甘い甘い、幸せな時間


「亜希さーん、お風呂どうぞ」

「…はい」


何故か敬語で返事をする亜希に、ホークスは声を出して笑った。

スーツの替えと、ホテル周辺のコンビニで寝間着として買った黒のTシャツと短パン、そして以前ホークスにプレゼントしてもらった服しか荷物のない亜希は今、ホークスが泊っている広い部屋の隅っこにある椅子で縮こまるように座っている。

亜希は異性の部屋に泊まったことなどない。手を繋いだのも抱き締められたのもキスをしたのも、全てホークスが初めてだった。刑事課にいた頃に悪ノリした唐之杜に押し倒されて襲われそうになったことはあったが、本当にそれだけである。

ホークスの部屋はホテルの最上階で、亜希が泊っていた部屋とは内装が全然違った。広さもテレビ画面もソファーもベッドも、何もかもが大きい。それが余計に落ち着かなくて、やっぱり来なければ良かったと思う。

緊張して動かなくなった亜希を横目に風呂の準備をしたホークスは「先どうぞ」と勧めたのだが、亜希が「後から入る」と言って聞かなかった為、先に入浴した。待たせたら悪いと思い急いで風呂から出たのだが、彼女の表情はずっと強張ったまま。

自分を意識してくれていることはかなり嬉しいが、あまりの緊張っぷりに笑いが止まらない。


「ふふっ…そんな端にいないで、こっちのソファーにおいでよ」


ホークスの言葉に「お構いなく」と言いながら僅かに顔を上げた亜希は、途端に顔を真っ赤にして椅子から落ちそうになった。


「なっ、な…!」

「危なっ、どしたの?」

「なんで服着てないの?!」

「ああ、翼があるから。寝るとき上は着ないんですよ」


しれっと答えるホークスから亜希は勢いよく目を逸らし、寝間着を引っ掴んで風呂場へと直行する。ホークスが笑っている声を遮るように音を立ててドアを閉めてから、彼女は盛大な溜め息を吐いた。


ホークスはタオルで髪の毛を乾かしながら、亜希の初心すぎる反応に思わず頭を抱える。普段とのギャップが激しすぎやしないか。聞こえてくるシャワーの音に、なんだか自分まで緊張してきてしまう。

とりあえず落ち着こう、と、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に飲み干した。経験がない訳じゃない。でも、こんなに誰かを好きになったのは初めてのことで、ホークス自身もどうしたらいいのか分からない程に気持ちは昂っていた。


「はあ…俺大丈夫かな」


ポツリと呟きながらソファーに身を沈める。自分でも気付かないほど考え込んでいたのか、いつの間にか水音は止んでいた。しばらくしてから開かれるドアに顔を向けると、相変わらず目線を合わさないようにして風呂場から出てくる亜希。

頭から被ったタオルで顔を隠しながら先程まで座っていた椅子の方へ行こうとしたので、ホークスは慌てて立ち上がり細い腕を掴む。しっかり温まったらしく、彼女の体温は自分より高かった。


「なんで離れるん、こっち来てよ。髪の毛乾かしてあげるから」

「じ、自分でできる」

「遠慮せんで、はい座って」


半ば引っ張るようにして亜希をソファーに座らせる。自分は正面に膝をついて、被せられているタオルに手を伸ばした。俯いたまま固まっている亜希の濡れた髪から自分と同じシャンプーの香りがして、頬が緩む。

わしゃわしゃと髪を乾かすように手を動かし、それからドライヤーをかけた。その頃には亜希も少しだけ慣れたのか、気持ち良さそうな表情を浮かべている。

スイッチを切ってから彼女の顔を覗き込むと、やっと合う目。相変わらず頬は赤いままだが、亜希は小さく笑った。


「…ありがと」

「ん、どういたしまして」


ホークスが彼女の小さな顔を両手で包んで、ゆっくりと顔を近付けると、亜希は目を閉じる。

ちゅ、っと、触れるだけのキスを繰り返しながら、彼女の柔らかい髪を撫でるようにして右手を後頭部に、左手は細い肩を抱くように回すと、小さな手がホークスの胸に添えられた。

固く閉じられた唇をぺろりと舐めると、驚いた亜希が少し口を開ける。その僅かな隙間に舌を捻じ込ませると彼女の肩がびくりと震えたが、構うことなく歯列をなぞるように動かし、形の良いぷっくりとした唇を甘噛みする。


「…ん…、っ、」


漏れる亜希の声すら飲み込み、深い口づけを続けながら彼女をソファーに沈めるように押し倒した。ほんの一瞬すら離れたくなくて、跨って、隙間なんて存在しないかのように密着する。

小さな手がホークスの胸を押し返すが気にも留めず、彼女の口内を味わうように吸って、舐め。逃げる舌を執拗に追いかけて絡ませては、角度を変えて深く侵入していく。


「ぁ…っ、んぅ…」


小さな声に少し目を開けると、ぎゅっと目を閉じた亜希が視界いっぱいに広がって体に熱が集まった。同時に薄っすらと瞼を上げた彼女の漆黒の瞳が潤んでいることに気付き、唇を少しだけ離すと、


「い…息、…っ、…でき、ない…」


肩で息をしながら呟く亜希に睨まれる。羞恥に染まった彼女の顔は、きっと誰も見たことがない自分だけが知る唯一の表情。芽生える独占欲と支配欲に溺れそうだ。


「…鼻で息して」

「で、出来ないよ…分からない」 

「じゃあ…慣れるしかないね」


亜希が抗議の言葉を口にする前に、再び唇を合わる。キスだけでこんなに幸せで気持ちが良いなんて、この先の行為をしたら一体自分はどうなるのだろう。


「はっ…、ぅ…、」


吐息に誘われるように彼女の手を握る。普段は冷たいのに今は汗ばんでいる掌。彼女の余裕のなさが伝わって嬉しい。呼吸の仕方を忘れたような亜希の目尻から生理的な涙が零れ落ち、ホークスはそれを舐めて拭った。


「亜希さん…好きだよ」

「ぅ、ん……私も…」

「ん…大好き、本当に好き」


赤い頬、鼻先、顎、そして普段は髪に隠れている耳にまで次々とキスを落とすと、彼女は身動いで小さく笑う。


「…くすぐったいよ」

「耳、ちっさくて可愛いね」

「ちょ…っ、そこで喋らないで」


亜希の抵抗は無視したまま柔らかい耳朶を口に含むと、漏れる甘い声。もっと聞きたくて、細い首筋にも舌を這わす。

鎖骨にも唇を落とそうとして緩い襟元を引っ張った時、ホークスは目を見開いた。


「…これ……」


真っ白な肌に浮かぶ、痛々しい5センチほどの傷跡。鎖骨の先、彼女の左肩に堂々と存在している戦いの名残りに思わず見入る。ふと、亜希を初めて見つけた時に重傷だったことを思い出す。そして今日、同じ場所に剃刀を突き立てられたことも。

突然動きが止まったホークスを不思議に思った亜希は、その視線が肩に向けられていることに気付いて躊躇いがちに口を開いた。


「…傷、開いちゃって」

「…痛い?」

「ちょっとだけ…でも、もう大丈夫だよ」

 
ホークスは傷口に触れないようにキスを落としてから、彼女が着ている黒のTシャツの裾を少しだけ捲り上げる。

想像よりもずっと細くて薄い腹部、ちょうど鳩尾辺りにも、薄っすらとした縫傷。肩よりはマシだが、それでも十分に目立つ跡だ。

彼女が経験した痛みは、どれ程のものだったのだろう。もうこんな怪我は負わせたくない。けれど刑事として生きる亜希はこの先も、事件が起これば真っ先に突っ込んでいくのは明白だ。

そんな彼女のことが心配でたまらないが、同時に、そんな彼女だからこそ背中を預けることが出来るし、好きだった。

でも、穢れを知らないこの体に自分ではない奴が付けた跡が残っているのは、どうしても気に食わなくて。


「…俺も、跡つけたい」


醜い嫉妬心が湧き上がり、本能のままに亜希の右肩に噛み付いた。歯を立てると「痛っ」と聞こえたが、止められない。

そのまま、毒出しをした時のように思い切り吸い付く。もう血の味はしなくて、ただただ甘い匂いが鼻腔をくすぐった。


「待っ、痛…ぁ、」


小さな悲鳴が耳に響く。痛い思いをさせている、止めなければ。なのに、じゅう、と音を出して吸い続ける自分は酷い奴だと、頭の片隅で思う。

しばらくして、ゆっくりと口を離した。血が滲んだ歯形と痣のような鬱血痕に、驚くほど心が満たされるのを感じる。

何をするんだ、と言いたげな亜希の瞳から驚きと痛みが混じった涙が溢れたのを見て、そこでやっと罪悪感が浮かんだ。


「ご、ごめん…つい…」

「…い、痛いって、言ったのに…」

「ごめんなさい…」


慌てて涙を舐め取るが、眉を寄せて自分の下で泣く彼女の姿に興奮しているのも事実。でも嫌われたくないと思い、ホークスは亜希をぎゅっと抱き締めた。首元に顔を埋めながらもう一度「ごめんね」と謝ると、弱々しい力で背中に回された手。


「…しばらく、このままでいてくれたら許す」


少し拗ねたような口調とは裏腹に、彼女の指先はホークスの翼の付け根を優しく撫でた。それがとても気持ち良くて、「うん」と頷く。

今まで何かに執着することは無かったのに、亜希だけは違った。彼女に関することは全部自分だけが知っていたいし、自分だけに見せて欲しい。他の誰にも渡したくない、絶対に。

そんなことを考えていると、背中にある彼女の手の動きが止まっていることに気付く。


「亜希さん?」


そっと顔を上げると、目を閉じている亜希の姿。微かに聞こえる規則正しい吐息は、彼女が寝てしまったことを物語っていて。


「え、…嘘…亜希さん?」

「…」

「亜希さーん…」

「…」


いくら呼び掛けても返答はなく、ホークスはガクッと項垂れる。まさか、こんなタイミングで寝る?そんなことある?と脳内で疑問が沸く自分とは正反対に、穏やかな表情を浮かべている亜希。


「もう…仕方ないなあ…」


盛大なお預けを食らってしまったが、普段よりも幼くて幸せそうな寝顔を見つめていると、なんだかどうでも良くなってきた。

きっと彼女は自分にしか、こんなに安心しきった顔を見せない。

深呼吸して昂る熱を落ち着かせる。亜希を起こさないように抱き上げてベッドに運び、抱き締めるような形で自分も寝転がった。

マキシマと戦い、リカバリーガールの治癒を受けたのだ。きっと疲れているのだろう。


「…明日、覚悟してよ」


幸い、まだ時間はある。今日は我慢しよう。

灯りを消してから亜希の唇にキスを一つ落として目を閉じると、ホークスにもすぐに眠気がやってきて。

彼女の温もりを感じながら、彼も深い眠りに落ちた。




20200721


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