偽りのない景色


亜希がこの世界に来て、早くも一週間が経った。

宿泊場所としてホークスと同じホテルが用意された。警察の管轄であるというこのホテルは清潔感があり広い。長期滞在を見越して金銭も給付され、協力を依頼された立場とはいえあまりの好待遇に最初は戸惑ったが、この世界で行くところがない亜希は警察からの申し出を受け取るしかなかった。

そんな亜希に気を遣ってか、塚内は言いにくそうにしながらも「別世界の人間の存在を公にできないから、言い方は悪いけど…上層部は君が目立った行動をしないように監視下に置きたいんだ」と正直に教えてくれた。

ホークスからも「まあ経緯はアレですけど俺もいるし、ホテル自体は快適なんであんまり気にしなくて大丈夫ですよ」と言葉を掛けられ、納得する。

亜希は公安局のジャケットをハンガーに掛け、一人では広すぎる部屋の窓辺に近付いた。


――鉄骨落下事件の男は、現在入院中。ブースト薬の後遺症のせいでまともに話すこともできないらしい。体内に残った成分量が少なく初犯とのこと。たった一本であんなにもおかしくなってしまうとなれば、一気に三本のブースト薬を摂取したであろう電気“個性”のヴィランはしばらく動くこともままならないだろう。

実際、亜希が巻き込まれた事件を最後に、爆発や人が瞬間移動するといった事件は起きなくなった。塚内は最低でも一か月くらいは大人しくしているのではと予想している。


「(…一か月…長いな)」


亜希はカーテンを開けて、夜景を見渡した。キラキラ輝く数多の光が自分のいた世界よりも眩しく感じるのは、この景色の中にホログラムという偽物が一つもないからなのかもしれない。

ふと、暗闇に浮かぶ月に一つの影が映った。最初は小さな黒の点だった影はどんどんとこちらに近付いてきて、それが黒ではなく赤だと認識した頃には、亜希の目の前のガラスを隔てた先に翼を羽ばたかせたホークスがいた。

彼は口を「また明日」と動かし、笑みを残してまたどこかへ飛んでいく。その姿を追おうと目を動かすが、彼はあっという間に見えなくなった。

次いで、夜景を背景に無表情な女の顔がガラスに映る。自分は本当に笑わないんだなと思った。彼は、ホークスはいつも嘘くさい笑顔を張り付けているが、時々先程のような柔らかい表情をする。


「私とは正反対…」


彼には「自分が思っている以上に表情豊かですよ」と言われたが、そうとは思えない。亜希は充電器に差したドミネーターを横目に、監視官として執行してきた多くの人間の最期の表情を思い出した。


「やめてくれ!俺はまだ何もしていない!」

「なんで公安が?!いや…っ、誰か助けて!」

「この人殺し!お前らなんか人間じゃねえ!」



シビュラの判定は絶対だ。数値が全てを判断し、犯罪係数が規定値を超えた者には容赦なくドミネーターを向けた。絶望に染まった顔で懇願する者、逃げ出そうとする者、罵倒する者。全てに一切の情を与えずに断罪してきた。

何も感じなかった、これが正しいやり方だと信じて疑わなかった。

槙島にドミネーターが効かないと分かった時、殺すしかないと言った狡噛の意見に、亜希もそうだと思った。新たな犠牲者を出さないためには槙島を消すしかないと。

ドミネーターが効かないということはシビュラの判定がないということ。シビュラの基準で潜在犯を執行してきた自分達刑事課が、その基準を無視して命を奪うことは間違っているのかもしれない。それでも亜希は狡噛の判断が正しいと思えたし、亜希にとっては彼こそが正義だった。


「(狡噛さんは、槙島を…)」


殺せたのだろうか。ノナタワーから落下した後、二人はどうなったのだろう。狡噛がいたということは常守もいたに違いない。彼女は槙島を逮捕して罪を償わせると言っていたが…狡噛はきっと、聞きはしないだろう。

槙島は殺すべき人間だ。新たな犯罪を生み出さない為には殺すしか方法がない。けれど、どこか釈然としないのは…あまりにも違うこの世界で見える景色のせいだと亜希は思う。


「(…明日も早い)」


考えても仕方ない、と、カーテンを閉める。ホークスはきっと夜のパトロールだろう。彼はあの翼で東京外まで飛び回って捜査をしているらしい。「人使い荒いんですよね」と愚痴をこぼしつつも毎晩空を駆ける彼は真面目だ。





▽▽▽





電気“個性”のヴィランはしばらく動けないかもしれないが、いつまた事件が起こるか分からない。その為、亜希はホークス、塚内とともに日々捜査をしている。主にホークスは空から、塚内と亜希は地上から街中を調べ、ブースト薬の出所についても同時進行で調査を進めていた。

朝から晩まで東京中を捜査していく中で、亜希は沢山のヒーローを見かけた。様々なコスチュームを身に纏い、道行く人に笑顔を振りまいては、どんな小さな声であっても助けを求める声に応えているヒーロー達の姿を。

中でも、ホークスの活躍は凄かった。

彼自身は空にいるはずなのに、赤い羽を器用に飛ばして転びかけた子どもを助けたり、老婆の重い荷物を運んだり、道路に飛び出した猫まで救っている。

更に彼は人気者らしく、たまに地上に降り立った時は人に囲まれて写真を撮られたり、サインを頼まれたりしていた。彼の周りは常に笑顔で溢れており、人々はホークスのことを心から信頼しているように見える。

そんな光景を離れた場所で見ながら、亜希は街を見渡す。ここには偽りのモノが何もないのだ。景色も、人々の笑顔も、聞こえる声も、全て。

シビュラシステムは確かに安寧をもたらした。世界で唯一、安全が約束された日本。それが数値により管理され統治されたものであっても人々は受け入れ、享受した。そしてシビュラの目として動く刑事課は、その平和を脅かす者を排除する存在。

市民を守るため、亜希達はドミネーターを握ってきた。その行動の軸はヒーローと同じはずなのに。

嬉しそうに「ホークスありがとう!」と笑顔で言う子どもに、ホークスはひらひらと手を振って空へと戻っていく。

ヒーローと同じ“人を助ける”行為をしていたはずの亜希は、あの子どものような笑顔を向けられたことがなかった。けれど…


「…色々ありましたけど。でも、さっきは助かりました。ありがとう」


初めて言われた感謝の言葉に、ひどく戸惑ったことを思い出す。結果的に助けたとはいえ翼の大半を消し去った自分に…ボロボロなのは彼の方だったのに…なのに、彼はどうして自分にありがとうなんて言えるのだろうか。

ホークスが空に飛び立つと、集まっていた人々はゆっくりと解散していく。その様子をじっと見ていた亜希の隣で、地図を広げていた塚内が声を上げた。


「立花さん、俺はここの喫茶店周りを張るから、君は向こうの公園周りをお願いできるかな」

「分かりました」

「じゃあ、何かあったら電話して」


喫茶店へと入っていく塚内を横目に亜希は腕時計型デバイスを起動させた。空中に浮かび上がったホログラムがディスプレイとなり、周辺の地図が表示される。同じ東京だが地形は全く別だと思いつつ、指示された公園までのルートを確認する。

腕時計型デバイスはネット回線を繋げば問題なく使うことができた。スマートフォンは持っていなかったが、このデバイスがあれば通話もメールもインターネットもできる。何度か狡噛や常守に通信を試みたが、亜希がいた世界と繋がることはなかったが。

デバイスを見た塚内が「なんて便利!俺もこれ欲しい!」と興奮しながらも、捜査に役立つだろうとこの世界の地図やナビゲーションのデータを入れてくれたのは有難い。

指定された公園に向かいながら、亜希は街を見渡す。ドミネーターはそのまま持っていると目立つからと、腰に仕舞えるホルスターを発目が作ってくれた。少々歩きづらいが、確かにあんな大きな銃をそのまま持っているとパトロール中のヒーローにすぐ呼び止められそうだ。


「…ん?あれ…ここは…」


いつの間にか入り組んだ細い路地に入ってしまった亜希は、地図と現在地を照らし合わす。どう見ても目的地の公園ではなかった。ディスプレイの地図をよく見ていたはずなのに迷ってしまった亜希はナビゲーションを起動するが、ネット回線が弱い場所なのか更新されない。周りに聞けそうな人もおらず、さてどうするかと立ち止まると、頭上から何かがひらりと落ちてきた。

赤い羽。亜希が顔を上げると、翼を羽ばたかせながら降り立つホークスと目が合う。


「道に迷いましたか?」

「…どうして」


この広い空を飛び回っているはずなのに、何故。驚く亜希に、ホークスは笑顔を向けた。


「ちょうど亜希さんの姿が見えたから。この辺ややこしいんですよ〜」


空中に浮かびあがるホログラムを覗いた彼は「えっと、目的地の公園ですね…こっちです」と、案内するように亜希の前を歩き出す。


「…随分、目が良いんだね」

「空からだと色んなものが見えますから」


転ぶ子ども、重い荷物に困る老婆、飛び出す猫、そして道に迷う自分。数値で監視するシビュラシステムだと拾いきれないような小さな助けを、彼は一つも取りこぼすことなく拾い上げている。
ドミネーターという武器を持っている自分でさえも助けてくれる彼は、


「…監視しているの?私を」


異世界からきた自分は、この世界に相反する存在で危険因子だろう。亜希が小さな声で問うと、


「困っている人を放っておけないだけですよ」


そう言って笑う彼の笑顔は、やはり眩しい。何も言えなくなった亜希がホークスの後ろを歩き出そうとした瞬間、


「うわああああ!」


誰かの叫び声と、激しい地鳴り。

ホークスは瞬時に飛び立ち、亜希も走り出した。




20200625


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