最期に想い出すのは
新鮮な空気の中に漂うガスの匂いが、まるで足跡の様に続いている。相澤の言う通り、逃げた男がガス“個性”を持っていたのだ。
淀む空気を目印にしながら夜道を駆け抜けた亜希は、大通りから外れた静かな道に佇む廃墟ビルの前で足を止める。塞がれているハズのドアが破壊されており、隙間からはガスが漏れ出ていた。
亜希は大きく息を吸い、廃墟ビルに乗り込む。重厚な空気に圧し潰されそうになりながらも辺りを確認するが、人の気配はない。代わりに、上階から足音が聞こえた。
部屋の奥に階段を見つけ、駆け上がる。上に行くほど濃くなっているガスが男がいる何よりの証拠だった。ドミネーターを構えながら左腕で顔を覆い、走る。
いつもの亜希なら息切れを起こすことなどないのに、充満する濃いガスのせいで足は重く、襲ってくる目眩に短い息が漏れた。それでも人質を絶対に助けるという強い思いを胸に、ひたすら前へ進む。
やがて、揺れる人影を見つけた亜希はドミネーターを持ち上げ、階段の上にいる男に向かって声を上げた。
「止まれ!」
「なっ…だ、誰だ!来るな!」
「動けば撃つ、大人しくしろ」
屋上のドアの前。振り返った中年の男は亜希に気付いて驚愕したが、すぐに子どもを盾の様に抱きかかえて睨む様に見下ろした。
子どもはガスのせいで気を失っているのか、ぐったりとしている。男は子どもの小さな頭を鷲掴みにし、力を込めた。
「物騒なもん下ろせ、このガキの頭を潰すぞ!」
「…」
ゆっくりとドミネーターを下ろした亜希に、男は「それをこっちに投げろ」と言い放つ。亜希は迷わずに即ドミネーターを上に向かって高く放り投げ、男の視線がそれを追うように外れた、瞬間。
階段を一気に駆け上がり、掌で男の顎を下から突き飛ばすように弾いた。間髪入れずに横腹に蹴りを入れ、階段から突き落とす。短い呻き声をあげた男の腕から放された子どもを受け止めた時、転がる様に落ちた男が胸元から何かを取り出すのを横目に捉えた。
「…ッ、クソが!死ね!!」
先程ショッピングモールに投げ入れた物と同じ、爆弾。自分に向かって投げられた黒い塊を避けた亜希は子どもを抱き上げて目の前にある屋上のドアに体当たりした。
同時に鼓膜を破るような音と猛烈な衝撃が背中に叩き付けられ、吹き上げる熱風に押し出される様にドアを破り、勢いのままに弾かれる。
まるでボールのように跳ねた体がゴロゴロと転がり、やっと止まった亜希は全身を包む熱さと痛みに上手く息が出来ず、咽るように咳き込んだ。
「うっ、ゲホッ…、ゴホッ、く…っ、…うう…」
言葉にならない声が喉に張り付き、体が強張った。その時、腕の中で何かが動いて、ハッとして重い目を開ける。抱き締めていた子どもが目を覚まし、亜希のことを見上げていた。
「…お、姉ちゃん…誰…?」
少し火傷はしているかもしれないが、大きな怪我はないようで亜希は安心する。息を整えるように短い呼吸を繰り返し、重い体を引きずるように起き上がらせて、困惑する子どもを見つめた。
「…助…け、…に、っ、来…た」
衝撃で喉がやられたのか、うまく言葉が話せなくて自分が思っているよりもずっと小さな声しか出ない。それでも子どもは安心したのか亜希を見て泣き出した。わんわんと泣く子どもに何と声を掛ければ良いのか分からなくて、どうしようかと途方に暮れた時。
ふと、彼のことを思い出した。
「…亜希さんは、笑顔が似合いますね」
そう言ってくれた彼は、いつも笑いかけてくれていた。亜希がどんなに無表情で、反応しなくても、楽しそうに笑ってくれていた。彼の笑顔は、どんな時も、亜希を安心させるものだった。
亜希は泣き続ける子どもの頭を撫でる。そして顔を上げた泣き顔に向かって、小さく笑いかけた。
「…お姉ちゃん…」
どうか、安心してほしい。その気持ちを込めて見つめると、子どももまた、小さく笑った。
「助けに来てくれて…ありがと、お姉ちゃん」
亜希が頷いた時、轟轟と炎を吐き出す屋上の入り口に人影が見えた。子どもを背後に庇うようにして亜希は立ち上がる。体が重くて痛くて、少しでも力を抜いたらすぐに倒れてしまいそうだった。
「…コ、こロ…殺ス…」
呟くのは、ガス“個性”の男。右手には亜希が放り投げたドミネーターを握っている。爆発の影響か全身焼け爛れており、剥き出しになった皮膚から体液を垂れ流している男は、焦点の定まらない目に殺気を込めて亜希を睨んでいた。
普通なら死んでいる。命を取り留めたとしても動ける様な怪我ではない。亜希達を道連れにする様に爆弾を投げた男は、自爆したのと変わらない程に近距離で被爆したはずなのに。
異常すぎる男は震える手でドミネーターを持ち上げ、銃口を向ける。後ろで悲鳴をあげる子どもに亜希はもう一度笑いかけてから、男の真正面に立った。
男が引き金に力を入れた瞬間、ドミネーターの装甲が赤く光る。
『不正ユーザーです。トリガーをロックします』
響く、抑揚のない音声。男が何度撃とうとしても引き金が動くことはない。
亜希は息を大きく吸い込んでから男に向かって走り出した。思うように動かない足と朦朧とする意識を跳ね除ける様に、今の自分が出せる精一杯の速さで男に近付く。
ドミネーターに気を取られていた男は目前まで迫った亜希に驚き、逃げようとするが、亜希の方がずっと速かった。
僅かに残っている男の服の胸倉を掴み、渾身の力で背負い投げ地面に叩きつける。その反動で亜希も倒れ込むが、すぐに起き上がって男の手からドミネーターを取り返した。
だらりと垂れた男の腕から何かが落ちる。拾い上げると、注射器だった。足元で倒れている男の首筋を確認すると赤黒く腫れておりドクドクと脈打っている。
この男もブースト薬の使用者なのか。そう思った瞬間、男がガッと目を見開いて勢いよく起き上がり亜希の首を掴んだ。
反応が遅れた亜希は押し倒され、上半身に乗った男に首を絞められる。男の腕に爪を立てるが力が緩むことはなく、食い込んでくる指はギリギリと力を増した。更に男は爆発の影響で生じた瓦礫を片手で掴み、それを亜希の頭に向かって叩き付ける。割れる様な衝撃と痛みが襲い、意識が一瞬飛んだ。
駄目だ、持たない。
そう思った瞬間、亜希の首を絞めていた腕がパッと離れて解放された。
「う、うわああああ!!放せえええ!!」
子どもが、男に体当たりしたのだ。恐怖に染まった顔で、泣きながら、震えながら。でも勇敢に。
亜希が咳き込みながら視線を向けると、子どもに馬乗りになっている男の後ろ姿を見つける。立ち上がりたくても、体は言うことを聞かなくてうまく動けない。
亜希は重い腕を持ち上げてドミネーターを構え、至近距離にいる男の頭に銃口を向け、撃った。
今度こそ倒れた男は、もう動かない。生きているのが不思議だった程の重体に、麻酔銃の威力は実弾と同じだっただろう。とどめを刺した亜希は蹲る子どもに這う様に近付く。
涙でぐちゃぐちゃの顔で、子どもは気を失っている。どこか笑顔が浮かぶその表情がホークスと重なった亜希は、思わず子どもの髪を撫でた。
こんな小さな体で、自分を助けてくれた子どもを、早く病院に連れて行かなければ。そう思うのに、ここはビルの屋上で唯一の出入口は炎が燃え盛っている。ビルは高く飛び降りることも出来ない。自分に赤い翼があれば、すぐに飛び立っていくのに。
それでも、何とかして脱出しなければ。爆発が起こった廃墟ビルが崩壊するのも時間の問題だ。
必死で立ち上がり、子どもを抱き上げる。右側の額からは血が流れ出ている感覚がして、右目を開けることができない。
屋上に柵は無く、見下ろしてもクッションになるような物は何も無かった。消防車とパトカーのサイレンが聞こえるが、まだ遠い。
何か屋上に役立つ物は無いかと見渡した時、倒れている男の体から黒い靄が噴出していることに気付いた。その靄から流れてくる匂いに、亜希は咄嗟に子どもを抱き締めて背中を向ける。
その直後、男の死体から流れ出た靄…ガスに炎が引火し、辺りは一瞬で火の海となった。強すぎる爆風が吹き上がり、屋上から弾き飛ばされた亜希の全身を、冷たい空気と浮遊感が包む。
亜希は子どもを強く抱き締めながら、この世界にくる直前の出来事を走馬灯の様に思い出した。
ノナタワーから落下した、あの時。
狡噛が伸ばしてくれた手を掴めなかった、あの瞬間。
憧れ、尊敬していた人の絶望に染まった表情が、ずっと心に染み付いていたのに。
なのに、今、頭に浮かぶのは。
「…気付いてないんですか?よく笑ってますよ」
そう言って笑ってくれた、彼の笑顔。
こんなにも鮮明に思い出す、誰よりも自分を安心させてくれる優しい表情。いつも笑いかけてくれたホークスのこと。
…今度こそ自分は死ぬんだろう。なのに、最期の瞬間まで頭の中を占める彼の笑顔に安心して目を閉じる。でもどうか、せめて腕の中の子どもだけは助かってほしい。そう願った時、
太陽のような匂いが鼻を掠めた。
重力に従って落下していたはずの体がふわりと浮かび、温かい、何かに包まれる。
「亜希さん!」
目を開けて一番に飛び込んできたのは、笑顔を想い出していた彼の、切羽詰まったような表情。その名を呼びたくても上手く声が出せない亜希は、小さく笑った。
「…ホー、ク…、ぅ…」
ホークス。
貴方はいつだって、助けに来てくれるんだね。
そう思いながら、亜希は意識を手放した。
20200705