照れ隠し
ポリポリ、ポリポリ。
何か音が聞こえる、と、ホークスはぼんやりしながら目を開けた。途端に入ってくる光景に、思わず「え?!」と声が出る。
「あ、おはよう」
ポリポリ、ポリポリ。亜希がキュウリの一本漬けを丸かじりしていたのだ。ホークスは驚いて顔を上げようとするが、首が痛くてうまく動けない。昨晩、亜希の手に擦り寄るように眠ってしまった自分は、変な体勢で寝たことにより寝違えたらしい。
ホークスが痛みに顔を引き攣らせてる間も亜希は黙々とキュウリをかじっており、枕を背にして座る膝元には塚内が置いていったコンビニの袋が乗っている。あっという間にキュウリを食べ切った亜希が今度はサバの缶詰を取り出したので、ホークスは慌てて止めた。
「ちょ…っと待って、それは止めときましょ」
「え、なんで?」
そう言った亜希は袋に付いていた付箋をホークスに見せる。小さな紙には『立花さんへ しっかり食べてね by塚内』と書かれており、「コレ私が食べていいんでしょ?ダメだった?」と首を傾げるが、そうじゃない。だいたい箸もないのにどうやって食べるつもりなんだ。しかも何故それを選ぶ?と思いつつ、ホークスは亜希からサバ缶をやんわり取り上げる。
「…亜希さん、体調は?」
「右目が痛いけど大丈夫。とりあえずお腹空いてるから何か食べたい」
「…そっか、良かった」
彼女がいつも通りで安心した。いつも通りすぎる気もしたが、きっと昨晩のことは覚えていないのだろう。それが寂しいような気はするが二度も泣き顔を見られたとなっては流石に恥ずかしい。
ホークスが誤魔化すように咳払いを一つして、サバ缶の代わりに「これイレイザーさんから」と相澤が置いていったゼリー飲料を亜希に渡そうとした時、偶然にも手が触れ合った。
その瞬間、大袈裟なくらいに肩をビクリと揺らした亜希に、ホークスは思わず動きを止める。柔らかい髪の向こう側にある耳は真っ赤に染まっており、亜希は電池が止まったかのように固まってしまった。
ホークスは亜希の膝上に落ちたゼリー飲料を見もしないで、その小さな手を掴み、漆黒の瞳を覗き込むように近付く。
「…」
「…なんで目、逸らすんです」
「…ち、近い」
「こっち見て」
しばらく彷徨うように揺れていた大きな瞳が躊躇いがちにホークスに向けられる。いつもキリッとしている眉は少しだけ困ったように下げられており、以前、彼女と二人で出掛けた時の照れていた表情と重なった。
どうして、こんなにも可愛い顔をするんだろう。まさか昨日何度もキスをしたこと、何度も好きだと呟いたことに気付いていたのだろうか。そう思いつつ握る手に力を込めると、亜希はまた視線を外し、小さな声を出した。
「あ、あの…ホークス」
「…ん?」
「…助けてくれて、ありがとう。昨日も言ったような気がするけど…」
「はい、聞きました」
ホークスの肯定に亜希は驚いたように顔を上げて、また重なった視線を慌てて逸らす。
…亜希はぼんやりと、唇に触れた柔らかい感触を覚えていた。何度も繰り返されたアレは一体何だったのだろう。同時に名前も呼ばれた気がして目を開けると、朧気な視界いっぱいに映るホークスらしき人物に。礼を言わなければと口を開いたような気がするが、曖昧な記憶は夢だったかもしれないと思っていたのに。
先程目が覚めて、右目に走る痛みに体を起こした時。自分の手にくっつくように眠るホークスを見てものすごく驚いた。いつものヒーローコスチュームのままの彼は、自分を助けてくれてからずっと傍にいてくれたのか。ということは、つまり…
亜希はそっと手を離し、夢じゃなかったのだと知る。なら、あの柔らかい感触は、まさか、彼の…
そこまで考えた時、顔に熱が集まるのを止められなかった。デートすらしたことが無かった亜希だが、今思えば彼の顔はかなり近かったし、公安局にいた頃に唐之杜と六合塚がそういったことをしているのは何度も目撃していたので、…知っている。だからこそ、疑問が浮かんだ。あれは、恋人同士や好きな人とするものではないのかと。
「(な、なんで……?ホークスが、私に…?)」
自分の唇を触ってみるが、記憶の感触が蘇って慌てて離した。いつも冷静に物事を考えられるのに、この時だけは思考が追いつかなかった。とりあえず落ち着こうと深呼吸をするが顔は熱いまま。
「(…ど、どうして…そんな、だって、ホークスはいつも一緒にいたけど、でも、そんな…え、え?)」
初めての、キス。それも寝ている時に、思い違いでなければ何度もされた…?自分の勘違いなのかとも考えるが、でも…でも、嫌じゃ、ない。
「(いやいや!な、何考えてるの私…どうしよう、ホークスの顔見れない…)」
恥ずかしすぎて頭を抱えると、ふと、枕元に何故かキュウリの一本漬けが転がっているのに気付き、亜希はそれを引っ掴んで頬に当てた。冷たいキュウリがひんやりと気持ち良く、一刻も早くこの熱をどうにかしたい。
近くにはコンビニの袋やゼリー飲料も置かれており、塚内の心遣いに感謝する。ガサリと音を立てながら袋を膝上に置くと、寝ていたホークスが身動ぎをしたものだから亜希はびっくりして咄嗟にキュウリの密封パックを開けて食べた。が、ポリポリと大きな音が鳴ったせいでホークスは起きてしまったし、亜希は誤魔化すように無心に食べ続けるしか出来ない。まさか直接本人に「私にキスしたのか」なんて聞ける勇気もなく…
そして、今に至る。
黙ったまま目線を泳がす亜希に、ホークスは吹き出した。
「…なに百面相してるんですか」
揶揄うように言うと、亜希は少し睨むようにホークスを見る。全く怖くない視線を真っ直ぐに見返すと亜希は相変わらず顔は赤いまま、伺うように口を開いた。
「…ホークス、あの…」
「…うん」
「あんまり覚えてないんだけど…昨日、泣いてた?」
亜希の問いかけに、ホークスは少しバツが悪そうにしながらも頷く。
「…安心、したから。だから、つい泣いちゃいました」
かっこ悪いでしょ?と努めて明るく言うと、亜希は首を横に振った。そして心配そうな顔でホークスを見つめる。
「…なら、空に連れて行ってくれた時は、どうして?」
問いかけに思わず黙るが、亜希は「涙の訳を教えてほしい…ずっと気になってた」と続けた。
ホークスが意を決して言おうと口を開いた時、病室にコンコン、と響くノックの音。至近距離で見つめ合いながら手を握っていた二人が咄嗟に離れた直後に、塚内と相澤が顔を出す。
「おはよう〜…あ、立花さん目が覚めたんだね。具合はどう?」
「腹減ってるだろうから食いもん持ってきてやったぞ…って、」
不自然に顔を背けている二人に相澤は「ほほう…」と意味深に呟くが、塚内は何も気付かないまま病室に入ってくる。そして、亜希の手元にある残骸を見て喜びの声を上げた。
「あ!キュウリ食べてくれたんだ!美味かったろ?」
「は、はい、ありがとうございました」
「お前…マジで食ったのかよ…」
笑顔を浮かべる塚内と呆れている相澤の登場に、先程まで真っ赤だった亜希はいつの間にか落ち着きを取り戻している。ホークスも表情はいつも通りに戻して平然を装うが、相澤がチラッと寄越したニヤついた視線には気付かないフリをした。
「立花さん、君に会いたいっていう子が来ているよ」
「…私に?」
塚内が病室の外へ声を掛けると、亜希が助け出した子どもがおずおずと顔を出した。目立つ赤い翼を見て「…ホークスだ」と声を上げる子どもに、ホークスは笑顔で手招きをする。
「どうしてもお礼を言いたいって」
塚内の言葉に、少しだけ恥ずかしそうにしながら部屋に入ってきた子どもは亜希のベッドまで近付いて、彼女に向かって何かを差し出した。
「…お姉ちゃん、助けてくれて本当にありがとう」
そう言った子どもは、折り紙で作った花を握っている。少しだけ歪なピンクの花を亜希が受け取ると、子どもは満面の笑みを浮かべた。
その表情に、亜希は胸が熱くなる。昨日は必死だったけど、こうして面と向かって、「ありがとう」と笑ってくれるなんて。亜希はなんだか泣きそうになるのを堪えて、子どもの髪を撫でる。
「…ねえ、君の名前は?」
「僕は啓悟だよ。お姉ちゃんは?」
子どもの言葉にホークスはドキリとした。同じ名前の人は沢山いるが、なんて偶然なのだろう、と。
「私は亜希。…啓悟くん、あの時、勇気を出して私を助けてくれて、ありがとう」
嬉しそうに笑う子どもに優しく笑いかける亜希。まるで自分に言われているようで、ホークスも嬉しくなる。
「ねぇ、亜希お姉ちゃんはヒーローなの?」
「私は…」
子どもの問いに、亜希は言ってもいいものかと言い淀む。仲間、と言われたとはいえ、一般人に名乗ってしまってもいいのか、と。
「亜希お姉ちゃんはね、刑事さんだよ」
だから代わりに、ホークスが答えた。亜希が少し驚いてホークスを見ると笑みを返され、彼の言葉に子どもは目を輝かせる。
「わあ!かっこいいなぁ、僕も将来、亜希お姉ちゃんみたいな刑事さんになりたい」
…監視官になんて、なりたくなかった。職業適性診断に従うしかなかったから、仕方なく刑事課に入った。そこで、狡噛に出会い、刑事としての生き方を教えてもらって、「刑事は誰かを刈り取る仕事ではなく、誰かを守る仕事」と言ってもらって…少しずつだが、刑事として生きることに誇りと信念を持つようになって。
そして、この世界にやってきて…まさか、自分のような刑事になりたいと言われる日がくるなんて。嬉しくて、たまらない。
「…啓悟くんなら、きっとなれるよ」
亜希の言葉に、子どもは顔を赤くして「えへへ」と恥ずかしそうに俯く。
「是非、是非なってほしい…ハァ、警察の人員不足、どうにかならないかな…」
「…いや、教師も人手不足だ。おい小僧、先生って手もあるぞ」
「ちょっと二人とも…子どもの前ですよ、黙ってください」
嘆く塚内と、悪い顔を浮かべる相澤。そして二人を諫めるホークスの姿に、亜希は笑う。そんな亜希を見た子どもが、
「…あのね、昨日の亜希お姉ちゃんの笑顔も可愛かったけどね、今もとっても可愛いよ」
にっこりと笑って言うものだから、亜希は目をパチクリさせてから顔を赤くする。その表情が先程の慌てていた時と同じで、可愛くて。ホークスは子どもの髪をポンと撫でながら、亜希に優しい目を向けた。
「ね、可愛いよね」
「な…」
顔を更に赤くしながら、何を言うんだ、という表情でホークスを見た亜希は、照れ隠しのつもりか手元のコンビニの袋を大袈裟なくらいガサガサと漁り、適当なお菓子を取り出して子どもに差し出す。
「クッキーだ!僕にくれるの?」
「塚内さんから貰った物だけど一人じゃ食べ切れないから。お花のお礼だよ」
「嬉しいなあ!塚内のおじさんも、ありがとう!」
「お、おじ…?!ハハハ…いいいんだ…うん…年長者だもんな…でもおじさん、か」
「お前…可愛ぶってんじゃねえよ。それくらい一人で一瞬で食うクセによ」
「うるさい」
若干泣きそうな塚内に、鼻で笑う相澤。悪態をつきながらもホークスを見ないように子どもと一緒にクッキーを食べだした亜希はやはり可愛くて、ホークスは「参ったな」と心で思う。
子どもから「塚内のおじさん、どうして泣いてるの?はい、クッキーあげるから元気出して」と声を掛けられた塚内は「…ありがとう、君は優しいね」と言って一緒に食べ始めた。その様子を横目に、相澤がホークスに耳打ちするように近付く。
「なあホークス、俺らが来るまで何してたんだよ」
にやりと笑う相澤にホークスはギョッとする。何って、まさか寝込みを襲うような形で何度もキスした上に、赤くなる亜希を揶揄うように詰め寄っていただなんて言える訳がない。
「べ、別に何も…ただ話してただけですよ」
「ふ〜ん、へえ〜?ま、そういうことにしといてやるか」
ふふんと笑う相澤にホークスは「イレイザーさんてこんな人だったんだ…」と思いつつ、平然を装って亜希に視線を向ける。
「あ、立花さん袋麺もあるよ。食べる?」
「それってお煎餅みたいにそのまま食べられますか?」
「うん、俺よくかじってる。時間がない時に閃いた食べ方なんだけど中々美味いんだよコレが」
「だ、だめだよ亜希お姉ちゃん、これお湯が要るよ」
「塚内さん、そんな食べ方すんのはアンタだけですよ…亜希、ほらゼリー食え」
昨晩とは打って変わって、和やかな雰囲気が病室を包む。
子どもの母親が迎えに来るまでの間、楽しいひと時を過ごした。
20200707