離別
「君は、狡噛慎也の大切な人だ」
楽しそうに口元を引き上げて笑う男は、間違いなく悪魔だ。ギリギリと首に食い込む指に圧迫され、酸欠になった脳から色彩が消える感覚が体を支配していく。右手に握る役立たずなドミネーターを持ち上げ、揺らぐ視界で捉えた男の頭を殴ろうと振り上げるも、簡単に止められてしまった。
「もうすぐ、ここに奴が来るだろう。その瞬間に君を殺す」
堪えきれない笑いを零す男の名前は槙島聖護。公安局最強武器であるドミネーターが効かない犯罪者。
諸行無常に異論あり
――シビュラシステムに感知されない妨害ヘルメットが各地に配布され犯罪が頻発し、街中でサイコハザードが引き起こされた地獄の暴動の最中。偶然ノナタワーに一番近い場所で取り締まりをしていた一係監視官の立花亜希は、常守からの連絡により二名の執行官を連れてノナタワーに乗り込んだ。分析官である唐之杜からのデータを確認し、最優先事項である槙島聖護確保の為に屋上へと向かう。
出迎えてきた敵と部下の執行官が全滅し、亜希も左肩と腹部に深い傷を負った。大量の血を流しながら息を上げ屋上のドアを開けると、奥の螺旋階段から拍手をしながら降りてくる男。
「君が先に到着するなんて、予想していなかったよ」
「槙、島…聖護…」
常守のモンタージュで見た灰白色の長髪に冷たい瞳。分かっていても、亜希は右手でドミネーターを向ける。
『犯罪係数アンダー20、執行対象ではありません。トリガーをロックします』
役立たず。そう小さく呟いた瞬間、槙島は亜希に向かって走り出し、彼女の真っ赤に染まる左肩に足を振り落とした。激しい痛みと衝撃が全身に走り鮮血が散る。地面に転がった亜希を押し倒し跨った槙島は、亜希の左肩をなおも抉るように殴った。
あまりの痛みに気を失いそうになるも、亜希は右手でドミネーターを振り上げ槙島の脇腹に叩きつけ、腰をひねり膝で背骨に蹴りを入れる。少し咳き込んだ槙島は亜希から距離をとり、口元を押さえて笑みを浮かべた。
もう感覚のない左肩を煩わしく思いながら亜希も素早く起き上がり、唯一の武器である役立たずのドミネーターを強く握る。自分に勝算が無いことは承知しているが、応援がくるまで奴をここで引き留めなくてはいけない。笑顔のままの槙島に向かって走り込もうとした時、
「君は、狡噛慎也をどう思っている?」
静かな、問うような口調に、足が止まった。
「何、を…」
「隠さなくていい。君は奴を特別に感じている。違うかい?」
突然の言葉に何も言えなくなる。
―――狡噛慎也。
亜希が一係に配属された時から刑事としての生き方や考え方を教えてくれた先輩であり、部下であり、密かに想いを寄せていた男だ。
この気持ちは誰にも言ってはいないし、気付かれてもいないだろう。監視官の自分と執行官である彼は本来どうにかなる立場ではないし、彼の頭は三年前の…槙島が関わったとされる標本事件でいっぱいだ。それなのに、何故、この男が。
「僕はね、立花亜希。狡噛慎也のことはよく分かるんだよ。奴と僕は似ている」
「…狡噛さんは、お前みたいな犯罪者じゃない」
「酷いな。奴は立派な潜在犯だ、だから執行官なんだろう?」
「一緒にするな!」
槙島の懐に踏み込みドミネーターで殴り掛かる。槙島はそれを屈んで避け、右手で亜希の首を掴み上げた。地面から両足が離れ、視界が霞む。
「君は、狡噛慎也の大切な人だ」
「…ぅ、あ…っ」
そうであればいいのにと、思わずにはいられない程に意識が朦朧としていた。一瞬捉えた槙島の顔を見て、悪魔が実在するなら、きっとこの男のような表情をしているのだろうと思う。
ギリギリと首に食い込む指に圧迫され、酸欠になった脳から色彩が消える感覚が体を支配していく。右手に握る役立たずなドミネーターを持ち上げ、揺らぐ視界で捉えた槙島の頭を殴ろうと振り上げるも、簡単に止められてしまった。
「この銃は、殴るモノではないだろう?」
嘲笑う槙島の言葉に、だらりと垂れ下がる両腕。感覚のない冷たい左肩と、まるで縫い付けたように離れないドミネーターを僅かに握った右手。全体重が首にかかり、もう少しも動けそうになかった。
「もうすぐ、ここに奴が来るだろう。その瞬間に君を殺す」
槙島がそう言った瞬間、屋上のドアが大きな音を立てて開き、ほとんど意識の無い亜希の耳に声が響く。
「亜希!!」
僅かに視線を向けると、息を切らした狡噛が立っていた。何も言葉を発せられない亜希は、ただ視界にその姿を映すことしかできない。
「やぁ、遅かったね」
「その手を放せ!」
「ああ、分かっているよ」
ふ、と。亜希の体が大きく揺れ、首の圧力が消えた。冷たい空気と宙を舞うような浮遊感が全身を突き抜ける。亜希の視界に、楽しそうに口元を引き上げて笑う槙島と、目を見開いた狡噛の姿が入り込む。
外観を彩るホログラムを音もなく突き破り、亜希はノナタワーの屋上から投げ落とされた。寒く暗い闇に引き寄せられるように落下していく時、すべてがスローモーションに見えた。悪魔のような表情で自分を見下ろす槙島と、絶望に染まった顔で必死に手を伸ばす狡噛。その手に縋り付きたくとも、力ない両腕は体と共に重力に従い落下していく。どんどん小さくなる狡噛に、亜希は小さく、聞こえる訳もないのに自分の想いを口にした。
―――監視官になって二年。辛いことや悲しいことばかりの生活の中で、ただ一つ、心の支えだった。立場が違っても対等に接してくれた、強くなりたいと言うと格闘術を教えてくれた、そうして、いつも先へ向かって真っすぐに走る背中が、
「…好き、でした…」
どうか、彼が真実を掴めますように。
亜希が目を閉じる瞬間、ノナタワーを淡い光が一瞬、包み込んだ。
20200509