霞む視界の先に
東京タワー頂上にある、外階段。雨がザーザーと降りしきる中、亜希とホークスが見下ろす先に男が立っている。
「ソの銃…まだ電力があル、のか…」
電気を身に纏うようにして現れた男は、小さく呟いた。右手には空になった注射器を持っており、首は遠目からでも分かるほど黒く腫れあがっている。
先程ホークスが風切羽で突き刺した背中からは血がポタポタと流れ落ちており、動きは鈍いが亜希が持っているドミネーターに焦点を合わせようと黒目だけは異常な早さで動いている。その表情は狂気に満ちていた。
亜希はドミネーターを真っ直ぐに向け、男の頭に照準を合わせる。慣れない左目で狙ったことで一度は外してしまったが、今度は命中させる。そう強く思いながら引き金に力を込めると、ドミネーターの装甲が一層青く光った。
形状が、扇形へと変形していく。これは電子分解銃…デコンポーザーだ。
「なんで…」
相手は人間なのに、ありえない。亜希の呟きに視線を向けたホークスも驚く。かつて、目の前で鉄骨を跡形もなく消し去った時と同じ形をしていた。
「それ…確かデコポンなんとか…?」
「…デコンポーザーね。ドミネーターが、男を人間と認識していないんだ」
ゆっくりとした足取りで階段を登ってくる男の“個性”が強すぎて、ドミネーターは脅威と判断してしまったのだろう。このまま撃てば男は間違いなく死ぬ。亜希は照準は外さないように構えたまま、どうするのがベストなのか、雨ですっかり冷えてしまった頭をフル回転させて考えた。
男はブースト薬の使用者…生きたまま確保し、マキシマについて知っている事を全て吐かせるべきだ。それに電力の大半を奪われてしまったドミネーターが撃てるのは、威力の強いデコンポーザーだと残り一発だろう。外したら、終わり。
どうする、どうしたらいい。亜希が眉間に皺を寄せた時、何かに気付いたようにホークスが口を開いた。
「…亜希さん、男の手を見て」
「手…?」
言われた通りに視線を向けると、男の両掌に電流が集まるように蠢いて、バチバチを音を鳴らしている。ホークスは翼を広げて亜希の前に立った。
「ああいう攻撃に優れた“個性”は、手を使うことが多いんですよ。だから…両腕を失くしたら、戦闘不能になる」
「両腕…」
ちょっと荒業だけど、と、ホークスは少し振り返って亜希を見る。
「ドミネーター、もう充電無いんですよね?あと一発ってところかな」
「…うん」
「亜希さん、その一発で男の両腕だけを狙える?」
「え…」
亜希が驚くと、ホークスは一つ、頷いた。
「俺が男の気を散らす。攻撃する時、男は両手を伸ばすはずだ。その瞬間を狙って」
「な…」
それは、ホークスがあまりにも危険すぎると亜希は瞠目する。病室で彼が放った羽が電気で焼き焦がされたのを亜希は見ていた。剛翼は奴に効かない。デコンポーザーの威力も強大だ。腕だけを吹き飛ばすことは出来るのか分からない。
ホークスは前に向き直り、目前に迫っている男を睨む。
「たぶん一瞬しか持たない。任せますよ」
けれど、考える時間が無い今、二人ができる唯一の方法だった。
「…分かった」
亜希の返答を聞いたホークスが地面を蹴るように上に飛び立った瞬間、亜希は身を屈めて階段を滑るように降りる。男は近付いてきた亜希が持つドミネーターを掴もうと手を伸ばすが、それを遮るようにホークスが上から無数の羽を叩き付けるように飛ばした。
「邪魔ダぁぁ!!!!」
男は勢いよく顔を上げ、叫びながら空に向かって両手を掲げる。まるで炎のような電流がホークス目掛けて放出され、赤い翼が音を立てて燃えるのが亜希の視界に映った。
雨と共に落下するホークスの体に咄嗟に手を伸ばそうとした彼女に、ホークスは一瞬で傷だらけになってしまった顔を向けて、
「撃て!!」
叫ぶ。
その言葉に導かれるように、亜希は上げたままになっている男の両腕に銃口を隙間なく突き付ける。一か八か、ゼロ距離で腕だけを撃ち抜くように思い切り引き金を引いた。
瞬間、ドミネーターから放たれたデコンポーザーの強い光が男と亜希を包む。あまりに眩い光に亜希が一瞬目を閉じた時、ふと右手に違和感を感じた。
目を開けると、視界一面に広がる淡い白の光。目の前にいた男の姿も降りしきる雨も何もかもが見えなくて、そして、
ドミネーターが、音もなく崩れるように、消えていく。
それを握っている右手も、透けていた。咄嗟に離そうとしても感覚がなく、まるで縫い付けられたように動かすことが出来ない。左手で引き剥がそうとしてもビクリともせず、右手の指先はどんどん透明に近付いていく。
「まさか…」
全身が、この淡い光を覚えている。ノナタワーから落下した時、途切れる意識の寸前で見た景色と同じだった。本来ならば交わることのない、二つの世界が交差する瞬間。
「や、めて…」
誰に言うでもなく、呟く。ドミネーターは完全に形を失くし、右手もまた、まるで不出来なホログラム映像のようにぼやけていく。
「いや…だ、私は…ここにいたい…」
左手の指先も、同じように透けていく。
「連れていかないで、待って…っ」
亜希の左目から、涙が一筋流れた。溢れ出す涙が右目に巻かれている包帯とガーゼを濡らしていく。
「…、私は…この世界にいたい…!」
必死で、叫ぶ。
「…ホークス…っ」
咄嗟に口に出たのは、いつも傍にいてくれた人。ずっと一人きりで、辛い思いを隠してきた人。だから、これからは…独りにしたくないと、思った人。
「…ホークス…、ホークス…っ、助けて…!」
両手が透けるのと同時に、いつも自分を助けてくれた彼を思い浮かべて弱々しい声を上げた。
その瞬間、背後から何かが伸びてきて亜希の消えかけている両手を覆う。温かい、それは…
「亜希さん」
優しい声と、彼の両手。
後ろから抱き締められるように、亜希の体が包まれる。その瞬間、あんなに動かなかった手が感覚を取り戻し、全身が引っ張られるようにして後ろに倒れた。
「…」
驚いて、瞬きを一つ。
目の前には仰向けに倒れている男の姿。男の両腕はあるが、白目を剥いて完全に気を失っている。
そして、淡い光の景色と同時に、ドミネーターも跡形もなく消えていた。自分の空っぽになった両手を包んでいる大きな温もりを、亜希はゆっくりと振り返って確認する。
「…あらら、そんなに泣いちゃって…」
涙で霞んだ視界の先に、ふんわりと微笑む彼の表情が映る。ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。
「ほら、もう大丈夫だから、泣かないで」
彼は亜希の左頬に手を伸ばして、親指で涙を拭う。
「…な、んで…っ」
嗚咽まじりに言うと、頬を優しく撫でられた。
「ん、ちゃんと聞こえましたから」
俺のことを呼んで、助けてって、言ってくれたでしょ。そう続けるホークスの姿は傷だらけで、羽織っていたジャケットは燃え尽きたようになくなり、黒のインナーすらも所々破けていた。背中の赤い翼は、少ししか残っていない。
亜希はホークスの首に腕を回して抱き付いた。黄土色の柔らかい髪からは少しだけ焦げた匂いがして、それが彼が受けた攻撃の悲惨さを表しており、また涙が流れる。彼の首元に顔を埋めて小さな声をあげて泣き続けた。
電力の強すぎる攻撃を一身に受けて落ちる姿に激しく動揺して、不安が駆け抜けた。「撃て」と彼が言ってくれなかったら迷わず手を伸ばしていた。そうしていれば今頃、二人とも男にやられていたかもしれない。
二つの世界が交差した瞬間、もう彼に会えないのかと思った。それだけは…絶対に嫌だと思った。
いつの間にか心を占めていたホークスの笑顔を、もう見れないと思うだけで胸が張り裂けそうになって。
「…ぅ、…、ホー、ク、ス…」
また、こうやって笑いかけてくれることが、亜希はどうしようもなく嬉しくて。自分よりもずっと逞しくて温かい体に縋り付く。
「…どうせなら、名前で呼んでほしいな」
「…、啓、悟…っ、啓悟……」
ホークスも、亜希の背中に腕を回してぎゅっと抱き締めた。腕の中で嗚咽を漏らしながら泣く彼女は震えていて、自分の名を必死に何度も呼んでくれる。
この世界にいたい、と。
聞こえた言葉に気付いた時には残り少ない剛翼を羽ばたかせて、光に包まれた彼女を声を頼りに探し出し、掴んでいた。
初めて見る弱々しい姿の亜希を、もう、決して離しはしない。
いつの間にか、雨は上がっていた。
20200712