた。何か武器になるモノはないかと瞬時に視線を巡らせ、床に転がっているチューブがついた針を即座に拾ってベッドに飛び乗る。シーツが壁に叩きつけられるように動き、現れた男の胸倉を掴んで首に針を突き立てた。

男の表情は読めない。亜希の行動に少しも動かず、ただ亜希をじっと見返している。亜希は両手に力を込めて男を睨む。


「…何者だ」


短い問いに男は先程まで浮かべていた薄ら笑いを引っ込め、小さく呟く。


「…貴方こそ、何者ですか」

「…!」


その瞬間、体の周りに無数の殺気が集まる気配がした。ピリピリと空気を裂くような鋭い何かが体を覆っている。驚いて顔を動かすと、肌が切れる鈍い痛みが頬に走った。視界に広がる赤い羽が、信じられないことに空中で止まって、鋭利な先端を自分に向けているではないか。


「所属と名前を言え」


冷たく低い声に、亜希は何故、痛みを感じるのか考える。この翼がホログラムであれば触れないはずだ。ただの映像に感触を持たせることはできない。なのに、どうして。

いくら考えても分からないが、もしかすると最新の技術を搭載した特別なモノなのかもしれない。ならば今は、現状を把握するまでは大人しく従うのが身のためだと思い、亜希は男に視線を向ける。


「…厚生省、公安局刑事課一係。監視官、立花亜希」

「昨日、東京タワーの下で何をしていた」


続く男の言葉に、亜希は今度こそ困惑した。


「…東京タワー?何を言っている…そんなもの、とっくに無いのに」

「は?」


何十年も前に、経済や行政の崩壊と共に壊された、かつての観光スポットである東京タワー。今では同じ場所に厚生省のノナタワーがそびえ立っている。人々から存在を忘れ去られていると言っても過言ではない昔の東京のシンボルの名前が、どうして出てくるのか亜希には疑問だった。しかし男もまた、何を言っているんだと言わんばかりの表情を浮かべている。


「その手を放せ!」

「ああ、分かっているよ」



その時、脳裏に浮かんだ光景に亜希は思わず息を飲んだ。大好きな人の焦った顔と、愉快そうに目を細める悪魔の笑顔。どんなに手を伸ばしても届かず、浮遊感に包まれ落下した感覚が全身を駆け抜ける。

 
「(私は…)」


蘇る記憶、体験に、亜希の体が震えた。その瞬間を見逃さなかった男が亜希の両手を掴んで下ろす。反動で持っていた針が亜希の手からするりと落ちたが、震えは止まらず体から力が抜けていく。


「…ノナタワー、でしょう?」

「…なんですか、それ」


どこまでも知らないといった顔をする男を、ただ見返すしかできない。


「何を、言って…だって、私はそこから落ちて…」


あの高くそびえる建物の屋上から、落ちた。投げ落とされた。闇と凍るような空気に包まれ落下していく絶望感を、亜希は確かに覚えている。夢でもなんでもなく、あれは現実だったのに。どうして自分はこうして息をしているのかと不思議でたまらない亜希の両手に、ふわりと落ちてきた赤い羽。手のひらに乗せると柔らかくて軽い感触。これは、ホログラムではない。本物の…羽。

戸惑う亜希の顔に温かい何かが触れた。驚いて顔を上げると、至近距離で男と目が合う。頬に僅かな鈍い痛みが走り、思わず肩が揺れる。それでも離れることのない大きくて温かい男の手と、獰猛な獣のような瞳が、亜希の記憶の狡噛と重なった。


「…もう一度聞きます。貴方は、何者なんですか」


違う姿、違う声、なのにどうして、この見知らぬ男と狡噛が重なるのか亜希には分からない。けれど、つい先程まで殺気を飛ばし合っていた男との間に流れる奇妙な沈黙が居心地の悪いものではないのは、きっと狡噛と雰囲気が似ているからだろうと頭の片隅で思う。


「…えっと、俺も、色々と聞かせてもらってもいいかな?」


突然聞こえた第三者の声に、目の前の男は亜希から離れた。視線を向けると、物腰の柔らかそうな男が立っている。


「(この人には、翼はない…普通の人間、なのかな…)」


思わず安堵し気張っていた緊張が解ける。けれど、その手に持っている黒い手帳を見て、再度驚いた。


―――【POLICE】


…警察。何十年も前になくなった、かつての刑事がいた機関。

なぜ、どうして。

思わず手のひらに包んでいた羽を握りしめる。翼を背負う男がじっと見つめていることに気付かない亜希は、ただ茫然と、その黒い手帳を見つめた。



20200611


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