諸行無常に異論あり
「こうやって、左手で野菜を持ってください」
「こう?」
「うん。で、指を切らないように気をつけて…そうそう、そんな感じ」
カウンターキッチンに並んで立つ。お米を研いで炊飯器にセットした後、ホークスは亜希にピーラーと包丁の使い方を丁寧に教えた。
最初こそ危なっかしい手付きだった亜希だが、ホークスの教え方が上手いのか、すぐに慣れたようだ。
「亜希さん器用ですね〜」
「武器だと思えば簡単だね」
「武器て」
そういえば、彼女は拳銃も一瞬で扱えるようになっていたことをホークスは思い出す。亜希はゆっくりであるものの、じゃが芋、人参をピーラーで綺麗に剥いていき、「目が!」と苦しみながらもタマネギも切っていた。
「うっ…目が痛い…」
「タマネギ切ると涙出ちゃうんですよ」
涙目になりながらタマネギと格闘する亜希にホークスは笑いながら、隣でレタスを千切ってサラダを作る。
食材を切って、炒めて、煮て。カレールーを入れて混ぜれば完成。とても簡単だが、亜希は初めての料理に感動したのか目をキラキラさせていた。
「すっごく美味しい」
「ふふ、良かった」
頷きながらパクパクと大きな口を開けて食べる亜希は早速「おかわりする」と言って、二杯目を皿によそった。
一箱分作ったので二、三日は持つかな。とホークスは思っていたが、よく食べる彼女だと今日一日で無くなってしまうかもしれない。苦笑しつつも、今まで食べたどのカレーよりも一番美味しいと彼も思った。
「亜希さんは、明日仕事何時から?」
「9時だよ、最初に警察試験受けてくる。筆記と体力テスト」
「ああ、言ってましたね」
亜希が警察に入るのは決定事項だが、雇用上、試験を受けることは必須らしい。警察手帳を交付してもらった後に試験を受けるだなんて不思議な話だが、上層部も亜希の実力を把握したいのだろう。
「どんな内容かな…塚内さんは簡単って言ってくれたけど」
「大丈夫でしょ。もし筆記がやばくても、体力テストは亜希さん満点出しそうだし」
「……」
「ん?どしたの?」
褒めたつもりが黙り込んだ亜希は、みるみる赤くなる。
「……」
「…あ、もしかして、腰痛い?」
「…うん、ちょっとだけど」
小さく頷く彼女が可愛いと思いつつ、やはり昨日やり過ぎたと申し訳なくなったホークスは、スプーンを置いて真剣な顔を亜希に向けた。
「…今日は、うんと優しくするから」
「え、無理無理、今日は絶対無理」
「え」
断固拒否する彼女にホークスは絶望の表情を向ける。亜希は目線を逸らしてカレーを食べ進めた。
「無理だよ…まだ痛いもん。明日試験だし無理」
「えっ…えー?!嫌だ!俺こそ無理!もう痛いことしないように気をつけるから!!」
「…声大きい。無理なものは無理」
「やだやだ!亜希さん抱かせて!お願い!」
「なっ、だから無理!」
赤い顔のままピシャリと言い切る亜希に、ホークスはガクッと項垂れる。今日は昨日よりは余裕を持てるはずだから彼女の身体中に優しく触れるつもりだったのに。だが、あられもない亜希の姿を見れば、また我を忘れる可能性も無いとは言い切れない…いや、おそらく忘れる。
今日も期待していただけに非常に残念だが、彼女は明日から仕事だ。無理をさせて困らせることはしたくないのも事実。ホークスは深い溜め息を吐きながら自分の欲は我慢しようと渋々納得する。でも、
「…お風呂は一緒に入りたい」
「え…」
「変なことしないから、お願い」
半泣きのホークスから頭を下げて懇願された亜希は「うっ…」と言葉を詰まらせた。彼女自身も体を重ねることは嫌な訳じゃない。ただ明日に響くのを避けたいだけだ。
「…」
「亜希さん…」
「…分かった」
それに、この部屋はホークスが契約している。彼に何となく逆らえない気持ちもあり、亜希は赤い顔のまま小さく頷いた。
「やった!じゃあ俺お湯入れてきます!あ、さっき傷に効く薬用の入浴剤買っといたんで安心してください!」
嬉しそうに顔を上げたホークスは残りのカレーを一気に食べて、風呂場へと駆けていく。なんて準備の良さだ…と思いつつ、亜希も食事を再開した。
▽▽▽
ポチャン、と、水音。
一人では広すぎる浴槽だが、二人で入れば丁度良い。ホークスの大きな翼も問題なく全部浸かることができる。
ホークスは朝のように彼女の体を優しく洗い、横抱きにしてぬるま湯に入る。傷口に染みないよう、ゆっくりと時間をかけて。
恥ずかしがる亜希が背中を向けたので後ろからギュッと抱き締めた。細い肩に顎を乗せて、耳たぶを甘噛みする。
「ちょ…っ、啓悟、変なことしない、って言った」
「ん〜?変なことじゃないもん。亜希さんの耳好きなだけ」
「もう、そこで…っ、喋らないでよ…」
身動ぐ彼女を離さないよう腕に力を込め隙間なく密着した。小さな体は腕の中にすっぽりと収まって、触れる部分はどこも柔らかい。
「はぁ…気持ち良い。ずっと触ってたい」
「あの、なんか…当たってるんだけど…」
亜希の腰に、硬い何かが当たっている。我慢はするが、こんな状況で勃たない訳がない。ホークスは素知らぬフリをしながら彼女の髪に顔を埋める。
「亜希さん、好き、大好き」
「ん…」
「めっちゃ好き」
「…私もだよ」
「そういえば、いつから俺のこと好きだったの?」
「え…?いつだろ…うーん…」
「俺はね、一目惚れ。そんで、一緒にいる内にもっと好きになったよ」
にこにこ笑いながら、ホークスはいかに亜希が好きか話し出す。ペラペラと出てくる愛の言葉に照れた亜希が「もう分かったから」といくら言っても、彼の口は止まらなかった。
耳を塞ぎたくなりながらも、亜希もぼんやりと考える。たぶん、明確に意識したのは彼が初めて泣いた日からだ。けれど…彼女もまた、出会った時から鋭い瞳に惹かれていたのかもしれない。
…恥ずかしいから、本人には言わないが。
「…ね、そろそろ出よ?逆上せそう…」
振り返った亜希が汗ばんでいることに気付き、ホークスは残念に思いながらもキスを落として彼女を抱き上げる。
ホテルよりは狭いが広さのある脱衣所で互いに体を拭いて、今日買ったばかりの揃いのパジャマを身に付けた。リビングの大きなソファーでドライヤーを掛け合い、デザートとして買っていたプリンを食べながら笑い合って他愛ない話をする。
楽しい時間は、あっという間に過ぎた。
青と赤の歯ブラシで一緒に歯を磨き、灯りを消して大きなダブルベッドへ。二人で並んでも余裕のある布団の中で、ホークスと亜希は足を絡ませて抱き合う。
「…何時に起きる?」
「四時半くらいかな…五時には出発しようと思ってる」
もう、一緒にいられるのは、たった数時間しかない。そう思うと自然と抱き締める腕にも力が入った。
「…朝ご飯、私が作る。たぶんトースト焼くくらいだけど」
「え、亜希さん寝てていいよ?明け方だし…」
「ううん…起きる」
最後の見送りくらい、させてほしい。その思いを込めてホークスの胸に顔を埋めると、嬉しそうな声が頭上から聞こえる。
「…ありがと。じゃあお願いします」
「うん…」
何にも変えられない、この温もり。出来るだけ長く覚えておきたくて広い胸に耳を付けると、規則正しい心臓の音が聞こえて安心する。
ホークスが優しい手付きで髪を撫でると、やがて、亜希は眠りについた。
そして、夜明けの時間。
ホークスが身支度をしている間に、亜希は頭を悩ませながらも朝食の準備に取り掛かる。
昨晩の残りのサラダと、インスタントのスープ。トーストを焼いている間にフライパンに生卵を落とすと見事に黄身が潰れてしまい、完成したのは歪な目玉焼きだった。
そんな不格好な料理でも、ホークスは「亜希さんの初めての目玉焼きだ〜」と笑顔で美味しいと言ってくれたので、亜希も安堵する。
そうしている内に、すぐに出発の時はやってきた。
久々のヒーローコスチュームに身を包んだホークスはベランダに出て、後ろにいる亜希を抱き締める。
「また、近い内に」
「…うん」
見つめ合って、触れるだけのキスを交わす。
「連絡するから、俺用のスマホちゃんと持っててね?」
「…肌身離さず持ってる」
ホークスは嬉しそうに頷いてから窓枠に足をかけ、亜希を振り返る。
「じゃあね」
そう言って、ホークスは亜希の返事を聞くことなく、飛び立っていった。
小さくなるホークスの後ろ姿を見つめていた亜希は、ベランダの柵に背中をつけて座り込む。
「…ほんと、速いな…」
驚く程、呆気なく去っていたホークス。東京から福岡まで帰ればすぐにヒーローの仕事が待っているのだろう。
亜希は膝を抱え、俯く。
二度と会えない訳でもないのに…大好きな人と離れることが、こんなに不安だなんて。こんなに、寂しいだなんて。
ずっと一緒にいた彼がいない日々が、これから始まる。
この大きな部屋で、一人で生活していくのか。キッチンも、ソファーも、風呂場も、ベッドも。たった一日なのに、彼と過ごした時間が色濃く刻まれてしまったせいで余計に広く感じてしまう。
次はいつ会えるのだろう。ホークスも自分も忙しい日々を送るのだ。この二連休も、塚内の優しさが無ければあり得なかった。
約束なんて、出来ない。
「啓悟…」
思わず、愛しい人の名を呼ぶ。
その時、ふと、影。バサリという音。
「亜希さん」
顔を上げれば、息を切らした彼の姿。
「け、いご…」
「…忘れ物」
ホークスは驚いて立ち上がった亜希の前に跪き、彼女の左手を取る。そして、細い薬指に噛み付くように吸い付いた。びりっとしたわずかな痛みに驚くと、指の付け根に、くっきりと残る、まるで指輪のような跡。
「これが消える前に、会いにくる」
だから、泣かないで待っててね。
そう言って笑うホークスに、亜希も泣きそうだった目を細め、笑顔を向ける。
約束なんて、できない。けれど、これだけでもう、十分だった。
今度こそ飛び立っていったホークスを姿が見えなくなるまで見送った亜希は、ゆっくりと部屋へと戻る。
丁度、仕事用のスマートフォンがテーブルの上で音を立てた。画面には見知らぬ番号。
「はい」
『私よ。塚内警部から番号を聞いたわ』
「…貴方は、」
これからの、自分のもう一人の上司。
『今日の試験の前に、こっちに来なさい。貴方の今後について話をしましょう』
「分かりました。よろしくお願いします」
『…ホークスにはうまく言っといたけれど。気をつけなさいね。あの子は本当に感が鋭いから』
「…はい。ありがとうございます」
『じゃあ、また後で』
通話を切った亜希は、ハンガーに掛けていたスーツに着替え始める。身なりを整える為に洗面所に向かい、鏡に映る自分をじっと見つめた。
「…私、こんな顔で笑ってたんだ」
どこまでも冷たくて無表情だった自分はもう、どこにもいない。見慣れた顔に浮かんでいるのは、覚悟と…笑顔だ。
―――全てを監視された世界で、決められた人生を、死に向かって歩んでいた。
支えたいと想った人を救えず、どんなに頑張っても追いつけないまま、犯罪者に敵わなくて、諦めた。
そして、この世界でも、きっと同じことの繰り返しだと。
弱い自分は、また同じような生き方をして、誰も守れずに死んでいくのだと思っていた。独りきりで、それを受け入れようとしていた。
けれど、彼が、全てを塗り替えてくれた。
心に広がる暗くて冷たい闇を、明るく照らしてくれた。
笑い合うことが、こんなに幸せなことだと教えてくれた。
「私は…」
初めて、自らの意思で、選択した。
私はここで、貴方の為に生きていく。
この先、何が待ち受けていようと、もう諦めない。
愛する人と、共に生きていく。
「…貴方を、守る」
薬指の真新しい痕を撫でた亜希は、新しい一歩を踏み出した。
諸行無常に異論あり 完
20200725