二度目の残酷


ひやり、冷たい感覚が身体中を覆った。次に燃えるような痛みが腹部に集まり、重い瞼を持ち上げる。真っ先に視界に入ったのは恐ろしい程に眩しい丸い何か。それが月であることに気付く頃には、脳が覚醒してから数秒が経っていた。徐々にクリアになる月の輪郭の周辺には小さな星が散り散りに敷き詰められている。

輝く夜空の下、亜希は脈打つ腹を押さえようと身じろぐ。どうやらコンクリート張りの地面に倒れているようだった。左上半身の感覚がなく、起き上がれない。右手には見慣れた黒い塊…ドミネーターがしっかりと握られていて、それを見た瞬間に自分に起こった出来事を思い出した。

ノナタワー、槙島聖護、高層階からの落下。

走馬灯のように流れる自分の経験に体が震えた。死を覚悟して意識を手放したのに、何故今も痛みに苦しみ、冷たさや熱さを感じているのか。暗闇に飲み込まれるように落ちたことを確かに覚えている。あの距離から落下して生きているはずがないのに、何故。

頭を持ち上げ辺りを見渡すが、高い壁に囲われたようなこの場所からノナタワーを確認することは出来なかった。落下の最中にノナタワーの骨組みの隙間に滑り込んだのかと考えたが、ホログラムで彩られた外観が全く見えないのはおかしいし、あんなにも明るいタワーの下で、こんなにも月がハッキリと見える訳がなかった。

混乱する亜希に、これは現実だと突きつけるように傷口から血が流れ出て痛みが広がる。ヘルメット男が放ったネイルガンで撃ち込まれた数本の釘が今も左肩と腹部で存在しており、少し動くと食い込むように皮膚の奥へと侵入してくる。息も絶え絶えになりながらも状況を把握しなければと体を動かすが、コンクリートに転がった体は重く、次第に冷えて感覚が消えていく。

ここは、どこなのだろう。死んでなお痛覚があるのなら、地獄と呼ばれる場所なのかもしれない。考えることを放棄し、システムの指示通りに潜在犯を…犯罪を犯していない人間を非情に裁いてきた報いを受けているのかもしれない。そう結論付け、もがくのをやめた。

その時、視界の端に何かが落ちてきた。月明かりに照らされるそれは、ふわりふわりとスローモーションで地面に着地する。羽のようなものだと思いながら顔を上げた亜希は驚愕した。頭上に現れたのは、まるで鳥のように、大きな翼を広げた何か。亜希を見下すように降りきて音を一切立てずに着地したその姿は逆光でよく見えない。しかし、自分の首を愉快そうに締め上げた男の顔と重なった。やはり、あの男は、


「悪、魔…」


呟き、亜希は右手を持ち上げる。もう僅かもない力を振り絞りドミネーターを目線に合わせると、聞き慣れた抑揚のない音声が辺りに響く。


『携帯型心理診断鎮圧執行システム、ドミネーター起動しました。ユーザー認証、立花亜希監視官。公安局刑事課所属、使用許諾確認。適正ユーザーです』


悪魔は動かない。大きな翼を広げたまま、月明かりを背にただ立っている。この武器が効かないと分かっていても、ついに悪魔が、人間の姿を被った悪魔が、真の姿を現したのだと、亜希はドミネーターを向けずにはいられなかった。そして照準を合わせ引き金に力を込めた瞬間、


『通信エラー。システムとのリンクを構築できません』


無残な言葉に苛立ち、亜希はずっと放さなかったドミネーターを地面に投げつける。そして何も持たなくなった右手を伸ばし、悪魔に近付こうと這うように力を込めた。脳裏に焼き付いた嘲笑う男の顔が浮かんで、亜希は声を絞り出す。


「槙…島、…逮捕…する…」


伸ばした右手が宙を掴み、全身から力が抜ける。今度こそ死ぬんだと亜希は思った。ここが現実なのか死後の世界なのか区別はつかないが、二度も、目の前の悪魔を捕らえることができないだなんて、なんて残酷なのだろう。悪魔がいるのなら、神がいてもいいのに。どうしたって、槙島には敵わない自分が情けなかった。
 
冷たいコンクリートに落ちるはずだった右手が、温かい何かに包まれる。それを疑問に思う余裕もなく、今度こそ亜希は意識を手放した。




20200518


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